マラッカ関連略史


Back to: Top Page | 特選フォト⌈海&船⌋目次 (Ocean and Ship Photos) | 港市マラッカ/マラッカ海峡 を臨む | ご覧のページ



    マラッカの歴史は大きく7つの時代に区分される: 
    ① 15世紀から1511年までのマレーのイスラム教君主(サルタン、スルタン)国の時代、
    ② 1511年~1641年のポルトガル植民地時代、
    ③ 1641年~1795年のオランダ植民地時代、
    ④ 1795年~1941年の英国地植民時代、
    ⑤ 1941年~1945年の日本占領統治時代、
    ⑥ 1945年~1957年の英国植民地時代、
    ⑦ 1957年から現在までのマレーシア独立の時代。


    * 1292-1295年、マルコ・ポーロは1292年に中国・泉州を船出し、マラッカ・シンガポール海峡を経て、スマトラ島北部の ペルラクに約5ヶ月間滞在した。その後、1295年イタリアに帰国する。マルコ・ポーロが東方の旅に出立したのは1271年のことである。

    * 1396年頃、在スマトラ島パレンバンのスリヴィジャヤ王国のパラメスワラ王子がマレー半島マラッカの地において マラッカ王国を建国する

      パラメスワラは、スマトラ島のパレンバンを統治していたシュリヴィジャヤ王国の内乱に乗じて、スマトラ島を支配していた マジャパヒト王国からの独立を企てたが、失敗する。そのため、トゥマセ (現在のシンガポール) に逃れ、その後さらにマラッカに逃れ、 その地でマラッカ王国を建国する。 マラッカ王国は、建国された1400年頃以降から、1511年にポルトガルによって武力制圧されるまで、東西貿易の重要中継地として 繁栄を極めた。 インドからの綿織物、中国からの陶磁器や絹織物、マルク諸島の香辛料などが取引された。インド洋と南シナ海の中間にあり、 季節風 (モンスーン) が半年ごとに向きを変えることから、東西海上交易における風待ち港でもあった。この頃の海上交易船は、 100トン程のジャンクと呼ばれる小型船が主流であり、モンスーンを利用した沿岸航法を採っていた。 マラッカに出入りしていた船の数は、毎年大船約100隻、小船約30~40隻といわれる。なお、マラッカは1414年頃にイスラム化したとされる。

    * 1405年、中国明朝・第三代皇帝永楽帝の命を受けた宦官・鄭和(ていわ)(Cheng HoまたはZheng He)は、60隻1万数千人の大船隊を 率いて南海(南シナ海・インド洋方面)へ大遠征に出立する

      1405-1433年の間、計7回にわたり、東南アジア、インド洋へ遠征し、その分遣隊はペルシャ湾のホルムズ、紅海のジェッダ、 東アフリカのマリンディ (現在、在ケニア) まで到達した。
      1405年 鄭和がマラッカ(満剌加)に初寄港する (鄭和は計5回マラッカに寄港したとされる)。また、鄭和はマラッカ国王に明への 朝貢をとりなした。 マラッカ王国は、明に朝貢使を派遣し、1409年には明・永楽帝によって正式に認知される。 北方の大国シャム王国の度重なる攻撃を受けていたマラッカ王国であるが、この認知によって明国との同盟を確固たるものにし、 シャムのみならず、南方のアチェなどの外国勢力からの攻撃を牽制するようになった。

    * 1438年、ポルトガル・エンリケ航海王子がサグレスに航海学校を設立する。王子は1460年に死去する。

    * 1492年、コロンブス、新大陸に到達する。

    * 1494年、ポルトガルとスペインが、トルデシリャス条約を締結して、大西洋上に南北境界線を引き、今後インディアスにおいて 発見される新領地を東西に二分割することを約する。

    * 1498年、ポルトガル航海者バスコ・ダ・ガマ (Vasco da Gama)、喜望峰を迂回し、インドのカリカットに到着する  (いわゆるインド航路の開拓・発見)。それ以降ポルトガルによる東方海域への進出は急速に展開された。

      15世紀ヨーロッパの香辛料取引市場はベネチア商人に独占されていた。また、その交易にはヨーロッパと東方との間に位置する 中東のアラブ商人たちが介在していたが、オスマン・トルコ帝国の成立(1299年)以降は交易が不安定となり、西欧列強諸国は独自の 交易海上ルートを模索していた。

