一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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世界史に最も深く名を刻んだ海賊フランシス・ドレーク

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フランシス・ドレーク Sir Francis Drake 1543-1596

名古屋海洋博物館では「海賊と私掠船」と題して8人の海賊について紹介展示している。画像は世界史に最も深く名を刻んだ海賊フランシス・ ドレークである。その紹介パネルには、英国女王からナイトの爵位まで得たF.ドレークの人物評や活動履歴などについて記されているが、 その概略を紹介する。


ドレークはスペインを酷く憎んでいた。その背景にあったのは、一つに幼少期において宗教を理由としてスペインによる迫害を経験したことである。 二に、彼が船乗りとして働いていた時のこと、メキシコのカリブ海沿岸沿いの港町ベラクルスのサン・ファン・デ・ウルア港にて、 スペイン船から襲撃を受け、かろうじて脱出するという九死に一生を得る経験をしたことである。かくして、彼はカリブ海でスペインの 植民地や輸送船に対する襲撃を繰り返した。

当時の英国とスペインは、表立って戦争はしていなかったが、関係は非常に悪化しており、相手を互いに弱体化させることに腐心していた。 エリザベス女王はドレークに対し「スペイン王の数々の不当な仕打ちに報復できないか」と尋ねたところ、「スペイン本国のフェリペ 2世を攻撃することは不可能であるが、新大陸の植民地を襲ってスペイン王を苦しめることはできる」と答えた。そして、信頼を得た彼は艦隊を 率いて世界周航へと船出した。もっとも、最初から世界周航という明確な意図を擁していたかは不明であるが。

途中、航海仲間の反乱や嵐との遭遇、壊血病という死を招く難病などの困難をくぐり抜けながら、南米大陸西岸海域において私掠行為に成功した。 即ち、パナマを経由してスペイン本国へ輸送される大量の銀などの財宝を積載したスペイン船を襲い略奪に成功した。その後太平洋を横断したドレークは、モルッカ諸島では大量の香辛料を 入手することができた。同諸島の住民はポルトガルの支配に反発していたことから、ドレーク等は歓迎されることになった。

英国に帰還したドレークが得た総収益は60万ポンドであったという。英国の国庫歳入を上回るもので、負債を精算するとともに、英国東インド 会社の経営の基にもなった。

ドレークはナイトの爵位を得たり、また英国南西部の軍港都市プリモスの市長にも就任したが、彼は陸上の生活に満足し定着することなく、 すぐに私掠船長に舞い戻った。

1587年、スペインはついに英国への侵攻・上陸の準備を開始したことから、英国は防衛体制を固めることを迫られた。スペイン海軍は自ら無敵艦隊と 称するほど強大な海軍力を誇っていたことから、ドレークは、スペインが準備を整える前に叩きのめすべきであることを女王に進言した。 結果、女王はそれを認めたことから、ドレークは、スペイン側の輸送船や食糧補給漁船など100隻以上を略奪し、無敵艦隊の準備を一年遅らせる ことに成功した。

さて、両艦隊が海戦を開始した後暫くは膠着状態が続いた。その後、英国側は、自国艦隊に有利な風向きと潮流の条件が整ったのを機に、 帆船8隻に火を点けた火船をスペイン艦隊へと送り込んだ。艦隊は混乱状態に陥り、最後は敗走せざるをえなくなり、ついにはスペインの 敗北が決定的となった。

ところで、スペイン無敵艦隊と海戦した後も、ドレークは私掠行為を続けようとしたものの、サン・ファン・デ・ウルアでの襲撃に失敗し、 赤痢に犯される至りこの世を去った。

ドレークはスペイン植民地では極悪非道の大変恐ろしい海賊と恐れられていたが、実際には戦闘以外での殺傷をしなかったことから、 スペインの捕虜からも「統制力に優れ、好感をもてる人物」という畏敬の念が持たれていたようである。

[撮影年月日:2020.9.23/撮影場所: 名古屋海洋博物館][拡大画像: x28906.jpg]




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