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第2章 大学時代、海の世界から遠ざかり、山を渡り歩く

第2節: 先輩にはキャンパスで、自然には山で厳しくしごかれる

    
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      何かしらのサークルに属していなければ、授業を終え図書館で暫く過ごした後、家路に就くくらいであろうか。ワンゲル部はキャンパスの北端に 小さなヒュッテ風の部室をもっていた。午後4時頃トレーニングの時間になると、1年生から3年生までの部員全員がその部室に集まり、 トレーニングのスタンバイをした。その頃になると部室周辺には目に見えない緊張感が支配していた。心身を鍛えるトレ-ニングは、平日の月曜日 から金曜日までの毎日で、授業のない放課後の時間帯に2時間ほど、全員で汗を流した。 日頃のトレ-ニングはきつく、いつも5kmほどのランニングが含まれる。特に1年生は途中バテないように気合を入れて臨む毎日であった。

      部内での上下関係は歴然とし、絶対不可侵的であった。内部の組織と秩序立ては、3年生の主将を頂点にしたピラミッドのようにガチガチ であった。上級生による指示は絶対的なもので、部室内には専制的な空気がいつも張りつめていた。一年生は自虐的に「奴隷」と認識し、 4年生は雲の上どころか、もはや不可侵の「神様」のような存在であった。4年生は卒業単位の最後の数合わせと就活などに忙しく、日常ほとんど 姿を見せることはなかった。当時、ワンゲル部は下級生への「しごき」事件で、時々新聞の紙面を賑わせて社会的に注目を浴びることも多かった。 「しごき」はいわばワンゲル部の代名詞的な言葉といえた。私は底辺に位置する部員として歯を食いしばり、何が何でも「奴隷」的な一年次を 耐え抜こうと必死であった。過去の二回のトラウマを一生背負って生きたくはなかった。4年間部活をやり抜いて完全払拭をなし遂げたい という、自身のみが知る秘かな望みと誓いをパワーの源にしていた。一年は長いが、四年間はさすがに遥かに長い道のりであった。

      通常の学期中は、授業出席が最優先であり、部はそれを推奨していた。そんな空気感には救われた。英語とフランス語の語学講義はマンモス 授業形式ではなく、毎回実際の出席が確認された。出席率確保もおろそかにできなかった。いずれにせよ、どんな授業であっても出席することで、 部室からの物理的距離を置けば、少しは緊張感が薄まり気が休まるということであった。

      部活としてキャンパスを離れて、実践的なボッカ訓練のため山行に出掛けるのは、主に週末を利用してのことで、関西圏内の山々に出かけた。 例えば、六甲山、琵琶湖西方の比良山、滋賀・三重県境の鈴鹿山脈、奈良県の大峰山・大台ケ原方面などへの 日帰りか、1~2泊程度の山行が主であった。秋や冬期には、部の先輩たちが自前で建設した小さな山小屋のある、兵庫と鳥取県境近くの 鉢伏山方面に山行した。

      一年間のうちの最大の山行行事は、2週間ほどの夏期合宿であった。その後秋深まる時節に4、5日ほど山にこもった。 真冬の時期には、ワッカを履いて深雪の中をラッセル訓練したり、スキー板の裏面に人工皮革の「シール」を張り付けての斜面歩行や滑降する 訓練をしたた。また、雪上でのテントの速攻的設営や撤収の訓練などを繰り返した。スキー板には特殊な金具が取り付けられていて、 登山靴を履いたままセットできた。その後春休みになって、10日間ほど雪深い連山をスキー板を履いて縦走するという山岳スキー合宿に出掛けた。 数えてみれば、年間通じておよそ100日近く「カニ族」の出で立ちで、山登り・里歩きと山岳スキーなどに家を留守にしていた。

      日頃の厳しい鍛錬をもって山行に備えることの重要性を時に思い知らされることがある。ここで日頃の鍛錬なくして山行はないことを思い 知った事例を綴りたい。二年次の秋合宿で南アルプスに出掛けた。日本で富士山に次ぐ高い峰は北岳であるが、そのピークをめがけて一気に攻め上がった。 その後、3000メートル級の山々が連なる尾根筋をたどり、間ノ岳や塩見岳方面へと縦走していた。その頃に、低気圧が日本列島を横切り初冠雪を もたらした。気温は一気に下がり、みぞれ混じりの空模様となった。私は、NHKラジオ放送の午後の気象通報を聴き、白地の気象図にデータを プロッティングし、等圧線を引き、天気図を書き上げねばならなかった。二年生の気象係の役目であった。グループから一人離れて、みぞれが降る中、 熊笹の繁みに身を寄せ傘の下で気象データを書き込んだ。その後粗方気象図を作成して先を急いだ。意外にも半時間ほどでグループに追いついた。 余りに早く追いついたので、嫌な予感がした。

