一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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絵図に見る昔の船のいろいろ
(船形埴輪、遣唐使船、遣明船、安宅船、朱印貿易船、弁才船など)

画像は、兵庫県洲本市にある高田屋嘉兵衛顕彰館・歴史文化資料館にて、「古代の船(縄文時代以後~)」と題して展示される昔の 図絵のいろいろである。カギ括弧は図絵に添えられる説明書きからの引用である。

1
「森林に恵まれた日本では、数千年前から一本の木をくりぬいた丸木船がつくられた。外形は、船首と船尾を先細に削った カツオブシ形で、長さ7m位、巾0.7m位の大きさであった。5~6世紀には、二つ以上の材をつなぎ合わせて両舷 (側面) を高くした、 長さ20m、幅2m余りの大型船も作られた。積載量が増大し、耐航性も増した。
* 上図は宮崎県西都原古墳から出土した船形埴輪。古墳時代の代表的なもので、何本かの材をつなぎ合わせて作られている」。 [拡大画像: x28034.jpg]

2
遣唐使船(7~9世紀)
「遣唐使は、630年から約200年にわたり、日本から唐 (中国) へ派遣された。当時の船の史料がないため確かなことは 不明。しかし、8世紀以降の遣唐使船は、140人位が乗れる積載量100~150トンの船で、九州から東シナ海を 一気に唐を目指したため、上図のような中国系の大型帆船であったと想像される。帆で走るだけでなく、櫓も併用 していた」。 [拡大画像: x28044.jpg]

3
鎌倉時代の船(12~14世紀)
「鎌倉に幕府が開かれ、東国と西国の交流が活発になると、年貢や商品輸送のために廻船が発達した。当時の船は、 遣唐使の廃止により、かつての中国系の大型船が絶え、伝統的な内航用大型船 (積載量30トン位) が作られた。 上図のように屋形を設け、櫓と帆を用い、帆は順風のときに、櫓で走る時は帆柱を倒した。この方式は近世まで 主流であった」。 [拡大画像: x28035.jpg]

4
遣明船(けんみんせん)(15~16世紀中頃)
「室町幕府が明(中国)に派遣した貿易船。遣唐使船のように特別に作られた船ではなく、民間の大型商船を借りて 屋形を増設し、船首の小さい帆を大型化するなどの改修をした。商品の流通が盛んになると、大量輸送が必要に なり、上図のような150人位が乗れる、長さ35m、積載量200トン位の大型船を日本独特の構造技術で作るように なった」。 [拡大画像: x28045.jpg]

5
安宅船(あたけぶね)(16世紀末~17世紀)
「室町時代末期から江戸時代初期にかけてつくられた攻守力とも最強の軍船。戦国時代、急速に発達した。船体上部は 楯板で囲った総矢倉、その上に城大工が建造した天守をもつ。船首に大筒 (大砲) を備え、楯板には弓や鉄砲を撃つための 狭間と呼ばれる穴がある。徳川家光がつくられた「安宅丸」は、江戸を守るための巨大な軍艦だった」。
* 安宅丸は推定排水量1,700トン。日本始まって以来の巨船であった。維持費が膨大でかさむために解体された。
* 「安宅」は「あたける、あばれまわる」に由来するといわれる。 [拡大画像: x28046.jpg]

6
朱印貿易船(17世紀)
「江戸時代初期、徳川幕府が「朱印状」を発行して外国貿易を許可した船。東南アジアのほぼ全域で活躍していた。 船体や帆は中国式、船尾・舵・帆の一部は西洋の外航用帆船の技術をとり入れ、さらに日本の伝統的技術を加えた 中洋和の折衷様式の大型船。この船型を日本前 (にほんまえ) と呼んでいた。しかし、1635年、幕府の鎖国政策により姿を消した。 [拡大画像: x28047.jpg]

7
弁才船(べざいせん)(16世紀~19世紀)
「江戸時代に瀬戸内海を中心に発達した船で、とがった船首に幅広い胴をもつ。17世紀末からは櫓を必要とせず、 帆だけで走るため、少数の乗組員で運航できる経済的な船であった。そのため荷船として全国に広まった。 また、多くの荷が積める千石船(千石=積載量150トンの大型船)とも呼ばれ、和船の代表的な船型である。 北前船もこの船を用いた」。 [拡大画像: x28048.jpg]

8
和洋折衷船(19世紀末~20世紀) [拡大画像: x28057.jpg]
画像添付のキャプションは、映像不鮮明のため、引用不可。The caption can't be cited since the picture is unclear.


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