新潟県佐渡島南西部の小木(おぎ)半島の海沿いに位置する宿野木は、その昔北前船の船主・船大工らが多く暮らしていた裕福な
集落であった。その宿根木に「佐渡国小木民俗博物館」が建つ。復元された北前船「白山丸」の展示館も併設されている。
画像は、同展示館に保存・展示される「白山丸」の復元船である。弁財船(べざいぶね)の帆走性能の変革の系譜について簡潔に
取りまとめているところ、その内容紹介に当たり、正確を期すために以下の通り原文のまま記したい。
北前型弁財船
江戸時代中期から日本の廻船は弁財船といわれる型の船が主流になった。
もともと瀬戸内海で多く使われていたもので、帆走性能が高い船であった。江戸と大坂を結ぶ「菱垣廻船」「樽廻船」
や日本海を往来する「北前型弁財船」(きたまえがたべざいぶね)(北前船)など、各地の諸条件に適応するように少しずつ工夫、改良された。
帆走性能の進化1
17世紀中頃(1650)から瀬戸内海では帆走専用の弁財船が主流になった。その頃の日本各地には二形船(ふたなりぶね)、
伊勢船(いせぶね)、北国船(ほっこくぶね)、羽賀瀬船(はがせぶね)などがあったが、いずれも帆と手漕ぎの併用であった。
その帆は莚(むしろ)やゴザで作られたもので、簡単に破れてしまう。
このため、櫓(ろ)や櫂(かい)(オール)を使う人が大勢乗り込む必要があった。
帆走性能の進化2
関西地方で綿花栽培が盛んになり木綿が入手しやすくなると、木綿2枚を太い糸で縫い合わせて作る
「刺帆(さしほ)」が登場した。これをいち早く取り入れたのが弁財船である。莚(むしろ)やゴザの
帆に比べると格段に強度が増し、オールを使わなくてもよい帆走専用船へと進化し、乗組員が少なく、
その分積み荷を多く積み込むことができるようになり、交易はますます盛んになる。
帆走性能の進化3
帆走とオール推進併用の廻船を駆逐した刺帆も何日かの航海で破れてしまうので、近海航路を進み、各地を
転々と寄港するのが当時の廻船の実態であった。
画期的な松右衛門帆(まつうえもんほ)の出現
刺帆のように数枚の木綿を縫い合わせるのではなく、帆の生地自体を太い糸で織った「織帆(おりほ)」
を発明。天明5年(1785年)のことである。
この織帆を発明したのは、播州高砂(兵庫県)の船頭・工楽(くらく)松右衛門(本名・宮本松右衛門)
であった。この帆の効果は、
① 破れにくく、多少の強風でも帆走可能。
② 遠乗りができ、寄港回数減。
③ 廻船のスピードアップ。
こうして改良された弁財船により海上輸送は全盛期を迎え、日本経済を支え続けた。
[撮影年月日:2020.10.21/撮影場所:「佐渡国小木民俗博物館・弁才船「白山丸」展示館」、新潟県・佐渡・宿野木]
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