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    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる

    第 2 節 家族との船旅は船乗りへの夢を育む原点であった


    関西汽船「くれない丸」


    大阪商船「あるぜんちな丸」


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    少年時代から海や船が大好きであった。大好きであることに理由などは要らないと思うが、果たしてどうなのだろうか。 そのことに自問自答したことなど先ずなかった。ところで、62歳にして完全リタイアをしてからは、海にまつわる辞典づくりに没頭できるようになった。 時に過去のことを思い起こし、エピソードなどを綴るようになった。そして、大好きであったことの背景などをあれこれ思い巡らせ、自問自答する 機会も増えた。後付けということではないが、海や船に心を奪われ、大好きになって行ったいくつかの背景を思い起こした。明々白々とした背景 ではないが、それしか思い当たらないので、それを綴ってみたい。

    戦後暫くして、連合軍総司令部によってかけられ重しとなっていた日本の海運界への呪縛が解き放たれた。1950年代には日本商船隊は飛躍的な 復興を遂げつつあった。そして、世界中の海に日の丸の旗を掲げた外航船がどんどん就役し、活躍するようになって行った。その中に南米移民船として就航していた 大阪商船の「ぶらじる丸」や「あるぜんちな丸」があった。両船は姉妹船であり、私的には惚れ惚れするような、流線型にして華麗な「脚線美」と をもつ貨客船であった。船乗りの夢を追いかける一少年にとっては、まさに航海士としてブリッジに立つことに憧れを抱かせるに十分な船であった。

    日本が誇るそんな船で、いつしか「水の階段」である閘門を昇り降りしてパナマ運河を通過し、さらにクレブラカットと称される有名な狭水路を 通過したかった。カリブ海を横切り、アマゾン川河口にあるベレン、コーヒーの積出港として名高いサントス港、さらに世界三大 美港と詠われるリオ・デ・ジャネイロの港、更に南下してタンゴの国アルゼンチンのブエノス・アイレス港へ航海してみたいと 一心に憧れていた。

    北に針路を取り、「自由の女神像」が立ち、エンパイア・ステートビルをはじめとする超高層ビルの摩天楼がそびえるニューヨークに行ってみ たいと、その夢は尽きることがなかった。マンハッタン島南端の両岸には数え切れないほどの 突堤が櫛の歯の如く張り出していた。当時の港景を写す空撮写真には、大西洋横断の定期豪華客船がそんな埠頭を埋め尽くす光景が 写し出されていた。いつしかそんな埠頭に接岸し、ホーサーを岸壁のクリートに掛け、時にマドロス姿でブロードウェイなどを闊歩してみたいと 思い描いていた。

    ところで、家族はみんな旅することが大好きであった。幼少の頃、恐らく小学生3,4年生の頃に経験した船旅が記憶に残る最初のものであった。 祖父母と兄の4人で大阪から四国へ渡った時のことである。関西汽船で大阪港天保山から夜行便で、徳島の南西80kmほどにある甲ノ浦(かんのうら) へ渡った。当時港がまともに整備されていなかったのか、船は陸岸沿いの埠頭には接舷できなかった。未だ夜の明けない真っ暗闇の中を、小型 のポンポン船で岸まで送り届けられた。何故だか当時のそんな情景がうっすらと脳内スクリーンに映し出される。その後ボンネット型の路線バスに乗り込み、未舗装 のでこぼこ道を何時間も揺られて室戸岬へ向かった。灯台を訪ねた後、再びバスに揺られて高知へと旅した。桂が浜に立つ坂本龍馬像を見て、 記憶にも留めた。これが生まれて初めての船旅体験であった。

    海や船への特別な思いがこの船旅で芽ばえたという訳でない。とはいえ、田舎育ちで、船に乗ったことのない私には印象深いものであった。 当時甲ノ浦は明かりもろくに灯っておらず、ほとんど真っ暗状態にあった。岸沿いにほつぽつと街灯が灯っていたと思うが、まるで灯火管制が 敷かれているかように見えた。灯りもほとんどなくても、こんな辺ぴな田舎の港に船はピンポイントでよくぞ辿り着けるものだと、子ども心に痛く 関心したことを妙に憶えている。

    その後の少年期にも家族と何度か船旅で出た。船旅と言えば関西汽船の船と決まっていた。それも瀬戸内海での行き来であった。小学校の5、6 年生ともなれば、いろいろ家庭の事情も理解できたし、船旅の楽しさや海での何ともいえない開放感をストレートに味わうことができた。 父が関西汽船の株式を少し保有していた。当時株主への配当はもっぱら乗船優待券であった。それをもって乗船切符を買うことがしばしばであった。 株式の保有はその優待券を目当てにしていたのであろう。父親は大阪・天保山から四国や九州方面への足代が助かるものと買い求めていたに違いない。

    父母と兄の家族4人で、時に親戚家族と一緒に船旅をすることもあった。家族との最も思い出深い船旅は大阪から九州・別府へのそれであった。 昭和35年(1960年)の小学校6年生の夏休みに、家族4人で天保山から別府へと旅した。関西汽船の船体の特徴は緑と白のツートーンカラーで 彩られていた。シンプルだが美しい色合いをしており、ツートーンのバランスもよかった。さて、別府航路は遠距離ルートなので、関西汽船でも 最も大型の客船が就航していたが、それに初めて乗船できた。私にはそれはそれで大興奮の出来事であった。

