一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋


One Selected Photo "Oceans & Ships"

Back to: Top Page | 特選フォト⌈海&船⌋目次 (Ocean and Ship Photos) | ご覧のページ


松前奉行所によるロシア帝国軍艦ディアナ号ゴロヴニン艦長らの拘留事件

12

江戸時代後期の1811年に、北海道の松前奉行所がロシア帝国軍艦ディアナ号のゴロヴニン艦長 (Captain VasiliiMikhailovich Golovnin of Russian warship "Diana") らを拘束し投獄するという事件が発生した。それより少し遡る史実について触れておきたい。

1804年(文化元年)9月、ニコライ・レザノフ (Nikolai Rezanov) は、ロシア皇帝の命を受け、日本に通商を求めるため、 アダム・ラクスマン (Adam Laxman)(第一次遣日使節)に付与された信牌 (しんぱい) を携えて、長崎に来航した。幕府は、第二次遣日 使節のレザノフの船をおよそ半年間余り、出島近くに留め置いた。そして、翌年の1805年、長崎奉行所から、中国・朝鮮・琉球・ オランダ(紅毛)以外の国との通信・通商の関係を保持しないのが国法である、との通告を受け、通商の申し出は拒否された。 また、信牌も取り上げられた。 1805年4月、レザノフは失意のまま長崎を去り、カムチャツカへ向かった。
[注]レザノフ、カムチャツカからペテルブルグに向けてシベリアを横断中であった1807年にクラスノヤルスクで病死した。

レザノフは、長崎での交渉の経験から、「日本に対しては武力をもって開国させる以外に手段はない」と上奏したが、後にそれを撤回した。 しかし、部下のニコライ・フォヴォストフが単独で、1806年にカラフトの松前藩番所、1807年に択捉港などの各所を襲撃するという行為に 及んだ(フォヴォストフ事件、文化露寇)。

    「フォボストフ事件 [1806~7年 (文化3~4年)]
    ペトロパブロフスクに戻ったレザノフは、鎖国日本の扉を開けるには武力しかないと考え、中央政府の指令を仰ぐことなく、部下の海軍士官 フォボストフとダヴィドフに命じて、カラフト、エトロフ、利尻島 (りしりとう) の日本人部落を次々と攻撃させた。 これに対して、幕府は、東北諸藩に出兵を命じて厳戒した。流言蜚語 (りゅうげんひご) の類いが飛び交い、日露間の緊張が高まる」
かくして、日ロ関係が1806-1807年の「フォヴォストフ事件」により緊張するなか、1811年にゴロヴニン事件が発生した。 1811年(文化8年)5月、ロシア軍艦ディアナ号が、千島列島を調査・測量の途上でクナシリ島に来航したところ、 松前奉行所クナシリ詰役人が、ディアナ号艦長ゴロヴニンら8名を捕らえ、函館に連行した。そして、ゴロヴニンらは松前へ連行され、 拘留・投獄された(ディアナ号ゴローニン艦長らの拘留事件)。

ディアナ号副艦長リコルドはその翌年の1812年(文化9年)、捕らえられたゴロヴニンの消息を聞きだそうと、クナシリ島ケラムイ沖を通り かかった日本船を拿捕するに及んだ。乗船していた船主が高田屋嘉兵衛であった。嘉兵衛は、手船の観世丸でエトロフ島から函館へ向かう 途中であった。 嘉兵衛は、随行を希望した5人と共に、同年9月カムチャッカのペトロハヴロフスクに連行され、抑留生活が始まった。

[画像撮影: 2017.10.13 高田屋嘉兵衛顕彰館・歴史文化資料館にて/顕彰館所在地: 〒656-1301兵庫県洲本市五色町都志1087/電話: 0799-33- 1605][拡大画像: x28101.jpg][拡大画像: x28089.jpg]

3 4
画像3: 「1811年(文化8年) 千島列島南部の調査・測量中のディアナ号艦長ゴロヴニン少佐ら8名は、クナシリ島で 水、食糧の補給を得ようと交渉中、捕虜とされてしまう。彼らは函館そして松前へ護送、投獄された」と記される。 [拡大画像: x28102.jpg]

画像4: 「帰国した後、皇帝の命によって書かれたゴロヴニンの「日本幽囚記」及びリコルドの「対日折衝記」は、各国語に訳されて、 広くヨーロッパにも紹介された。  特に前書に含まれているゴロヴニンの「日本及び日本人論」は、彼が狭い獄中から覗いた日本観であったにも拘らず、 彼の鋭い観察力と深い洞察によって、鎖国時代における卓越した日本論となっている」と記される。 [拡大画像: x28090.jpg]


Back to: Top Page | 特選フォト⌈海&船⌋目次 (Ocean and Ship Photos) | ご覧のページ