豊臣秀吉は伏見城の築造と城下町の整備を進めるとともに、宇治川の治水、伏見港の整備などにも力を注いだ。大坂と京都、さらに琵琶湖を繫ぐ
中継拠点としての伏見港(内陸河川港)には、時代と共にさまざまな種類の船が登場し、そして消えて行った。京都伏見にある「三栖閘門資料館」の
「伏見港の船」と題する展示パネルには、歴史上に登場した5タイプの船について次のような趣旨の説明が施されている。
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1.高瀬舟(たかせぶね)(画:宇治川両岸一覧)
「高瀬」(たかせ)とは浅瀬を意味する。その名を冠する「高瀬舟」とは、水深の浅い運河や濠・堀などで用いられた平底の小舟の事であり、
日本全国で見られる。1614年(慶長19)に角倉了以(すみくらりょうい)父子が開削した京と伏見を結ぶ運河を行き来し、
人や物資を運んでいた。このことから、運河は「高瀬川」と呼ばれるようになった。最盛期には数百隻が高瀬川を航行
していたといわれる。 [拡大画像: x28827.jpg]
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2.過書船(かしょせん)(画:和漢船用集/わかんせんようしゅう)
「過書」(かしょ)とは関所を通行できる許可書のことである。過書を付与された船は過書船と呼ばれた。豊臣秀吉の頃から
出現した船である。その後、徳川家康によって1603年(慶長8)に制度化された。そして、銀500枚の運上金(うんじょうきん)で過書(朱印状)
が付与され、過書座(過書奉行(角倉与一・木村惣右衛門/すみくらよいち、きむらそううえもん))の支配下に置かれた。
当初は伏見・大坂・尼崎を航行区域としたが、後に伏見~大坂(天満橋/てんまばし)間に改められた。荷船は主に20~200石船、
客船は三十石船であり、いずれも江戸時代の享保初期には数百隻を数えた。 [拡大画像: x28829.jpg]
3.伏見船(ふしみぶね)(画像:なし)
過書船に対抗して、1698年(元禄11)に伏見奉行が支配した船である。過書船と同様に、特権的な営業権を有していた。大坂の天満橋
または京橋までを航行区域とし、大坂市中まで入ることはできなかった。江戸時代の享保年間を最盛期とし、淀川を約200隻が行き交っていた。
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4.淀船(よどぶね)または「淀上荷船(よどうわにぶね)」(画:和漢船用集)」
室町時代以前からあった二十石積みの船で、「淀(よど)二十石船」とも呼ばれた。また、淀川の渇水期には大型船の上荷(うわに)を転載
したことから「淀上荷船」とも呼ばれた。さらには、1603年(慶長8)以降では、過書座の支配下となったため、「過書二十
石船」とも呼ばれた。 [拡大画像: x28828.jpg]
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5.蒸気船
「蒸気船 1870年(明治3)から伏見~大阪間を運航したもので、大阪の綿屋吉郎兵衛がはじめて就航させた
といわれています。当時は「川蒸気()」と呼ばれていました。
以来、17tの外輪式小型蒸気船に始まり、大正期には100隻を数える船舶が往来し、賑わいました。しかし、1910年(明治43)の京阪電車の
出現により、衰退していきます。」(原文のまま)。 [拡大画像: x28832.jpg]
* [画像「濠川を航行する蒸気船」(z23691.jpg)/拡大画像: x28811.jpg]
* 参考
「淀堤」(よどづつみ)(画:澱川両岸一覧/よどがわりょうらんいちらん) [拡大画像: x28830.jpg]
京都伏見の「三栖閘門資料館」の展示パネル「伏見港の船」。 [拡大画像: x28826.jpg]
[撮影年月日:2020.10.5/撮影場所: 京都伏見「三栖閘門資料館」]