一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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「名所江戸百景・千住の大はし」
~松尾芭蕉、隅田川を遡り千住で上陸、「奥の細道」へ旅立つ~

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画像1は東京・足立区立郷土博物館所蔵の初代広重の浮世絵「名所江戸百景・千住の大はし」である。川は隅田川である。画の成立(出来上がり) は1856年(安政3年)である。画の下方が南で江戸湾へ至る。北岸(左岸)には千住橋戸町の河岸が描かれ、川面には数多くの舟や筏が見える。  [拡大画像: x28883.jpg]
画像2は俳人・松尾芭蕉である。
出典: 画像1・2のいずれも、現・千住大橋南詰の「素戔雄(すさのお)神社」入り口(旧日光街道沿い)に建つ観光案内板(画像3)。

千住の地は旧日光街道中の初宿で、図絵の千住大橋は江戸で最初に架けられた橋として知られる。 旅を住処とした漂泊の詩人・松尾芭蕉は、深川から船で出立し、ここ「千住」で下船し「奥の細道」へと旅立った。そして、千住は矢立初めの 地でもある。矢立とは携帯用の筆記具のこと。

同観光案内板には、「素戔雄神社」境内に建てられた「奥の細道(おくのほそ道)矢立初めの句碑」 (1820年・文政3年建立)に刻まれる、「奥の細道」の一節と矢立初めの句が、下記の通り書き込まれている。

    千じゅと云ふ所より船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかり幻のちまたに離別のなみたをそそく
    「行はるや鳥啼魚(とりなきうお)の目ハなみた」
    ―行く春や鳥啼き魚の目は泪―
なお、「行く春や」の句は「奥の細道」本文に「これを矢立の初めとして」と表現されている。

[参考] 1689年(元禄2年)旧暦3月27日、門人(もんじん)河合曾良を伴い、深川を舟で発った松尾芭蕉 (1644~1694)は、隅田川を遡って千住で上陸し、多数の門人等に見送られて、関東から東北、北陸をを経て美濃国(岐阜県)大垣に至る旅 に出発した。その行程は600里余り、約150日に及ぶ大旅行であった。この紀行が、1702年(元禄15年)に「おくのほそ道」として刊行された。

[撮影年月日:2020.09.06/撮影場所:荒川区・千住大橋南詰の素戔雄(すさのお)神社界隈にて]

3 [拡大画像: x28893.jpg: 説明書き]






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画像4はJR常磐線「南千住」駅前に建てられた松尾芭蕉の銅像である。「行春や鳥啼魚の目は泪」の句を矢立初めの句(旅の初めに詠んだ句) として「奥の細道」へと旅立った。さて、「5・7・5」の17文字の俳句の世界は人の思いを無限に伝える力、新しいものを創り出す力を育む。 銅像の解説パネル「奥の細道 矢立初めの地 千住」はそのことを道行く人々に語りかけている。

画像5は同パネルに添付された図である。千住大橋の上方に素戔雄神社が記される。図右上隅に方位が示されている。北は下方を指す。従って 隅田川の左方が下流方向に当たる。また、大橋の下方が北詰、上方が南詰である。


ところで、芭蕉が、千住大橋の北詰(即ち左岸)にある、千住宿の船着き場(橋戸河岸)でひとまず下船したことは間違いないであろうが、 千住からの前途三千里・奥の細道へ向けての出発の最初の一歩がなかなか踏み出せなかったようだ。芭蕉と曽良は、 過ぎゆく春のなか、弟子たちその他見送る人々や江戸の町との別れを惜しみ、万感の思いで胸を詰まらせていたことであろう。

さて、芭蕉としては、大橋の南詰・北詰のどちらから出発すればよいものか? 些細なことのようだが、後世の両岸の地にとっては、 矢立初めの地として本家争いの種にもなりかねない問題であったに違いない。千住が矢立初めの地としていろいろ記されるが、北詰・南詰 のいずれから旅立ったか、後に争いになることに配慮して何処にも記されていないように見受けられる。北詰・南詰を暫く行きつ戻りつ したのであろうか。


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