一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
マニラ・ガレオン/マニラ~アカプルコ間の太平洋横断交易ルート
付記: スペインによる植民地化とマニラ・ガレオン貿易
[フィリピン/アヤラ博物館]
画像はフィリピンの首都マニラのマカティ地区にある「アヤラ博物館 (The Ayala Museum)」での展示である。フィリピンの歴史上の
重要な出来事が、ミニチュアの人形や建物・自然などの造形物をもって、ジオラマ風に再現されている。合計60ものジオラマが小型の
ショーケース (陳列箱/showcase) に収められ、絵巻を見るようにフィリピンの古代から現代までの歴史を巡覧できる。 大航海時代との関連でいえば、スペインのカルロス1世によって派遣されたフェルディナンド・マゼランたちのフィリピン上陸(1521年)、 マニラ・ガレオン船によるヌエバ・エスパーニャ副王領(メキシコ)との交易 (1565-1815年)、スペインのコンキスタドールである レガスピーによる本格的な植民化 (1571年)、マニラの陥落とサンティアゴ要塞の築造などをビジュアル化したジオラマを巡覧できる。
画像のジオラマはマニラ・ガレオン船による交易の一場景を具象化したものである。キャプションには次のように記されている。
1565年にマニラとアカプルコとを結ぶ太平洋横断ルートが発見されて以来、マニラ・ガレオン交易船は毎年航海した。その航海は 1815年まで続いた。絹織物、彫刻された象牙、宝石、香辛料などがメキシコ銀と取り引きされ、植民地経営のための助けとなった。 付記: スペインによる植民地化とマニラ・ガレオン貿易 スペインによる対フィリピン植民地支配が実質的に始まったのは、1565年にコンキスタドールのレガスピーがフィリピン統治のために派遣された 頃からである。レガスピーは、まずセブ島に本拠地を置き、要塞を築造するとともに、遠征隊をあちらこちらの島嶼に派遣し征服して回った。 先住民族間の対立を利用して征服事業を進めることもあった。遠征隊はルソン島に至り、1570年5月に同島の中心地であるマニラを 植民地化の新拠点とすることを企図し、マニラ王国の首長ラジャ・ソリマンと交渉した。 1570年当時のマニラは、スペインからはモロ人と称されていたマレー系ムスリムからなるマニラ王国の中心地であった。 また、フィリピン諸島の中でも華僑が定住し、交易の中心地でもあった。スペインはマニラ王国首長ラジャ・ソリマンを殺害し、 また彼のマニラの砦はスペインの手で陥落せしめられた。その後はスペインが築造したサンチャゴ砦となった。 レガスピーは、1571年6月24日にマニラに入城し、マニラ市建設を宣言した。彼は、マニラ市と命名し、市政を敷いた。市役所や 市議会を設置し、市長を任命し、その支配を本格的に進めた。また、1571年から、ヌエバ・エスパーニャ副王領のアカプルコと マニラを結ぶ太平洋横断の定期航路が開かれた。 南米ボリビアのポトシ鉱山で採掘された銀はメキシコの副王領からマニラにもち込まれた。他方、スペイン人は、中国商人によって 中国・福建からマニラに運び込まれた絹織物、陶磁器の他、香辛料などをそのメキシコ銀で買い付けた。 アカプルコからマニラへの太平洋横断には2~3カ月かかった。その復航にはさらに長い期間を要した。輸送には大型帆船のガレオンが 用いられたことから「ガレオン貿易」と呼ばれた。 ガレオン貿易は1571年以降1815年まで続き、マニラ経済は大いに潤うことになった。しかし、フィリピンの産物は ほとんど取り扱われなかった。かくして、東洋の絹織物、陶磁器、象牙、スパイスなどのガレオン貿易が、250年もの長い年月に わたり続けられた。 [画像撮影: 2018.3.24 マニラのマカティ地区アヤラ博物館にて][拡大画像: x28178.jpg] |