一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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高田屋嘉兵衛および江戸時代後期日本・帝政ロシア関係略史

1766年、アダム・ラクスマン (Adam Laxman) 生まれる。後に、ロマノフ朝ロシア帝国の軍人(陸軍中尉)となる。
1769年(明和6年)、嘉兵衛、淡路国津名郡都志本村(現在の兵庫県淡路島の五色町)に生まれる。
1786年(天明6年)、最上徳内が幕命により千島列島を探検する。

1789年、アダム・ラクスマンはシベリアのイルクーツクに滞在中、大黒屋光太夫ら日本人漂流民6名と出会った。後に、光太夫を連れて ペテルブルグの女帝エカテリーナ2世と謁見し、光太夫の送還につき許しをえる。女帝の命により、大黒屋光太夫、磯吉、小市の3名 を送還する名目で、イルクーツク総督の通商要望信書を手渡すために、ロシア帝国最初の遣日使節となる。

1790年(寛政2年)、嘉兵衛、兵庫に出て、樽廻船の水主として働く。
1792年(寛政4年)、嘉兵衛、24歳 (数え年) の時、水主から表仕(おもてし)(船の進路を指揮する役)となる。
1792年(寛政4年)9月、ロシア遣日使節アダム・ラクスマンが、神昌丸の漂流民大黒屋光太夫、磯吉を連れて エカテリーナ号でオホーツクを出発、翌月根室に来航し通商を求める。幕府側は通商を欲するなら長崎に回航するよう指示する。

1793年(寛政5年)6月、エカテリーナ号函館に入港する。ラクスマン一行は函館から陸路で松前に到着する。幕府側は長崎以外では 国書を受理できないと受け取りを拒否し、この通商問題は長崎でのみ交渉しうるとして、ラクスマンに対し信牌 (しんぱい)(長崎入港許可証) を与えた後、長崎に回航するよう指示した。他方、大黒屋光太夫と磯吉2名を引き取った。
1793年7月、ラクスマンらは函館を出港したが、長崎には向かわず、オホーツクに帰還した。

1793年(寛政5年)、嘉兵衛、沖船頭(雇われ船頭)となる。
1796年(寛政8年)、辰悦丸が建造される。
1798年(寛政10年)、嘉兵衛、辰悦丸を和泉屋伊兵衛から譲り受け、船持ち船頭として独立か。函館に出店する。
1799年(寛政11年)7月、嘉兵衛、幕命により、クナシリ-エトロフ島間の航路を拓く。


1800年(寛政12年)、嘉兵衛、エトロフ島西海岸にて17カ所の漁場を拓く。また、エトロフ航路開拓の功績を幕府から認められ、同年の1800年 に蝦夷地開拓用の官船5艘の建造を命じられる。嘉兵衛はそれを皮切りに1809年(文化6年)までに45艘の官船建造を請け負った。
1800年5月、伊能忠敬、蝦夷地を測量する。
1802年(享和2年)、幕府、蝦夷奉行 (5月、函館奉行と改称)を置く。
1804年(文化元年)9月、ロシア遣日使節(第二次)のレザノフが通商を求めて、ロシア皇帝アレクサンドル一世から 日本国皇帝 (将軍) に宛てた親書を携え、長崎に来航する。
1806年、アダム・ラクスマン、「ラクスマン日本渡航日記」を完成。

1806年(文化3年)9月、ロシアのフヴォストフらがカラフトに来襲する。
1807年(文化4年)4月、ロシアのフヴォストフらがカラフト・エトロフ島に来襲する。
・ 同年、幕府、奥羽諸藩に出兵を命じる。
・ 同年10月、幕府、函館奉行所を松前に移し、松前奉行と改称する。
・ 同年12月、幕府、ロシア船の打ち払いを命じる
1808年(文化5年)、間宮林蔵らがカラフトに赴き、カラフトが島であることを発見する。
・ 同年、イギリス軍艦フェートン号が長崎港に乱入する。
1809年(文化6年)、間宮林蔵、アムール川(黒竜江)地方を探検する。


1811年(文化8年)5月、ロシア軍艦ディアナ号が、千島列島を調査・測量、クナシリ島に来航する
松前奉行所クナシリ詰役人が、ディアナ号艦長ゴロウニンら8名を捕らえ、函館に連行する。
ゴロウニンらは松前へ連行、拘留される。

1812年(文化9年)8月、ディアナ号副艦長リコルドが、ゴロウニンら救出のため、中川五郎治ら6人の漂流民を連れて クナシリ島に来る。
・ 嘉兵衛、手船観世丸 (かんぜまる) でエトロフ島から函館へ向かう途中、クナシリ島ケラムイ沖でディアナ号に拿捕され、水主ら5人と共に カムチャッカ半島ペトロパヴロフスクに連行される
1812年9月、嘉兵衛、ペトロパヴロフスクに着き、抑留生活が始まる。

・ 嘉兵衛、リコルドと日露間の対立の緩和やゴロウニンの早期救出のことを協議する。

1813年(文化10年)2月、嘉兵衛に同行した水主文治が病死する。
・ 同年3月、嘉兵衛に同行したアイヌ人シトカと水主吉蔵が病死する。
1813年5月、嘉兵衛はリコルドと共にディアナ号にてクナシリ島センペコタンに入港し、釈放されてゴロウニン事件の解決の ために奔走する。
・ 同年7月、嘉兵衛、松前に行き、ゴロウニンらを函館にてリコルドに引き渡すことを協議する。
・ ディアナ号、オホーツクへ向けて出航する(リコルド、国元へ報告などのため)。
・ 同年9月、ディアナ号、函館に入港する。
・ 同年9月26日、ディアナ号、リコルド、ゴロウニンらの引き渡しを受ける。
・ 同年9月29日、ディアナ号、リコルド、ゴロウニンらを乗せて函館を出航する。ゴロウニン事件は無事解決する。


1814年(文化11年)3月、嘉兵衛、許されて再び幕府の蝦夷地定雇 (じょうやとい) 船頭となる。
・ 同年5月、嘉兵衛、ゴロウニン事件解決の功を賞され、幕府から金5両を下賜 (かし) される。
1822年(文政5年)、嘉兵衛、函館を高田屋の本店とする。
1825年(文政8年)2月、幕府、異国船打ち払い令を出す。
1827年(文政10年)4月5日、嘉兵衛、59歳にて没する。


[出典: 高田屋嘉兵衛顕彰館・歴史文化資料館ほか]


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