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第2章 大学時代、海の世界から遠ざかり、山を渡り歩く

第1節 北海道の日高山脈を縦走し感涙する

    
   日高本線静内駅構内(2019年9月)

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      関大に通学するようになって何日か過ぎたある日のこと、大学正門付近でワンダーフォーゲル部の部員から入部の勧誘を受けた。 そして、ほとんど「無抵抗」で入部することになった。二歳上の兄が2年ほど別の大学のワンゲル部に所属し、よく山登りに出かけていた。 横幅のある重たそうなカンバス製ザックを背負って出かける兄の姿をよく目にしていた。巷では「カニ族」と呼ばれ、それはそれで 妙に言い得ていた。そんな事情もあって、半ば「待ってました」とばかりに、すんなりと入部に応じてしまった。

      だが、問題が一つあった。兄弟二人して山登りにうつつを抜かす訳にはいかなかった。 家計は随分と楽になっていたとはいえ、農事の手伝いから解放されていた訳ではなかった。兄が山に出掛ける時は、私がその分畑仕事の手伝いに 精を出していた。やるべき農作業は何も変わっていなかった。変わったのは兄弟二人が大人に近づき体力が向上したこと、耕耘機の馬力数が従来より 少しはアップし、作業効率が良くなったことくらいであった。祖父母も母も年々歳を重ね老いていく一方であったし、故に農作業での肉体的 しんどさは軽減されることはなかった。そこで思いついた策は、兄が部活から身を引き、代わりに私がワンゲルの部活をするということでであった。 家庭はそれで円満に落ち着いた。

      高校時代、部活での心身の辛さから自分自身に負けてしまい、二度までも逃げ出してしまった。その苦い体験は紛れもなくトラウマになっていた。 三度目の正直である。大学で体育会系の部活を始めるからには、逃避するような情けないことはもう二度としたくはなかった。 何としても最後まで4年間を全うしたかった。トラウマからの解放にはそうする他、どんな道もなかった。何よりも、高校時代に負ったトラウマに ついては、未だ青春時代の延長線上にある間において完全払拭しておきたかった。

      ワンゲルへの入部は自身への再挑戦であり、リベンジを意味していた。トラウマ克服のための最後の好機ともいえた。大袈裟だが、 「大学体育会ワンゲル部からの卒業」は、「大学法学部からの卒業」と同じくらいに大切で、チャレンジングな事柄のように思えていた。 かくして、ワンゲル部の門をくぐったからには最後の最後までやり貫くという不退転の決意を胸に、部室を訪ね入部願いを届け出た。 トラウマ払拭への挑戦は、自身だけの秘め事であった。部の先輩や同輩らに知られたくないことであった。 入部以来ずっとこの方半世紀以上も心にしまい込んできたことである。過去の実に小さな秘め事であり、今初めて打ち明ける などと言うのもおこがましいことであるが、私的には真面目で真剣な事柄である。

      さて、部活におけるエピソードは沢山あるが、先ずは4年間の部活の中で最も記憶に残る山行について綴りたい。当時18歳のフレッシュマンの時 の夏合宿は、北海道の日高山脈の縦走であった。縦走と言っても勿論山脈のごく一部である。一年生の務めとして、列車内の座席を確保するため、 当時の国鉄の大阪駅中央コンコースに、3,4時間も早目に並んだ。夏休みの真っただ中であったので、長蛇の列であった。改札が始まり、ザック を担ぎ上げホームに上った。普段ならば相当重たいザックも、先ずは膝上にずり揚げ、ベルトに片腕を通して後、「えいやっ」と 気合もろとも一気に背中に担ぎ上げる。だが、10日以上の縦走であり、装備や食糧などをぎゅうぎゅうに詰め込み30㎏ほどになっていた。 そんなザックを担ぎ上げるにはいつも以上の気合が必要であった。ホームではザックを置き並べ、先ず手ぶらで乗車した。身軽にして乗り込み、 席取りをした後に、ザックを車窓から取り込んだ。

