一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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漕渠運河と曹魏運河(赤壁の戦いと軍船を含む)

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画像1は「漕渠 Cao Qu」について記される。画像に写る人物は「前漢」の第7代王(在位は前141年-前87年)の武帝である。画像下部の 写真は漢代の漕渠遺址である。
中国王朝の歴史では、通例、前漢(紀元前206年 - 後8年)と後漢(紀元後25年 - 220年)との2つの王朝 を総称して漢王朝と呼ばれる。そして、前2世紀の中頃の前漢王朝の全盛期を治めていたのがこの武帝である。

ところで、渭河 (わいが) は湾曲が多く、また水深が浅いことから、舟運において多難であった。 そこで、武帝は、前129年に王朝の都・長安から黄河にまっすぐ通じる水路として「漕渠運河」の開鑿(開削)を完遂させた。 「漕渠」とは食料などを輸送する水路のことである。
[参考]「漕運」とは古語で、国家が食糧を南北大運河で北方へ輸送することをも意味する。 [拡大画像: x28401.jpg]

画像2は、「曹魏運河」(Caowei Canal)について記される。「曹丕」とは三国時代の政治家・軍事家である。  [拡大画像: x28402.jpg]

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画像3は、「赤壁遺址」および「赤壁の戦い」の図絵である。赤壁の戦いは、後漢末期の紀元後208年に、長江(揚子江)の赤壁において 曹操の軍と孫権・劉備の連合軍との間で行なわれた激戦であるが、これによって天下三分の形成が決まったとされる。 後漢は紀元後220年に滅亡し、「魏」が成立した。曹操の敗北は、北方の騎馬軍勢が水上采配に長けた南方の水軍勢に敗北した という側面をもつと言われる。

[補足] 後に「隋」を建国した楊堅(文帝)は、後587年に淮水と長江を結ぶ「邗溝(かんこう)」をさらに開鑿し整備した。  [拡大画像: x28403.jpg]

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画像4は、「赤壁之戦の戦船模型」である。 [拡大画像: x28404.jpg]


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