京都伏見の発展は、豊臣秀吉(1537~1598年)の伏見城の築城と城下町の整備、そして港の整備に始まったといえる。秀吉は、
1590年(天正18)の奥州平定によって天下統一を果たした。それに先立ちに、大阪城を築城し(1583年・天正11~1585年・天正13)、
1586年(天正14)には京都に聚楽第を造った。そして、1591年(天正19)に関白職を甥の秀次に譲ると、伏見城の築造に本腰を入れた。
彼が伏見の地を選んだのは、大坂、京都、奈良に目が行き届くことからであった。
1594年(文禄3)頃には、伏見の城下町づくりが始まり、秀吉はこの城下町の基盤を支えるために伏見港の整備により、舟運・水路を確保すること、
京都から伏見城下町を通過し奈良へ繋がる新大和街道などの整備により、陸運・陸路を確保することに力を注いだ。
伏見市中の「三栖閘門資料館」では、さまざまな展示パネルをもって、安土桃山時代から現在にいたるまでの、伏見の町・港の発展にまつわる歴史
文化・土木工事などを紹介している。特に興味を抱かせるのが、秀吉が整備した、全国でも珍しい内陸河川港である伏見港の歴史にまつわる
パネル展示である。
因みに、展示パネル「舟運によって栄えた港町・伏見」のうちの、「安土桃山時代の伏見、宇治川に着目、「伏見港と舟運」の起点を築いた豊臣
秀吉」によれば、
・ 秀吉の伏見城築城により、伏見は城下町として繁栄した。その一方で、秀吉は宇治川を改修し、伏見の地に港の機能を持たせた。
・ 当時は、伏見~大坂間が淀川の舟運によること、伏見~京都間は陸上交通によるというのが一般的であり、伏見は舟運と陸運の中継地として
重要な機能を果たしていた。淀川には秀吉が運航許可を与えた過書船(かしょせん)が行き来していた、と記される。
右画像は同パネル提示の江戸時代の過書船鑑札(営業許可書)である。
略年史(一部抜粋)
1590年(天文18) 豊臣秀吉、天下を統一する。
1594年(文禄3) 秀吉が伏見城の築城を開始すると同時に、城下町の造成を行なう。また、その城下町造成に合わせ、宇治川の河道
改修や港湾整備を実施する。
1598年(慶長3) 淀二十石船と三十石以上の大船は、秀吉から朱印状を与えられ、過書船となる。伏見を中心とする街道の整備を進める。
1598年(慶長3)8月、秀吉は伏見城で最期を迎える。
1611年(慶長16) 角倉了以(すみくらりょうい)が高瀬川の開削を開始する。
1614年(慶長19) 高瀬川開削工事が終わり、伏見~京都間が舟運(高瀬舟)で結ばれる。
1661年(寛文年間) 過書船と高瀬舟の中継地として、伏見・南浜付近が繁栄する。
1698年(元禄11) 伏見船200隻の運航が許可され、宇治川の舟運を独占してきた過書船にとって脅威となる。
1830~1844年(天保年間) 伏見港の船は、過書船740隻、伏見船200隻、淀二十石船507隻、高瀬舟185隻を数える。また、伏見の人口は、4万980人を数える
1862年(文久2) 寺田屋事件。
1868年(慶応4) 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)。
1868年(明治元) 明治維新。
1870年(明治3) 淀川(伏見~大阪)に初の蒸気船が就航する。
1877年(明治10) 京都~大阪間に鉄道が開通(現在のJR東海道本線)する。
1885年(明治18) 三十石船が消失する。
出典:「三栖閘門資料館」の展示パネル「舟運によって栄えた港町・伏見」より。
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4. 京都伏見の「三栖閘門資料館」の展示パネル「舟運によって栄えた港町・伏見」。 [拡大画像: x28815.jpg]
5. 同上展示パネル「淀川の治水と三栖閘門」の図絵。 [類似画像: z23697.jpg][拡大画像: x28814.jpg][拡大画像: x28816.jpg]
[撮影年月日:2020.10.5/撮影場所: 京都伏見の「三栖閘門資料館」にて]