一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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京都・高瀬川の舟入址と高瀬舟の舟曳風景(古写真)(その 1)

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京都市内の「高瀬川一之船入址」を訪れた。址にはいくつかの案内板などが立てられている。 案内石碑「高瀬川の水運」によれば、京都は古代・中世を通じて日本最大の都市であり、経済・文化の中心であった。 そのことは近世になっても変わらなかったが、いかんせん京都は内陸部に位置していたため、運輸交通面で大きなデメリットを抱えていた。 これを打開するために開発されたのが、大量輸送を目的にした伏見・二条間をつなぐ高瀬川運河であった。 その計画と施工に当たったのは、嵯峨の豪商角倉了以 (すみくらきょうい) その人であった。この水運大動脈の完成は、京都を大阪から直接 水運で結ぶことになり、近世京都の経済発展を支える礎となった。京都の運輸・経済に画期的な変革をもたらしたといえる。 高瀬川の全長は5,648間2尺(約11.1km)、川幅平均4間(約8m)であった。水路に沿って9か所の「船入」が設置された。総工費75,000両 を要したといわれる。

「高瀬川一之船入」と題する国指定史跡立札によれば、その船入を「一之船入」(いちのふないり)と称される。船入とは、船荷の積み 下ろしや船の方向転換を行なう場所である。二条から四条の間に9か所作られたが、画像1・2に写る一之船入を除いて、全て埋め立てられている。 高瀬川は保津峡の開発などで有名な江戸時代初期の豪商・角倉了以・素庵 (そあん) 父子が、慶長19年 (1614年) 頃に開削を完成した、 物流用の運河である。この一之船入辺りを起点にして鴨川から取水し、鴨川に平行して東九条まで南下し、鴨川を横断した後、 伏見に通じていた。 水深が浅いことから、底が平らな「高瀬舟」という船が使われ、そのことから高瀬川と名付けられた。 盛時には百数十艘の舟が上下し、伏見を経て大阪などからの物資が運び込まれ、京都における経済社会生活を支える重要な機能を果たした。 木屋町筋には、「木屋町」という町名の由来となった材木屋をはじめ、多くの問屋が建ち並んで賑わった。明治以降、電鉄などの発展につれ、 高瀬川は次第にその舟運機能を失い、大正9年 (1920年) に舟運が廃止された。

「高瀬川と高瀬舟」と題する案内板によると、運河は京都市中と伏見間の物資輸送に高瀬舟を用いたことから高瀬川と名付けられた。 高瀬舟とは、川瀬の浅いところを航行できるように底を平たくした舟の総称である。 物資輸送が盛んになると、高瀬川周辺には藩邸(京屋敷)や、材木・薪・炭などの様々な商品を取り扱う商店が建ち並んだ。 当時の職種・取扱い商品を反映した町名 (樵木町・材木町・石屋町・塩屋町など) が、さらに町の成り立ちを反映した 町名 (大阪町・船頭町) などが残されている。また、町から出る排泄物、即ち農作物の肥料となる糞尿を九条以南に運ぶ重要な機能をも 果たした。 明治になり鉄道が開通すると次第にその機能を失い、大正9 (1920) 年に廃止されたが、廃船となった高瀬舟は燃料として用いられ 現存するものはない。画像2・3に写る高瀬舟は、平成25年 (2013年) に浄財により大津市の松井造船所で建造・復元された3代目のものである。 この案内板には、2枚の古い写真 (初代および2代目の復元高瀬舟) の他に、画像3の明治期の舟運を写す写真が掲示されている。

[撮影年月日:2019.6.12/撮影場所: 京都市内「史跡 高瀬川一之舩入」(Ichi-no-Funairi; 1st basin & berth for takase-bune boats along the Takase-gawa in Kyoto) にて]

1. [拡大画像: x28500.jpg]
2. [拡大画像: x28501.jpg]
3. [拡大画像: x28502.jpg]


高瀬川周辺地図。地図の中央最右に「一之船入跡」と記される。 [拡大画像: x28503.jpg]


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