    * 1500年、カブラルがブラジルに到達する。

    * 1509年、ポルトがル艦隊がマラッカを攻撃したが、その制圧に失敗する。

    * 1510年、ポルトガルがインドのゴアを征服する。

    * 1511年8月、ポルトガルがマレー半島のマラッカを征服する。すなわち、ポルトガルの提督アフォンソ・デ・アルブケルケ (Admiral Alfonso d’Albuquerque/当時ポルトガル・インド総督であった) の率いる艦隊が、マラッカ王国を武力制圧する。 かくして、ポルトガルは、インドの拠点ゴアからさらに東方進出し、マラッカを東南アジアにおける拠点とする。

      ① ヨーロッパでの香辛料の取り引きはベネチア人によって独占されていたが、 ポルトガルはバスコ・ダ・ガマがインド洋航路を開拓して以来 「東インド」海域を独占し、さらにベネチアの独占をも排除して自らが取り引きを独占することになる。その後、16世紀後半頃から、 オランダ、イギリスなどによる東方への海洋進出の挑戦を受ける。

      ② ポルトガルは占拠したマラッカの防御のため「ア・ファモサ」(A' Famosa)と呼ばれる堅牢な砦(城塞)をマラッカ川の河口に築造する (時代はずっと下るが、長きにわたってマラッカを植民地化したポルトガルおよびオランダに替わって支配したイギリスによって、 1807年にその城塞は破壊され、現在では城塞の門の一つである「サンティアゴ門」(Porta de Santiago)が残るのみである)。

    * 1517年、ポルトガルの使節が中国・広東にいたる。

    * 1518年、ポルトガルがセイロンを征服する。

    * 1519-1522年、マゼラン(Magellan)の率いる5隻の艦隊が1519年スペインのセビーリャを出港し、西回りでマラッカをめざす。 南米大陸南端の海峡を発見し(後のマゼラン海峡)、艦隊の一部はマルク諸島に到達、フィリピンを経て、1522年本国に帰還、 西回りの世界周航を果たす。なお、マゼランは1521年フィリピンのセブ島に隣接するマクタン島で住民とのいざこざの さなかに負傷し不慮の死を遂げる。

    * 1543年、ポルトガル人が種子島に漂着する。鉄砲が伝来する。

    * 1545年、イエズス会の聖フランシス・ザビエル (St.Francis Xavier) が、東洋 (the East) における布教活動の拠点づくりのために マラッカを訪れる。そして、マラッカからさらに東アジア方面へと布教の旅に出る。

    * 1549年、聖フランシス・ザビエルが鹿児島に来航する。

    * 1569年、宣教師ルイス・フロイスが織田信長に謁見する。

    * 1577年、英国人海賊フランシス・ドレーク(Francis Drake)、西回りで世界周航を果たす。航海途上、マルク諸島に寄港する。

    * 1582-1590年、天正遣欧少年使節団。

    * 1588年、スペイン無敵艦隊が敗北する。スペイン艦隊とイギリス艦隊との海戦において、スペイン艦隊が敗北し、スペインは制海権を 衰退させ、オランダはスペインから事実上独立する。

    * 1596年、オランダのコルネリス・ド・ハウトマンの率いる4隻の艦隊が、喜望峰、インド洋、スンダ海峡を経てジャワ島のバンテン王国の 港に到達する。

    * 1597年 オランダがポルトガル支配下にあるマラッカを攻撃する。

    * 1600年、オランダは、ポルトガル人と敵対するアチェおよびジョホールの王国と同盟を結ぶ。

    * 1601年 イギリス東インド会社 (the British East India Company) が発足する

    * 1602年、オランダ東インド会社が発足する

      東インド会社はアジアにおける独占貿易を許可された特許会社。「東インド」とは、当時の西欧人の観点ではアラビア半島以東に位置する アジアのすべてをさすものであった。 オランダはインドネシアのジャワ島バタビア(ジャカルタ)に本拠地を置き、イギリスはジャワ島バンテンに商館を設立し、 その後主にインドへ進出し、ボンベイ、マドラス、カルカッタなどを領有化して行った。

