一枚の特選フォト「海 & 船」


One Selected Photo "Oceans & Ships"

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東京都大田区立「勝海舟記念館」
Ota City Katsu Kaishu Memorial Museum

~「咸臨丸」、異国に眠る元水夫の墓所、勝海舟の胸像と墓所など~

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東京・大田区南千足の「勝海舟記念館」では、幕末から明治にかけて激動の時代を駆け抜けた勝海舟(1823・文政6年~1899・明治32年)の想い、事績などを紹介する。 幕臣として万延元年(1860年)「咸臨丸」にて渡米、後に軍艦奉行となる。西郷隆盛との会談等を通じて江戸城の無血開城を実現させたりした。

「勝海舟別邸(洗足軒)跡」と題する「洗足風致協会」の洗足軒案内板、その他記念館での展示資料、大田区の海舟案内パネルなどによれば、 鳥羽・伏見の戦い(1868年)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側代表に任じられた海舟は、慶応4年(1868年)3月13・14日の両日に、 官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と、高輪・田町の薩摩藩邸にて会談し、その結果新政府軍による江戸総攻撃は 回避され、江戸は戦禍から免れた。同年4月9・10日、海舟は、武器・軍艦の引き渡しなどを話し合うため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺で 新政府軍参謀と会談した。その結果江戸城無血開城が実現されるに至った。

さて、海舟は、本門寺会談に赴く途上、洗足池付近で休息を取ったと言われている。池の風景を 気に入った彼は、明治23年(1890年)末に洗足池畔に土地を求め、明治24年(1891年)に別荘「洗足軒」を構えた。また、 明治32年1月19日に77歳で他界した後は、遺志により洗足軒の近隣地に葬られた。当初は海舟一人の墓所であったが、後に妻・民(たみ)も合祀された。


画像説明
1. 東急池上線の「洗足池駅」下車後、国道2号線(中原街道)を渡り、洗足池図書館前を経て海舟記念館へ最短で通じる公道に敷かれた、「咸臨丸」と 思しきタイル。 [拡大画像: x28969.jpg]
2. 「勝海舟基金 ~活用報告~」という展示資料において「咸臨丸水夫の墓」と題して掲載された写真。そのキャプションによれば、写真はサンフランシスコに 建てられた咸臨丸水夫の墓所である。乗員の中には航海中に発病し帰還できなかった若者たちもいた。 明治期に現地に渡海した日本人が彼らの墓を発見・保存に尽力した。そのお陰で彼らの存在が人々の記憶に留められ今日に至っていることが 記される。
3. 「勝海舟別邸(洗足軒)跡」と題する「洗足風致協会」の洗足軒案内板に掲示される海舟の肖像写真(国立国会図書館所蔵)。
4. 記念館に展示される海舟の晩年の姿を表現した胸像。彫刻家・高村光雲の弟子・本山白雲の作。

[撮影年月日:2021.03.30/撮影場所: 東京都大田区立「勝海舟記念館」とその周辺にて; 東急池上線「洗足池駅」下車、徒歩5分]

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5. 勝海舟夫妻の墓所。石塔の五輪の形式は海舟が生前に図案化していたもの。水輪には「海舟」の二文字だけを刻ませている。 二文字は徳川慶喜筆と伝えられる。
6. 洗足軒案内板に掲載される「洗足軒」の写真(出典:「荏原名勝付地図」)。別邸の洗足軒は茅葺の農家風建物であったが、戦後まもなく焼失した。


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