コロンブスゆかりの修道院を訪ねて 中内清文(平成19年 JICA退職)
2018年初秋、私はポルトガル南西部にあるファロという港町で投宿した。翌日午前中に何とか用事を済ませ、昼ごろにはスペインの
セビーリャに向かう国際長距離バスに乗り込んだ。途中でウエルバという町で下車し、そこでバスを乗り換えパロスという田舎町の
郊外にある修道院を訪ねたかった。パロスの市街地に入る少し手前のバス停で路線バスから降り、その修道院をめざして歩いた。
その修道院こそコロンブスがジパング(日本)をめざして西廻りの航海に出る上で重要な歴史的起点となったところである。
コロンブスはポルトガル国王ジョアンII世に接近し、1483年乃至1484年に、西廻りでいわゆるインディアスへ着達する計画を売り込んだ。
だが、諮問委員会で検討された結果否決されてしまう。彼はリスボンを去りスペインに移り住むことにした。目途はスペイン王室への
計画の売り込みであった。実はコロンブスはリスボンに暮らしていた1479年にフェリーパ・モイスという女性と結婚した。
彼女はディエゴという男子を生んだが、早死にしてしまった。それ故に、彼は5歳の息子の手を引いてスペインへ向かった。
その途上の1485年夏の炎天下、パロス郊外のサンタ・マリア・デ・ラ・ラビダ修道院の門前で、飢えと渇きに泣きわめくわが子のために、
一片のパンと水を乞うたのである。そして、自らもその場に崩れ落ちたという。
修道院長のフワン・ペレス・デ・マルチェーナは、その頃は既に隠遁していたが、スペイン・イサベル女王の懺悔聴聞師を務めたり、
また王室の金庫番もしていたことのある人物であった。修道院長の知遇を得た彼は有力者に引き合わされたり、紹介状をもらったり
してイザベル女王に1486年に面会することができた。だがしかし、彼の計画は王室の諮問委員会によって却下されてしまう。
大航海時代に関心をいだく私としては、いつの日かコロンブスゆかりのこの修道院を一度は訪れてみたかった。片田舎の地に
小さな修道院が人知れずひっそりと残されているものと思い描いていた。だが、修道院内部は博物館の様相を呈し、ツアーバスで大勢
の観光客が訪れる一大観光地になっていることを眼のあたりにして驚いた。コロンブスと修道院長が初めて会見したという小部屋
に入った時には、正直なところ鳥肌が立ってしまった。すぐ傍を流れるティント川沿いには、彼が旗艦としたサンタ・マリア号の他、
ピンタ号とニーニャ号の実物大の復元船が展示され一般公開されている。
束の間の訪問に過ぎなかったが、心の満足度は100%以上であった。
大袈裟かもしれないが、大航海時代の足跡に一片の興味を抱く者にとっては感涙の見学となった。コロンブスはスペイン王室から
2度も懇請を却下されたものの、紆余曲折の末1492年8月3日朝8時、パロスの港からティント川を下り、未知に溢れるインディアス
に向けての大冒険(第一回航海)に出立して行った。続きはまたの機会にできればと思います。