一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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江戸時代の古地図 (明和・1700年代) に記される佃島と石川島


1. 撮影年月日: 2018年6月27日

2. 撮影場所: 東京都中央区佃の「佃まちかど展示館」

3. 古地図の正確な作成年代は不詳であるが、同地図左下隅に「明和8年」という記載が読み取れることから1770年代の作成と推察される (元号・明和は1764年-1772年までの期間の元号; 江戸幕府の徳川家治の時代に当たる)。地図中央左寄りに記される江戸城周辺、 特に左方には諸藩の大名・武家屋敷が居並ぶ。

地図下方には江戸湾へ注ぐ大川(隅田川)が見える。その最左が河口に当たる。そして、江戸時代1644年に埋め立てられた佃島が赤い矢印で 示される。その右側にある小島は石川島である。隅田川に架かる橋は、最左から永代橋、新大橋、両国橋である。 両国橋のすぐ上流で神田川が注ぎ出る。中央右端にある池は上野の不忍の池である。神田川は江戸城東方にて2方向に分かれ、江戸城の外濠の 水源として利用されている。両国橋のすぐ下流には、江戸時代初期に開削された運河の小名木川(オナキ川)が見える。

「佃まちかど展示館」の案内板には次のように記されている。

    「佃島は、摂津国西成郡(現在の大阪市西淀川区)佃村・大和田村の漁師たちが、大川(隅田川)河口付近の干潟百間四方を拝領し、正保元年 (1644年)に埋め立て造成した島です。故郷の名をとり佃島と名づけられました。漁師たちは移住以来徳川将軍へ日々の鮮魚を献じて いました。特に白魚は将軍の食膳に不可欠なものだったといい、今も佃島漁業組合に白魚献上箱が伝えられています」
[古地図の拡大画像: x28260.jpg]


「現在地」(赤字)に「佃まちかど展示館」がある。
中央区緑地課設置の案内図より。




[参考資料]


拡大地図はこちらです。 [拡大画像(x28543.jpg)]

画像は明治初期に作成された、隅田川河口の石川島・佃島周辺の縮尺5千分の1の地図(一部)である。中央の石川島・佃島の最上部に「石川嶋造舩場」 を見て取れる。その下の中央部に「石川嶋監獄署」(茶色に塗られた建物群)が立地する。その左下には住吉神社が建つ 「佃嶋」の密集家屋が細かく描かれている。佃嶋は東西2つの島からなり、一本の橋でつながれている様子も見て取れる。

石川島には江戸時代、軽犯罪者や浮浪者なのどの立ち直りを図る厚生施設である「人足寄場」があった。そして石川島監獄署となり、その後東京 石川島造船所へと変遷し、さらに石川島播磨重工業の造船所へと発展してきたが、国際競争の荒波に翻弄され、ついには石川島から撤退を 余儀なくされた。

地図の出典: 「5千分の1東京図測量原図」より。キャプションによれば、明治16~17年(1883-84年)に、参謀本部測量局が測量した原図を繫げて作成 されたもの。建物や庭池の形まで表現されており、文明開化期の東京の様子がわかる、と記される。現資料: 国土地理院蔵。
画像撮影地: 「新宿歴史博物館(Shinjuku Historical Museum)」の地図・測量に関する特別展示会にて/撮影日 2019.11.15。


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