      どうも様子がおかしかった。皆して、大木や熊笹が生い茂る雑木林然としたところで、何やら手分けして作業をしているようであった。 すぐに状況を知った。一年生部員が急激な寒さと疲労のため意識がもうろうとしており、低体温症に襲われているようであった。 「身体をマッサージしろ」、「すぐテントを建てろ」、「コンロで火を起こせ」と矢継ぎ早に三年生のリーダーからの指示が飛ぶ。 皆して緊急にテントを10分で設営した。ガスコンロに火を付けテント内を暖め、必死で彼の身体をマッサージした。その結果、幸いにも手遅れに ならずにすんだ。低体温症が深刻になれば、致命的な事故につながりかねなかった。マッサージと暖気の確保が回復を呼び込んだようだ。 意識もはっきり戻り、低体温症から脱し、事なきを得ることができた。

      部員の日頃の速攻的テント設営の訓練だけでなく、日頃のその他のあらゆる鍛錬と備えがいかに重要であるかを思い知らされた。だいたいに、 日頃の辛い鍛錬は嫌なもので、やりたくないのが本音であろう。また、日頃の鍛錬の重要性をしっかり認識せず、時に過小評価しがちである。 しかし、山行での安全確保のためには、鍛錬し備えておくことが何よりも肝要であるといえる。山での緊急時対応において、適格で機敏な行動が 求められる。自然の中でのそんな試練を乗り越えるには、日頃から鍛錬に真剣に向き合い、備えを怠らないことでしかない。 先輩部員が鍛錬の重要性と必要性を何度語ろうと、なかなかピンと来ない面は否定できない。だが、山での一度の緊急事態体験はそのことを ストレートに悟らせてくれる。そして、自然の中に身を置けば、その素晴らしさだけでなく、その厳しさをも教えてくれる。下界では常日頃 先輩にしごかれる訳だが、山に入れば自然にもっと厳しくしごかれることになる。

      山行体験を綴れば切りがないが、山中での低体温症の恐ろしさを自ら体験したことがある。一年次のことであった。身に降りかかった思いもよらなかった 体験を思い出すたびにぞっとする。人はこんなにも簡単に死の淵にたたされるものかと、驚くばかりである。時に今でもその悪夢を見ることがある。 紀伊半島の背骨にあたる奈良県の大台ケ原近辺は、日本有数の降雨地帯である。10月の秋合宿で、その地域に山行した。その日は朝からずっと 大雨にたたられていた。ザックにいつものようにビニール袋にしまい込んでいた寝袋や着替え用衣類などがひどく水にやられてしまい、ぼとぼとの 状態であった。一日ひどい大雨に祟られたが、ここまで水が浸み込むとは、想定外であった。ビニール包装を三重くらいに厳重にしておく べきであった。包装が不十分であったことは、結果を見れば明らかであった。それに、丸一日合羽を着ていたので、肌着やコールテンのユニフォームや ズボンさえも、発汗のために内側からもびしょ濡れであった。合羽を脱ぐと体温で湯気がもうもうと立ち上るほどであった。

      大雨の中、沢沿いに下ってやっとの思いで山間の小さな村に辿り着いた。沢では清流が濁流となって暴れ回り、まるで滝のごとくの落流であった。 さて、その日のテント設営をどうするかであったが、余りのひどい豪雨のため、リーダーは屋外での設営を諦めるほどであった。 今は廃校中の小学校を一晩使わせてもらうことになった。それも運動場ではなく教室を借りることになった。教室で一夜をやり過ごせること になったのは、寝袋のことを考えれば私的には大きな救いであった。寝袋は水をたっぷり吸い込み、床に広げようとしたら、その含んだ水の重みで 「どさっと」いうひどい音がした。たっぷりと水を含んだ寝袋の冷たさに、暫く潜り込むのをためらった。だが、決意を固め「えいやっ」と気合 をいれて潜り込んだ。

      悪い予感が的中した。潜り込んで暫くすると悪寒がやって来た。その後猛烈な震えが襲い掛かかってきた。両顎の歯が勝手にガチガチと噛み合い、 その震えと音は半端でなかった。ガチガチする顎の震えを意識して何とか止めようとしたが、全く制止できないでいた。寝袋と着ている全ての 衣類がダブルでびしょ濡れで、体温がひどく奪われたのだ。教室も寒々としていた。ひどい低体温症に陥ったのであろう。このまま震えが治まらず、 低体温症で死ぬのではないかという恐怖に襲われた。その恐怖は半端ではなかった。今にも発狂して寝袋から飛び出して駆けずり回りたくなる のを必死に堪えた。

