Museum of Trading Ceramics [ホイアン/ベトナム Hoi An, Vietnam] [ 1 ][ 2 ][ 3 ] |
その後、16世紀になって、広南阮がホイアンに拠点をつくり、対外貿易に力を入れ、ホイアンは国際交易港としてさらに発展する ことになった。 因みに、広南阮が広南鎮府となって、ホイアンを拠点に外国貿易に乗り出したのは1570年とされる。
1604年に徳川幕府は朱印船制度を確立し、日本から多くの朱印船が寄港し、その後日本人町が栄えた。
朱印船はかつてトゥーボン川(Thu Bon River)を遡ってホイアンに着いた。
1617年には、ホイアンの日本人町は数百人にも達したといわれる。
現在でもその痕跡が残る。例えば、ホイアンのシンボル的存在である「日本橋 (来遠橋)」、日本人の墓、肥前磁器の出土、
ダナンとホイアンの間にある南シナ海沿いの五行山にある寺の碑文などである。17世紀には日本人町、中国人町もでき最盛期を迎える。
日本人町は、江戸幕府の1635年の鎖国政策の断行によって徐々に衰退して行った。
ただ、鎖国後も中国・オランダ船で日本・ベトナム間の交流は続いていた。そのため、ベトナムの遺跡から17世紀後半の
肥前磁器(伊万里焼)が
出土したりしている。
日本人町の衰退後は、中国人町が繁栄するようになった。1768年には中国人町には6,000人が居住したとされる。
1700年代後半から中国人によって築造され、ホイアンに現在見られる何百戸という木造家屋の街並みは、18世紀後半から受け継がれて
きたものである。
ホイアンの旧市街の歴史地区には、500軒以上の伝統的な町家の他、中国の寺院・会館や市場などが残される(旧市街は1999年に
ユネスコ世界文化遺産に登録された)。
だが、ホイアンは1771年~1802年に西山党の乱のため被災し衰退して行った。尚、1802年には、阮朝(グエン朝)によりベトナム
統一がなされた。
ベトナムの船モデル
1.[拡大画像(x25008.jpg)] 2.[拡大画像(x25009.jpg)] 3.[拡大画像(x25010.jpg)] 沈船から引き上げられた陶磁器など 関連サイト: チャム島沖の沈船から引き揚げられた陶器 [ベトナム/ホイアン/海のシルクロード博物館(貿易陶磁博物館)] 1 2
1. トゥーボン川の河口の地先にはクー・ラウ・チャム島(Cu Lao Cham)という小島がある。その昔、川を遡行するに当たっての
風待ちや水の補給の基地となっていたと考えられている。 チャム島からは、9世紀前後のイスラム陶器、イスラムガラス、中国の越州窯青磁、
長沙窯陶器などが出土しており、 ホイアンがチャンパ王国時代に東西交易の中継基地となっていたことを示す証左であるとされる。
貿易陶磁博物館で見ることができるそれらの遺物の一部である。
パネルでは次のように記されている: "Artifacts from a ship wreck in Cham Island, which their origin from Viet Nam and China.
15th-16th Century"。 [拡大画像(x25019.jpg)][拡大画像(x25021.jpg): 陳列棚全体]
2. トゥーボン川の河口の地先に浮かぶクー・ラウ・チャム島(Cu Lao Cham)の写真画像。
[拡大画像(x25020.jpg)][拡大画像(x25022.jpg): 英文説明書き] 辞典内のその他の関連サイト
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