一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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東京湾の深川地先海面における海苔養殖

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1. 画像 1 では粗朶篊(そだひび)(木篊・きひび)が立てられ、海苔採り船(べか船)らしき船が3艘浮かんでいる。このことから、 写真は海苔養殖場をとらえたものである。展示パネルによれば、撮影場所は不明とされるが、東京湾内と考えられると記される。 写真中央奥に見える数本の木は、砂州に立てられた澪杭(みおぐい)(船が通航する澪の標示杭)の一つのようである、と説明 される。撮影時期は明治後期から大正期の中頃と推測されるという。 [拡大画像: x27827.jpg]

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2. 画像 2 は1960年(昭和35年)当時の湾内の海苔養殖場を俯瞰した写真である。 その昔「江戸前」と呼ばれた江戸湾の沿岸地先の遠浅の海は多くの市民に親しまれた。また、海苔養殖をはじめ、魚貝類の 好漁場であった。しかし、その後の工場・生活排水などによる海洋汚染、埋め立てなどのために、浅海域では次々と漁業権の 放棄を余儀なくされた。写真オリジナル:「東京都内湾漁業興亡史」収録。 [拡大画像: x27828.jpg]

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3. 画像 3 は1907年(明治40年)に作成された「東京府 従多摩川至江戸川 海苔採場実測図」である。多摩川から江戸川までの海苔養殖場が 漁業組合ごとに区画され色分けされている。それらの地先に広がる遠浅の砂州は養殖場でほぼ埋め尽くされている。 図左下隅に見える川が隅田川で、川口に佃島と2つの月島が見える。隅田川上方の次の川が中川である。隅田川の澪(航路筋)を 下って出た辺りは品川や大井町の地先水域での海苔採場である。[拡大画像: x27829.jpg]


都内江東区の中川船番所資料館では、海苔づくりの工程や江東区とその周辺部における海苔養殖の歴史について、写真パネルや 史料などで展示している。画像1-3の出典は同資料館である。

同資料館の展示パネルによれば、海苔養殖は江戸時代中期に品川・大森辺りで始まり、明治期に入ると東京湾の各所で行われた。 そして、湾内での養殖業が発展過程をたどり一大産業化する一方で、その後の工場・生活排水などの流入による海洋汚染、さらに沿岸部の 埋め立てなどによって、海苔養殖の生産環境は悪化の一途をたどった。その結果、東京オリンピックを2年後に控えた1962年 (昭和37年)、都内の漁業協同組合は東京都の漁業補償を受け入れて漁業権を放棄した。


海苔づくりの工程について(同資料館の展示パネル参照)

    (1) 海苔の種(胞子)を付着させ育てるために浅海の海中に篊(ひび)を建てる。江戸時代から大正中期頃までは木、昭和の初め頃までは竹、 それ以降は網の篊 (ひび) が主流となった。
    (2) 篊に種が付いてから1か月ほどで海苔が15㎝ほどに成長する。11月中旬頃から海苔の摘み取りが始まる。 12月と1月が収穫の最盛期である。摘み取りは、べかと呼ばれる小舟に乗って行われた。収穫された海苔は笊(ざる)に入れて海水で洗った。
    (3) 収穫した海苔を細かく刻むのに、飛行機包丁が編み出された。2~3枚の刃を平行に並べたもので、複葉式飛行機のような形であった ことからそう呼ばれた。
    (4) 刻んだ生海苔を真水の入った樽に入れ、升ですくい、ヨシ(葦)で造った海苔簀 (す) の上に四角い木枠を乗せ、 そこに流し込み、海苔を均一に広げて、四角い干し海苔を作る。紙抄きの要領そのものの工程を経るが、この海苔づくり作業を 海苔つけという。
    (5) 海苔簀に付けた海苔は天日で自然乾燥させた。乾くと簀からはがし、10枚1帖に束ね平箱などに入れて出荷した。

[画像撮影: 2017.2.26 東京・江東区 中川船番所資料館(Nakagawa museum of ship traffic control station during the Edo period)にて]

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画像 4 : 1885年(明治18年)5月、江戸川区の深川9町、南葛飾郡の7村、東葛飾郡の3村の計19町村は、都知事に海苔採場 (養殖場) 開設願 を申請した。その後同年10月にその関連文書として追加提出されたのが、この図式資料である。開設は翌年に認可された。  [拡大画像: x27830.jpg]


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