一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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「三栖閘門資料館」の展示概要 [京都・伏見]

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画像No.1は京都・伏見に現存する三栖閘門(みすこうもん)である。画像右に写る白壁の館は、かつて閘門を運転するための操作室を修復 して、現在は一般公開されている「三栖閘門資料館(Misu-no-komon Lock Gate Museum, Misukomon Museum)」である。 画像2は修復前の「昔の操作室」である(画像2&3の出典: 資料館前の案内板)。伏見市中を南北に流れる豪川(ほりかわ・ごうがわ)が 宇治川に注ぎ出る地点に設けられている閘門は、両河川の水位差を調節し、船舶を往来させるための構造物である。

昔、豊臣秀吉が伏見城を築造し城下町づくりをするために、宇治川の大規模な治水工事を行なって開いたのが伏見の港である。かつて、 伏見の町の発展はその港と、それを起点にした舟運に支えられていた。京都市中に港があったのである。

資料館では、内陸河川港である伏見港が大阪と京都を結ぶ淀川舟運の中継拠点として発展し、伏見の町が発展したという歴史・文化の変遷、 水位差のある宇治川と豪川の間で船を行き来させた三栖閘門の成り立ち、仕組みや役割などについて、秀吉の時代まで遡って紹介する。

因みに、パネル展示の主なテーマとしては、
① 豊臣秀吉による伏見城下町の建設と伏見周辺の治水事業
② 明治時代における淀川での近代的治水事業
③ オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケらの指導による、主に低水路を安定させて航路を確保するための淀川修築工事
④ 淀川での主な洪水と河川改修工事
⑤ 治水のための三栖閘門の仕組みと役割などである。

港と舟運に関して言えば、例えば「舟運によって栄えた港町・伏見」と題する安土桃山・江戸時代以来の伏見の発展にまつわる主な 史実年表パネル、「城下町〝伏見″の誕生」、角倉了以父子による京・二条と伏見を結ぶ「高瀬川の開削でより栄えた伏見港」、「最盛期の伏見港」、 「伏見港の船」などのパネルが展示される。

展示模型としては、「淀川三十石船模型」、「伏見港と伏見の町」のジオラマ模型など。


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4. 「伏見の港と町」ジオラマ。 [拡大画像: x28821.jpg]
関ヶ原の戦い(1600年・慶長5)で天下を掌握した徳川家康は秀吉の町づくりを引き継ぎ、人口も増加し、さらに発展して行った。 伏見と大坂間を過書船(三十石船)が行き来するようになると、伏見港は物資でけでなく多くの旅人で賑わうようになった。 1635年(寛永12)に参勤交代が制定されると、西国の大名は大坂から船で伏見港に上陸し、東海道を江戸へ向かうようになりました。 このため伏見港には多くの大名屋敷・倉庫・旅籠が並び、伏見港は「京都と大坂を結ぶ」から「西国と東国を結ぶ」重要な拠点へと 発展した。この模型は、江戸中期の古地図を基に製作されたが、町並みは少し誇張されている。

5. 「淀川三十石船模型」 [拡大画像: x28822.jpg]
画像4-5:閘門資料館

[撮影年月日:2020.10.5/撮影場所: 三栖閘門・三栖閘門資料館/京都・伏見][拡大画像: x28810.jpg]





伏見市街の観光案内拡大地図をご覧ください。三栖閘門資料館は図左下隅にある。


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