    * 1606年 オランダ・ジョホール連合軍がマラッカを攻撃し、ポルトガル軍と戦う。即ち、1606年にオランダは指揮官マテリーフの 指揮の下、ポルトガル支配下のマラッカへの攻撃を行なう。ポルトガル艦隊の援軍がインド・ゴアからやって来たためマラッカから撤退する。

    * 1613-1620年、支倉常長遣欧使節。

    * 1623年 オランダ商館によるイギリス商館襲撃事件が起こる (いわゆるアンボン事件)。イギリスがインドネシア東部における 勢力拡大を放棄して、インドでの貿易に傾注するきっかけとなる。

    * 1640年、オランダは、オランダ東インド会社をして、バタビアから武装艦隊を派遣し、3000人の兵士をもって、ジョホール王国の支援を えて8か月にわたりマラッカを包囲する。

    * 1641年、オランダはマラッカを制圧し、ポルトガルの130年にわたるマラッカ植民地支配を終わらせた。その後、 オランダは183年もの長期に支配する。だが、オランダ東インド会社が東南アジアにおける貿易拠点をバタビアに移して以降は、マラッカは マレー半島で産する錫などを輸出する一地方港となり繁栄は衰退した。

    * 1655年、オランダがポルトガル領セイロンを奪う。

    * 1661年、ポルトガル領ボンベイがイギリス領に編入される。

    * 17世紀後半、イギリス・オランダ戦争。イギリスによる海洋支配とオランダの衰退にいたる。

    * 1786年 フランシス・ライト (Francis Light) はペナン島を占領し、それによってマレー半島への英国の影響力を行使し始めた。

    * 1795年 ナポレオン戦争でフランスの支配下となったオランダは、マラッカがフランスの支配下とならないようにするとの配慮から、 マラッカを一時的にイギリスに預ける。

      イギリスは、オランダからマラッカを託された機会を利用して、ペナンをマラッカ海峡の貿易港として繁栄させるため、 マラッカの衰退政策を進める。 知事ウイリアム・ファークワーは1807年にア・ファモサ砦を破壊する。イギリス東インド会社のスタンフォード・ラッフルズ (Sr.Stamford Raffles)がこれを中止させるが、残ったのは現存するサンチャアゴ門のみである。

    * 1799年 フランスに本国を占領されたオランダは、自国の東インド会社を解散する。

    * 1818年、イギリスはウィーン条約に基づいてマラッカをオランダに返還する。その後、英蘭協約の締結(1824年)へと続く。

    * 1819年、イギリスのスタンフォード・ラッフルズがシンガポールに上陸する。

    * 1819年 ラッフルズは、ジョホールのスルタン (Sultan Hussein Mohamad Shah and Temenggung of Johor) と協定を結び、 シンガポールをイギリス東インド会社に譲り受ける。

    * 1824年の英蘭協約にて、イギリスはスマトラ島の英国植民地をオランダに譲渡し、オランダ植民地のマラッカを英国に譲渡する。 これによって、マラッカ海峡より西側はオランダ領、東側は英国領と定められた。スマトラはオランダ、マレー半島はイギリス との地理的版図となる。

    * 1826年、イギリスはペナンやシンガポールとともにマラッカを英領海峡植民地として成立させたが、 近代港シンガポールの台頭が著しく、マラッカの港湾機能は衰退する。

    * 1858年、イギリス東インド会社はアジアの植民地の統治を本国政府に委ねて解散する。

    * 1867年、マラッカが、イギリス本国政府直轄の植民地となる。

    * 1942-1945年、マラッカが日本占領軍の統治下におかれる。

    * 終戦後の1945年、イギリスが再びマラッカを海峡植民地としたが、独立の機運が高まり、1948年にイギリス保護領としての マラヤ連邦が成立する。1956年2月、トゥンク・アブドゥル・ラーマン・マラヤ連邦首相が、マラッカにてマラヤ連邦の独立宣言を行う。 1957年8月31日、マラヤ連邦が完全独立する。


Back to: Top Page | 特選フォト⌈海&船⌋目次 (Ocean and Ship Photos) | 港市マラッカ/マラッカ海峡 を臨む | ご覧のページ