一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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日本・満州間の連絡船4景
+ 敦賀における港湾・鉄道発展略史 (欧亜国際連絡列車の開通含む)

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1.さいべりあ丸[拡大画像: x28023.jpg] 2.気比丸[拡大画像: x28024.jpg]
  3.熱田丸[拡大画像: x28025.jpg] 4.はるぴん丸[拡大画像: x28026.jpg]

画像の写りは余り良くないが、貴重な写真であるのでここで紹介する。 画像は、日満連絡船として就航した4隻の船である。上から「さいべりあ丸?」、「気比」、「熱田丸」、「ハルピン」である。 出典は敦賀市街区のウォーターフロントにある旧敦賀港駅舎(敦賀鉄道資料館)である。

1882年(明治15年)3月、工事が難航していた敦賀と長浜との間にある「柳ヶ瀬トンネル」(1,352m) を除いて、長浜・金ヶ崎(または金崎;  敦賀の港のあった地)間の鉄道が部分的に開通した。その2年後の1884年(明治17年)4月になって、長浜・金ヶ崎間の42.5kmが全通開業した。 そして、1902年(明治35年)1月、対岸の大国ロシアではシベリア鉄道がウラジオストク・ハバロフスク間において開通した。

他方、海運にあっては、1896年(明治29年)、敦賀港が開港外貿易港に、さらに1899年(明治32年)7月には「開港場」に指定され開港した。 開港場とは、外国船の入港が公式に認められた外国貿易港のことである。 1902年(明治35年)3月からは、敦賀を含めた日本海沿岸諸港を巡る航路(「日本海命令航路」; 日本海にて環海 就航する航路)の開設において、敦賀とウラジオストク間については往復の定期直行航路船が就航した。

1910年(明治43年)4月からは、敦賀は、関門、長崎とともに当時の満州や沿海州との連絡ルートとなった。 そして、1911年(明治44年)3月から、シベリア鉄道経由でヨーロッパにいたる欧亜国際連絡列車の運行が開始された。

1912年(明治45年)6月16日のダイヤ改正で、週3回(毎週日・火・木曜日に)、新橋・金ヶ崎 (後に敦賀港駅と改称) 間に、1・2等寝台車 を連結した欧亜国際連絡列車(新橋~敦賀港駅~ウラジオストク~シベリア鉄道経由~ヨーロッパ)の運転が開始された。 月・水・金曜日に出航するウラジオストク直行便の定期航路船に連絡し、ウラジオストクからはシベリア鉄道経由でヨーロッパの諸都市と 結びついた。敦賀はそのゲートウェイの一つとなった。
この列車は第一次大戦やロシア革命で一時中断したが、第二次大戦勃発時まで続いていた。

そして、ウラジオストク航路の他に、朝鮮半島北部の清津(チョンジン)との航路も開設され、中国東北部・満州との交易が拡大し、 敦賀はヨーロッパへのゲートウェイとなり、多くの旅客と物資を取り扱う国際港となった。

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1. 4隻の欧亜・日満連絡船。 [拡大画像: x28022.jpg]
2. 「日本海中心時代来る」と題する欧亜国際連絡のポスター北日本汽船株式会社、当社経営に海諸航路 [拡大画像: x28027.jpg]



敦賀における港湾・鉄道発展略史
(欧亜国際連絡列車の開通を含む)

敦賀市街地のウォータフロントにある「きらめきみなと館」で開催された敦賀の港湾・鉄道に関する特別展示パネルの説明書き、並びに その近傍に立地する「旧敦賀港駅舎(敦賀鉄道資料館)」での展示資料をベースに、敦賀港や鉄道の発展史をたどった。

文明開化と鉄道敷設
日本海側と都・京都を結ぶ陸路には古来よりいくつもあるが、最重要ルートの一つが敦賀・京都ルートであった。 言うに及ばず、敦賀はまさしく日本海側の重要なゲートウェイ、拠点港であった。
古来からのこの重要ルートの歴史に新しい時代を拓いたのが、日本海側で最初となった鉄道の敷設・開業である。

・ 1869年(明治2年)、敦賀を拠点とする鉄道建設について、京都・東京間の鉄道建設などと併せて決定される。
同年11月10日の御前会議で、明治政府は、駐日英国公使パークスの進言を受け、鉄道建設の方針を立てる。 その建設計画路線は、東京・京都間の幹線、および東京・横浜間、京都・大坂・神戸間、琵琶湖畔・敦賀間の各支線である。 1872年(明治5年)9月に新橋・横浜間に我が国初の鉄道が開通する。

・ 1871年(明治4年)、京都・敦賀間の測量が開始される。
・ 1880年(明治13年)4月、敦賀・長浜間の鉄道工事がその双方から開始される。既に同年から資材を輸送するための蒸気機関車が走り、 翌年の明治14年には仮開業もなされた。
・ 1881年(明治14年)、敦賀半島先端に立石岬灯台が建設され、敦賀港の近代化への大きな一歩を踏み出した。
・ 1882年(明治15年)3月10日、工事が難航していた「柳ヶ瀬トンネル」を除いて、長浜・金ヶ崎(金崎)間が部分的に開通した (即ち、金ヶ崎・洞道口間、柳ヶ瀬・長浜間が正式に開業した)。これは、新橋・横浜間、京阪神間、北海道幌内 (ほろない)、釜石鉱山鉄道に 次ぐものであった。敦賀側には、金ヶ崎、敦賀、疋田 (ひきた)、麻生口 (あそうぐち)、刀根 (とね)、洞道口 (どうどうぐち) の6駅が設置 された。なお、疋田・柳ケ瀬間の「柳ケ瀬トンネル」(1,352m) は、難工事の末に完成し、1884年(明治17年)4月16日に長浜・金ヶ崎間 の42.5kmが全通した。

