一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
「
その昔、古くは平安時代に、平清盛が日本海と琵琶湖とを結ぶ運河の掘削を試みた。その後も大谷吉継らが計画したが、頓挫した。
敦賀湾(敦賀湊)と琵琶湖北岸とを結ぶ運河計画は幾度となく立てられては頓挫してきたが、敦賀湾と疋田の間約7㎞において、
その一部だけが実際に開通した。開通時期は、疋田が「疋田の宿」として栄えた江戸時代後期の1816年のことである。
運河は「敦賀運河」、別名「疋田舟川」あるいは「愛発舟川」と呼ばれる。現在疋田の集落内を流れる石造りの水路はその舟川跡である。
集落の家並みに沿って600mにわたり続く水路は、近年改修され幅も狭くなっているが、舟川の遺構として保存されている。
米や海産物を積んだ川舟を舟川の両岸から人力で曳き、疋田からは陸路で峠を越え、さらに琵琶湖上経由で京都に運ばれた。 画像は疋田に設営される「愛発舟川の里展示室」において展示される川舟の模型である。 舟川は底が浅かったので、手舟を曳き易くするために、鉄路の枕木のような「胴木」があちこちの川底に並べられた。
展示室の「水と史の回廊 暮らしに生かす疋田舟川」と題する説明パネルには次のように記される。
米俵、茶、酒・醤油を積載した川舟模型のキャプションでは、運河輸送について次のように記される。
なお、この川舟は、敦賀市の藤田守氏によって、高瀬舟を参考に5分の1の大きさで製作された。
疋田舟川で運ばれた主な物資は、上り荷が米や海産物、下り荷が茶などであった。上り荷のうち最も多いものは米であった。敦賀湊に 陸揚げされた米は、川舟で疋田まで運ばれ、疋田からは陸路を牛や馬で琵琶湖北岸へ、そこから舟で大津まで運び京都へと達した。 下り荷のうち最も多いものは茶であった。特に美濃茶は、疋田からこの舟川を利用して一旦敦賀湊まで運ばれ、そこからさらに遠く越後、 出羽、奥羽、蝦夷方面に運ばれて行った。 疋田の舟川・街道筋には「舟川の舟溜 (ふなだまり) 跡」を紹介する立札がある。次のように記される。
[参考] * 深坂古道: 敦賀から近江塩津にいたる最も古い古道。現在、追分から滋賀県堺までの1.8kmの古道が残される。 敦賀から塩が運ばれたので「塩の道」と呼ばれる。平安時代に、紫式部もこの道を通った。 [画像撮影: 2017.10.14 福井県疋田の「愛発舟川の里展示室」にて][拡大画像: x28031.jpg] |
1 2 1&2. 江戸時代から宿場町として発展し、その風情や面影を今に残す疋田の街道筋。荷を運ぶ喧騒や交易の歴史的雰囲気を感じさせる。 街道筋の中央を水路が貫くが、これが1816年に設けられた運河(舟川)の遺構である。画像2の中央上寄りの建物は「愛発舟川の里展示室」。 [拡大画像: x28113.jpg][拡大画像: x28114.jpg]
3 |