一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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京都・高瀬川の舟入址と高瀬舟の舟曳風景(古写真)(その 2)

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京都市内をほぼ南北流れる鴨川は、その昔「暴れ川」とも呼ばれ、洪水の多い河川であったので、運河として舟運に利用するのは困難であった。 京都の豪商・角倉了以 (すみくらりょうい) とその子・素庵 (そあん) は、安定して大量の物資輸送ができるよう、二条と伏見をつなぐ 運河「高瀬川」を開削し、舟を通わせ物流を円滑にし、商いに活気を呼び込もうとした。約3年間の歳月をかけて、1614年に、 二条から伏見港の間に全長10km、川幅約8mの運河を開通させた。鴨川から角倉家の屋敷に水が引き込まれ、そこから南へと流れ、 十条付近で再び鴨川に放流された。 高瀬川に平行してすぐ傍を通る木屋町通に、明治28年 (1895年) 4月に、路面電車 (京都最初の電機鉄道) の線路が 敷かれ、さらに明治43年には鴨川沿いに京阪電車が開通した。高瀬川が300年以上にわたり担ってきた水上輸送は、電車などによって代替 されるようになり、大正9年に高瀬川の舟運は廃止されるにいたった。

高瀬川舟運は一日170艘もの舟が行き交うこともあったほど盛んであったという。川幅が狭いことから、 荷物の揚げ降ろしが舟の往来の邪魔になったり、舟のすれ違いに何かと支障を来したりした。そこで、船荷の 積み降ろしを容易にし、また舟の行き来での渋滞を緩和するために、舟の港である「舟の溜り場」が 設置された。これを「舟入(船入または舩入)」といった。高瀬川二条と四条の間には9か所の舟入があったが、現存するのは、 画像4に写る「一之舟入」(国指定史跡)のみである。

一之舟入の舟の溜り場最奥には「史跡 一之舩入」という表札を掲げた入場門 (「カフェりょうい」への入り口でもある) があり、中に入ると 画像4の一之舟入を眺めることができる。 画像1-3は、その入場門をくぐって直ぐのところに掲示される、一之舟入風景絵画と2枚の舟運古写真である。絵画1の右奥に入ると 一之舟入がある。画像4が現在の舟入の様子である。画像2は「明治時代末頃の」七条上る辺り、画像3は伏見辺りでの舟運を写す 古写真である。特に画像3では、曳舟人夫4名がロープで舟引する様子が見て取れる。 [参考]画像2-3の出典として、石田孝善 「京都高瀬川-角倉了以・素庵の遺産-」 思文閣出版・2005年と、右下に記されている。

[撮影年月日: 2019.6.12/撮影場所: 京都・高瀬川沿いの一之舟入 (Ichi-no-Funairi; basin & berth for takase-bune boats along the Takase-gawa, Kyoto) 址にて]

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 2019年6月現在の一之舟入風景。


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