・ 1882年(明治15年)5月には、長浜・大津間で、琵琶湖上において我が国初の鉄道連絡船が運航され、敦賀から京阪神まで鉄道と 水運によって結ばれる。
・ 1884年(明治17年)、長浜・金ヶ崎間が全通開業する。これにより、敦賀港での船舶往来が盛んになり、物資取扱量は年々増加をたどる。

開港とウラジオストク
・ 1896年(明治29年)、敦賀港が開港外貿易港に、さらに1899年(明治32年)7月に開港場に指定される。鉄道が次第に伸長するにつれ、 敦賀港の優位性が失われていくなか、貿易港としての発展を図るために同指定を政府に働きかけたものである。 開港場とは、外国船の入港が公式に認められた外国貿易港のこと。
(注)1999年(平成11年)は敦賀港には、1899年(明治32年)7月の開港から100周年を迎えた。

・ 1902年(明治35年)1月、ロシアのシベリア鉄道のウラジオストク・ハバロフスク間が開通する。
・ 1902年(明治35年)3月から「日本海命令航路」が開設される。即ち、敦賀を含めた日本海沿岸諸港を巡る航路(日本海を環海就航する 航路)の開設において、敦賀とウラジオストク間については往復の定期直行航路が開設される。
・ 1904年(明治37年)の日露戦争により、日露貿易が中断される。
・ 1907年(明治40年)、神戸、関門、横浜と並んで、敦賀が第一種重要港湾に指定される。
・ 1909年(明治42年)、敦賀駅は、気比神宮前の地から現在の地に移転する。なお、当時新築された敦賀駅は1945年(昭和20年)の戦災 により焼失する。
・ 1910年(明治43年)4月から、敦賀は関門、長崎とともに当時の満州や沿海州との連絡ルートとなる。
・ 1911年(明治44年)3月から、シベリア鉄道経由でヨーロッパにいたる欧亜国際連絡運輸が開始される。

国際列車が走った頃
・ 1912年(明治45年)6月15日、シベリア鉄道経由にてアジア・ヨーロッパ (欧亜) をつなぐ国際輸送の一環として、新橋・金ヶ崎 間直通の欧亜国際連絡列車が運行される。この欧亜をつなぐ国際列車は、敦賀から日本海を横断するウラジオストク航路に 接続した。ウラジオストクからはシベリア鉄道でヨーロッパへたどることができた。
当時には、インド洋経由の南回り航路船で欧州に向かうと一か月を要していたが、シベリア鉄道経由では17日間ほどで東京からパリやロンドン に着達できた。
そして、ウラジオストク航路の他に、朝鮮半島北部の清津(チョンジン)との航路も開設され、中国東北部・満州との交易が拡大し、 敦賀はヨーロッパへのゲートウェイ (門戸) となり、多くの旅客と物資を取り扱う国際港となった。

・ 1909年(明治42年)~1913年(大正2年)、1922年(大正11年)~1931年(昭和6年)に敦賀港において大規模な港湾修築工事が行われ、 港湾の近代化へさらに前進した。
1909年(明治42年)から大正初期にかけて第一期港湾修築工事が行われる。金ヶ崎岸壁に3,000トン級の汽船が停泊できるようになり、 また荷揚げ場や倉庫なども整備された。1905年(明治38年)には、紐育 (ニューヨーク) スタンダード石油会社倉庫(現・赤レンガ倉庫)が 建築された。

・ 1912年(明治45年)6月16日のダイヤ改正で、週3回(毎週日・火・木曜日に)新橋・金ヶ崎 (後に敦賀港駅と改称) 間に1・2等寝台車 を連結した欧亜国際連絡列車の運転が開始され、月・水・金曜日に出航するウラジオストク直行便の定期航路船に連絡し、 ウラジオストクからシベリア鉄道経由でヨーロッパの諸都市と連絡した。敦賀はそのゲートウェイの一つとなった。
この列車は第一次大戦やロシア革命で一時中断したが、第二次大戦勃発時まで続いた。

    [参考] 新橋・金ヶ崎 (後に敦賀港駅と改称) 間の欧亜国際連絡列車は、当初週3回運行された。毎週、日・火・木曜日に、 神戸行の急行第9列車(2・3等)に、1・2等合造の寝台緩急車マイロネフを連結し、翌朝米原で切り離し、 8:35発の不定期の第15列車となり、金ヶ崎に11:00に到着した。そして、毎週、月・水・金曜日に敦賀港発のウラジオストク直行便の 定期航路船に連絡した。また、金ヶ崎から新橋へは、毎週日・火・木曜日の朝8:52に発ち、ほどんどの客は米原にて下関から上ってくる 特急に乗り換え、20:25に新橋に到着した。
・ 1913年(大正2年)、旧国鉄・敦賀港駅舎が建造される。
・ 昭和初期に、敦賀港において第二期修築事業が行われる。

    [参考]「旧敦賀港駅舎」(敦賀鉄道資料館)
    金ケ崎駅(後の敦賀港駅)は、明治後半から昭和初期にかけて大陸交易の橋渡しとして運行された欧亜国際連絡列車(新橋~ 敦賀港駅~ウラジオストク~シベリア鉄道経由ヨーロッパ)」の発着駅であり、その象徴であった金ヶ崎駅舎を当時の イメージに近いものとして、再現されたものである。館内では敦賀港の歴史、敦賀の鉄道の歴史を紹介するパネルや貴重な鉄道資料を展示する。 なお、旧国鉄敦賀港駅の駅舎は1913年(大正2年)に建築された。


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