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第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ

第3節 「関大新聞」の記事の中に二文字を見る

    
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  特別研究生になって間もない春のうららかな日であった。大学院の前庭の陽だまりで一人くつろいでいた。そして、学生食堂で先ほど手に入れた タブロイド版の「関大新聞」という学生向け新聞を芝生の上に広げ流し読みしながら、何気なくページをめくっていた。 その時ある囲い込み記事の見出しの中に、「国連」という文字が一瞬目に留まった。 その囲い込みとは、既に社会に出て大活躍中である母校の卒業生を紹介するためのコラムであった。日本経済新聞で言えば、朝刊の裏面ページ によく掲載される「私の履歴書」の類いである。めくる手を止め、その記事に眼をやった。

  記事をざっと斜め読みしてびっくり仰天した。関大の法学部を卒業し、法務官としてニューヨークの国連本部で活躍中の先輩を紹介する ものであった。その先輩とは曽野和明氏のことである。国連法務官として、国際商取引委員会などで国際商 取引に関する国際条約の交渉案を取りまとめるなどの実務に携わっているという。記事では、卒業してから国連奉職に至るまでの系譜や法務官 としての職務概要などが紹介されていた。

  国連法務官への道を進もうという決意を胸に学びの最中である私としては、その記事はとても価値のあるものであった。 先輩の国連での専門分野は国際商取引であったが、その職務は私が目指すのと同じ法務官であり、その活躍を身近に知りえて興奮した。 夢中で隅から隅まで記事を読み漁った。そんな先輩の存在は私を大いに奮い立たせてくれた。国連奉職は決して夢物語ではなく、努力すれば 自分も辿り着ける仕事ではないかと思えた。今後留学をやり遂げれば、国連奉職はさらに手の届くところとなり、それをぐっと手繰り寄せる ことができると、正に勇気百倍を得ることにつながった。

  国連職員になるためのどんな助言でも得たかった。また、法務官の職務のことや待遇面などについてなんでも生の情報を得たいと思い、 早速国連本部宛てに航空郵便をしたためた。曽野氏の正確な所属部署やルームナンバーは不明であったが、フルネームさえ明記すれば、後は 「United Nations Secretariat、NY、USA」で届くものと投函した。本人に間違いなく届けられると全く心配しなかったが、果たして返事を もらえるか自信はなかった。だがしかし、有り難いことに、一か月ほどしてから、御本人から直々の返信メールをいただいた。

  返信には、国連本部における仕事、職階制度、待遇面などの生情報だけでなく、内部でのポストを巡る熾烈な国際競争、昇級の仕組みと運用や 駆け引き、いろいろな局面での出身国政府による外交的サポートのことなど、興味深いエピソードなどが盛られていた。 偶然目にした記事が取りもつ縁で、奇遇にも母校を同じくする先輩であり、しかも現職の国連法務官の職にある曽野氏と接点が芽生え、 国連奉職を目指す決意を新たにした。突き進む勇気とパワーは何十倍にもアップできたような気がする。

  その後の手紙のやりとりの中で、日本へ一時帰国される予定のあることを知らされた。夏期休暇によるものか、何用のためであるかは定かで はなかったが、いつか直接お目にかかれる機会がありそうであった。「ご帰国の際は、どこにでも参上しますので、是非一度お目にかかること ができれば嬉しいです」と、返信をしたためた。 その後暫く音沙汰なく、曽野氏の帰国のことを気に掛けることもなくなっていた夏の終わり頃のある日、突然自宅に曽野氏から電話がかかってきた。 曽野氏がすでに一時帰国されていたことをその時初めて知った。「東京での用事も済み、近日中にニューヨークに帰任する」とのことであった。 そして、「離日する当日、羽田空港であれば、会う時間を少しは取ることができるので、わざわざ大阪から上京できるかどうか」とわざわざ 声をかけてもらった。曽野氏に会えるのであれば、どこへでも出向くつもりでいた。

  翌日午前早めに新大阪から新幹線に飛び乗り、東京へと急いだ。待ち合わせは羽田空港国際線ターミナルの出発ロビーであった。出発ロビー 北側二階の片隅にあったレストランでいろいろ対面会話をすることになった。そして、この初顔合わせの対話を通じて、ある事実を知ることになり、 さらに成り行き上、ある出来事に遭遇することになった。いずれも想像もしていなかった驚きの事実であり、出来事であった。 わずか30分ほどの会話が私の背中を押すことになり、運命を切り拓き導くことになろうとは、信じがたかった。

昔少年時代に、神戸商船大学の小谷信一学長への一通の手紙が、船乗りへの夢を追いかける起点やきっかけとなった。曽野氏への一通の手紙が米国 留学を大きく後押しする起点やきっかけとなった。一通の手紙をしたためなければ、何も起こりえなかったに違いない。 行動のもつ運命的意義を噛みしめるばかりである。勿論、偶然にもあの記事を見なければ曽野氏を知りえなかったであろうし、その後の出会い もなかった。記事の中に国連という二文字がなければ、気が付くことはなかったはずである。「たまたま」そうであったことの意味深さを知った。 あらゆるチャンスがいつも目の前を流れて行く中、目的意識や志しをもっていなければ、それをチャンスとして掴み取ることはできない、 というのは限りなく真実に思える。



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 第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
        第4節 羽田空港での会話はその後の運命を拓く