      低体温症に無警戒であったことをひどく悔やんだ。予備の衣類も全部びしょ濡れであり、着替えても意味がなかった。ではどうするか、 一つだけ方法があった。何重にもビニール袋に入れていた新聞紙は無傷であった。新聞紙を上半身にじかに差し込み、保温すべきであった。 だが、新聞紙は、雨天の日にはなおさらのことだが、食事を作るための火起こし用に絶対不可欠のチーム共同の用材であった。一年生の独断 でもって勝手に使用する訳にはいかない。明日には必要になるかもしれない。チーム共同用材を濡らしてしまい、用を足せなくしてしまう 訳にはいかなかった。身の危険回避か、共同用材の保持か。悩んだ末、後者を選択した。今思い起こせば、その一部使用でも申し出るべき であったかもしれないと猛省する。今でもその時の発狂しそうなパニック状態時のことを思い出すことがある。幸いなことに、半時間ほど 必死に堪えた後、その猛烈な震えは治まってくれた。これで低体温症のピークを越えられた、九死に一生を得たと思った。 びしょ濡れと冷えだけで死の淵に立たされるという、そんな恐ろしさを嫌と言うほど思い知らされた、真に衝撃的な体験であった。

      部活のことについて未だ未だエピソードがあるが、ここで時間を先送りし、視点を変えて部活の意義について少し振り返りたい。 部活を通じて何を学び何を得てたのであろうか。多くの先輩や同輩・後輩と山行を共にした。正に「同じ釜の飯」を食べた大勢の仲間がいた。 その繋がりは、ワンダーフォーゲルという自然と親しむ純然たるスポーツサークル活動を通じて育まれたものである。 人生を辿る上でそれは貴重であり、人間関係を豊かにしてくれるに違いない。

      部活を通じて、リーダーシップ、協調性やチームワーク、計画性、自立・自律性、利他性や自己犠牲の心、仲間を思いやる心や友情など を考え、学び、育んだと、希望的推測をもって多少なりともいえよう。その具体的内容は何かと問われれば、これまた答えに窮してしまう。 年間100日近い山行でいろいろな経験値も向上したともいえる。全てのことが無駄でなく、有意義であった。そう思えることで十分であると思っている。 敢えて人間形成に役立つとか、人間力そのものを高められるとか、おこがましくて語れることではない。その目的のために部活を 始めた訳ではない。そもそもであるが、確信をもってそれらの人間の構成要素を育めたなどとはいえない。 まして、定性的にいえても、定量的にここまで育み向上したとは、何一ついえないであろう。立証もできない。ただ、一つだけ確信をもって言いうることがある とすれば、部活での経験を通じて、「教科書にないことをいろいろ多少なりとも学び、会得することができた」ことがある、ということである。 私的にはそれで十分な4年間であった。

      ところで、4年間の部活でえた、私にしか見えない最大の「目に見える」成果は何か。それは、他人から見れば信じられないかもしれないが、 私的には過去のトラウマからの完全解放であった。とにかく、4年間やり通した。肉体的にどんなにバテても、精神的に折れても、一度も退部しようと考えたことはない。 部活を始めた第一かつ究極的目標は、「ワンゲル部を卒業すること」であった。大学卒業も嬉しいことであったが、部活卒業も真に嬉しかった。 トラウマ解放を糧にして、社会人となっても何のコンプレックスもなく乗り切って行きたいとの思いがあった。 そのトラウマからの全面解放で十分であった。3年次の末に、主将の責務を一年後輩の「薩摩男児」に引き継いで、 部活から事実上の卒業を果たした。4年次は「部から隠居」して単位取得と学部卒業のための最後の追い込みに突入した。そして、就職でなく大学院への 推薦入学に望みをつないだ。そのことは3章でふれたい。

      最後に、部活の途上で得たものが一つあった。ワンゲル部にて山の世界に没入して以来、海から遠ざかり、人生の目標を失い、大海に漂流していた。 そんな中、雪山での合宿において得たものである。人生の目指すべき「方位」についての閃きをであった。部活で得た最大の特筆すべき宝物は、 その閃きにあった。何を閃き、その後の人生をどう方向づけることになったのか、次節で綴りたい。




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     第2章 大学時代、海の世界から遠ざかり、山を渡り歩く
    第3節: 冬山のテントの中での閃き