      夜行寝台列車は日本海沿いに金沢、富山、直江津へと北上した。翌日上越辺りで朝日を拝み、そのまま陽光を浴び日本海の大海原を眺め ながら、列車は新潟、秋田へとひた走りに走った。そして再び夜を迎えた。深夜近くに青森駅のホームに滑り込んだ。大勢の旅人に混じって、 重いザックを背負ってホームを急いだ。もちろん思う様には走れなかった。 その先に階段があり上り切ると、狭い通路がさらに続く。やっと船の舷側や手摺りが見えた。我々乗客はターミナルから船に渡す、甲板への 小さなタラップを昇り、青函連絡船へと吸い込まれていった。

      階段を下へ下へと降りて、大座敷の二等船室へと潜り込んだ。ザックを通路に降ろし、邪魔にならぬよう並べ、大座敷の一角に落ち着いた。 雑魚寝できるかどうか分からないほどのごった返しようであった。派手はでしく叩くドラの音が鳴り響いた。出港して暫くして船客は落ち着きと 静けさを取り戻した。エンジン音が小刻みに床から伝わって来た。深夜のことであり何が見える訳ではないと思ったが、初めての津軽海峡の 潮風を浴びるのも悪くはないと甲板に出てみた。白い泡が生まれては船側沿いに後方へと流れ去る、そんな航跡を眺め続けた。一度は 本州から「蝦夷地」へこの連絡船で渡って見たかった。「我、津軽海峡を横断中なり」と、暗闇の中で涼風を浴びながら暫し感慨に浸った。 船乗りを諦め、海から遠ざかって一年ほどしかならないが、何か複雑な思いで船上人となっていた。

      船は函館の埠頭に接岸し、大勢の乗客に混じって下船した。タラップを渡りターミナルの通路を人の流れに身を任せに進んだ。階段を下ると、 列車のホームに自然と辿りついた。その足で、ホームに待機していた札幌行の夜行列車に乗り込んだ。朝方には札幌に到着し、その後息つく 暇もなく、地下通路をくぐり抜け日高本線のホームへと移動した。今度は太平洋の大海原を眺めながら、我々の最終目的地で、襟裳岬まではまだ 100kmもある静内へと向かった。大阪を出てから静内まで30時間以上の長旅であった。初めて青函連絡船に乗り、北の大地に足を踏み入れた。 津軽海峡を渡る連絡船とはどういうものなのか、海峡を渡る人々の心情をわずかだが思い巡らせることができた。

      静内の海辺にテントを張り野営した。その夜は太平洋から黒っぽい砂浜に打ち寄せる波の心地よい音に包み込まれながら寝入った。翌日トラックの 荷台にザックなど全てを積み込み、その上に我々6人の部員が鈴なりになって、山林管理専用の林道を突き進んだ。日高山脈の西側から尾根に 取りつくために、最奥を目指し行けるところまで車で分け入った。荷を降ろし一休みした後、細い獣道を登り始めた。ついには道なき道をたどった。 そのうち沢を右岸から左岸へ、再び右岸へと徒渉を繰り返しながら歩を進めた。徒渉には登山靴は不向き故、すぐに地下足袋に履き換えた。 さらに滑り止めとして藁草履を履いた。沢水はまるで氷水のごとく冷たかった。岸から岸へわずか7、8メートル渡り切るまでに、何と足がしびれて くるほどの半端でない冷たさであった。二日目の午後に漸く樹林限界を抜け出て、視界が開けた。日高山脈の尾根を見上げることができ、気分は 爽快であった。

      翌日から尾根に取り付いた。獣道なのか道なき道なのか判然としないままであった。ある時は、強風で横方向に伸びたはえ松の枝の上を 慎重に渡り歩き、時にはその下をかいくぐって進んだ。地図を読むと、エサウマントッタベツ、カムイエクウチカウシ、ピリカヌプリなどという、 アイヌ語を冠した山座が南北に果てしなく連なる。標高1700~1900メートル級の峰々で、標高はそほど高くはない。だが、2千数十 メートルの、山脈での最高峰である幌尻岳が、行く手の北方に猛々しくそび立っていた。