    乗船時のクラスは例外なく普通二等客室で、船底により近かった。ビルでいえば地下一階のクラスであった。船側には丸窓が並んでいて、 まだ最下層ではないと安心できた。窓から外を覗き込むと間近に海面が迫り、手が届きそうであった。船客は 一方の舷から他舷へと、2つの狭い通路はさんで行き来できた。二等クラスのそんな大部屋で雑魚寝することがほとんどであった。

    家族旅行はいつも我々子供らの夏休み期間中なので、大部屋はいつも混雑していて、雑魚寝するにも先ずその場所取りに一苦労であった。 長蛇の列の最後尾に並んだりすると、乗船するのに出遅れてしまい、陣取りがうまくいかない。ボーイさんにチップをそっと渡し、親子4人が 何とか足を伸ばして横になれるくらいのスペースを確保してもらうことも度々であった。横になればディーゼル機関のピストンの振動がリズミカルに伝わって来た。 気にもならなかった。振動は船がしっかりとした足取りで順調に航海していることの証くらいに思っていた。だが、それにしても振動の音はうるさかった。

    子供の我々は甲板に出たりして船内をあちこち動き回ることが多かった。明石海峡を通過する頃には、明石の街明かりを眺めるためにデッキに 駆け上がった。深夜に高松港の浮き桟橋に接岸するとか、松山の外港である高浜港に着岸するだの、間もなく最狭水道の来島海峡を通過するだの、 何かはしゃぎ回る理由を見つけては、甲板へと駆け上がった。寝苦しく感じると、海風に当たるためデッキに出て涼むことも多かった。 船首の水切りによって泡立った白波がどんどん後方へ流れ去る。飽きもせずそんな泡立つ白波を後方へと、首を左右にゆっくり振りながら 見送り続けたものである。首もいい加減疲れてくると、自然とそれを止めた。だが、暫くしてまた流れを追いかけもした。

    別府港に着岸後すぐに日豊本線で水郷の町・日田へ急いだ。列車は蒸気機関車に引かれていた。さらに路線バスで湯煙が立ち昇る杖立温泉郷へ。 渓谷にばりつくような温泉郷であった。清流が清々しい音を奏でて流れる。その岩場の淀みで兄と一緒に筏遊びをした。兄は中学2年生であった。 翌日には、再び路線バスで深い渓谷の谷底をはうようにして進んだ。両岸には杉や檜だか鬱蒼と茂り、バスは薄暗い日陰の中を砂埃を巻き上げ ながら疾走した。大観峰からの阿蘇山と大カルデラ地形の雄大な景色を目に焼き付けた。バスは阿蘇山の草千里を縫うように走り、 展望台へ。そこから徒歩で、噴煙を立ち上げる火口を目指した。足をすくませながらも、火口の遥か下にある地球の裂け目を覗き込んだ。身体が宙に浮いて 吸い込まれそうであった。観るべきものは観たという訳で、直ぐに下山し阿蘇駅から汽車に飛び乗り別府へと急いだ。

    別府から乗船した深夜便は「くれない丸」であった。往路では在来船であったが、復路では違った。乗船機会がいつの日かやって来ようと ずっと心待ちにしていた、3,000トン級の「くれない丸」であった。同船は姉妹船の「むらさき丸」とともに、当時、関西汽船では最新鋭の大型豪華客船 であった。両船とも、後部最上甲板に円筒形のガラス張りの展望塔が突き出てていた。塔の階下には豪華ラウンジがあった。 そこで快適なソファやテーブル、止まり木風の椅子が設備され、そこでカクテルなどを楽しめるという、当時としてはそんな洒落た趣向性が 大人気であった。翌朝に神戸港の中突堤で下船した。桟橋から何度も船を見上げ、その優美な「彼女」をバックに何枚かの写真を忘れず記念に 切り撮った。

    家族とともに船旅を何度か楽しむうちに、無意識のうちに海や船への憧れを育み、船乗りになりたいとい思いが芽生えたでのあろう。 「くれない丸」に乗船した小6の頃には、船乗りへの強い憧れや夢を抱いていることをはっきりと自覚するようになっていた。 かくして、間もなくやって来た神戸商船大学長との出会いはそんな思いをさらに大きく膨らませることになった。

    振り返れば、子ども心に、農村社会や田舎暮らしの息苦しさを感じていた。村での昔ながらの因習は子供ながらに煩わしくうっとおしいと感じていた。 自身が村の因習の重圧や伝統の束縛に直接的にがんじがらめになっていた訳ではないが、元々都会育ちであった母を見ていると、村のしきたり、 村人や親戚との濃密な付き合いや義理人情に翻弄され、苦労しているように感じていた。

    翻って、船乗りになれば、そんな田舎での因習や社会的束縛、煩わしさから離れ、どこかの彼方にある自由な世界に 雄飛できると思い込んでいたのかもしれない。船乗りへの憧れや夢はそんな深層心理の裏返しで育まれたものであったと、今になって思う。 断じることはできないが、深層心理を形づくった一つの背景であったに違いない。

    海は世界中の国々や人々とつながっている。船乗りになれば世界中の国々に行くことができる。そして世界中の異文化や人々と触れ合うことも できると純粋に思い込んだ。それはそれで憧れを抱かせたもう一つの重要な背景であった。そんな背景について何の自覚もせず、船乗りへの 道を進むことを固く決意していた。そして、その進路の先にある未来は前途洋々であると思い込んでいた。





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     第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第3節 父の突然の他界で生活は激変、商船高専は諦め普通高校へ進学する