      飲料水を確保するにはやっかいなことが一つあった。日高には尾根筋をスプーンでざくっとえぐったかのような氷河地形が残り、それが特徴 となっている。いわゆるカールと呼ばれる地形である。その平坦なところには万年雪が残る。そこをめがけて尾根筋から200メートルほど 下ることになる。そこで、ガスコンロで万年雪を解かし、先ずは水を確保し、明日の縦走に備える。そして再び尾根に這い上がる。 熊に遭遇するというリスクも高かった。いつも鈴を鳴らしながらの「進軍」であった。夜にはテントの周りに鈴を幾つも吊した。時に雷雨に 見舞われた。雷雨は上からではなく、水平か下方から襲ってきた。落雷を避けるため、ザックを放り出し、時計、ベルトなどの身につけた全ての 貴金属を取り外し、必死で岩場などに身をひそめた。

      かくして丸一週間ほどの日高縦走をやり終えた。当時はほとんど人が入らず、登山道も未整備であった、いわば秘境中の秘境にある山脈縦走であった。山脈のほんの ごく一部の縦走に過ぎなかったが、そこに足跡を残せたことは誇りであった。今度は、山脈の東側に位置する中札内という村をめがけて 沢を下った。中札内から帯広までは25kmほど距離であった。路線バスに乗るのかなと期待したが、あっさりと裏切られた。国道を登山靴でずるずると 足を引きづるようにして「行軍」した。定規で直線を引いたように真っ直ぐに伸びる国道を4㎞も歩いた。「行軍」しても、地平線から道が浮き 上るばかりで、帯広が遠ざかっていくような恐怖をおぼえた。忘れられない蝦夷地体験であった。

      国道の両側にはジャガイモや牧草などが植わり、緩やかな起伏曲線を描く大平原が見渡す限り広がり、いかにも北海道的で牧歌的な風景があった。 そこにサイロや牛舎が点在していた。その壮大な自然風景を時折ちらちらと見ながら歩いた。だが、ほとんど場合、頭を垂れながらの「行軍」で あった。目の焦点は足元のアスファルトに合わせながら黙々と歩いていた気がする。だが、山歩きから解放され、下界の空気を吸い、心には何の緊張感もなかった。 集合地点の帯広で待っていたのは、マトンの「ジンギスカン料理」であった。マトンの焼肉をこれほど美味く味わったのは生まれて初めての 体験であった。当時高級品であった「雪印」バターも本場でたっぷりと味わった。知床半島縦走グループと帯広で合流し、再会を喜び合った。 翌日解散式が執り行われた。北海道には再三来れないとの思いから、仲間4,5人と日本最北の港町稚内へ、さらにフェリーで礼文島 へと旅した。4年間の部活で、後にも先にもこれほど印象深く記憶に刻まれた山行はなかった。こうして、一年生の部活を無事やり終え、大学一年次の夏のことであった。

      余談だが、この合宿から50数年後の2019年9月に友人と道東へ旅した。苫小牧、襟裳岬、釧路、根室へと海岸沿いにドライブした。 途中どうしても見たかったのが静内であった。今は新日高町に吸収されている。静内の町ではっきりと思い出せるものはなかったが、静内駅の ホームに出た。日高本線は何年か前の台風による高波に襲われズタズタに寸断され、ずっと不通のままで、事実上廃線状態にあった。 駅構内のレールは錆びついたままで、無惨な風景に感涙であった。駅舎の向かいのホームに立つ駅名板「しずない」を見た時、記憶が蘇った。 あの時列車が「しずない」で停車しザックを車窓から下ろした後、駅名を確認した。木の板でできた、その駅名板を思い出した。   網走からの帰り道にわざわざ帯広を経由した。もう一つ見たかった。それは中札内の市街中心部近くで見つけた。4㎞の直線道路である。 4km真っ直ぐに伸びた道路はここしかなかった。間違いなくここをドタ靴で半世紀前に歩いた。 帯広から中札内への道中ずっと日高山脈を間近に眺めながらドライブした。だが、その山脈風景はほとんど記憶に留めない。 時に周囲の田園風景を眺めながら国道を歩るいたが、顔をほどんど下向きに歩き、日高をじっくり眺めず脳内のスクリーンにしっかり焼き付ける ことがなかったからであろう。そんな他愛もないことを懐かしむほど、日高縦走は強烈な印象を残して通り過ごして行った。




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    第2章 大学時代、海の世界から遠ざかり、山を渡り歩く
    第2節: 先輩には下界で、自然には山で厳しくしごかれる