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第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰

第5節 第一学期の学業成績に衝撃を受け心折れる

    
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  第一学期の初っ端から2教科をドロップアウトした上に、最も大事なバーク教授の「国際海洋法」の講義に四苦八苦した。海洋研究所でのゼミ形式 主体の講義では、それなりに抽象的な理論も含まれていたが、具体事例をまじえた説明も多かったので、曲りなりにも講義についていけた。 だが、ロースクールでの海洋法講義は、私には難解さがいつも付いて回り、なかなかすんなりとは理解できないでいた。 同教授の海洋法は履修必須科目の中でも筆頭であった。海洋プログラムへ入学した意味の一つはまさにその科目の履修にあったといえる。 海洋プログラム在籍の院生は履修が必須であったが、ロースクールの学生たちも任意に履修しており、合わせて20人ほど受講していた。 理由が何であれ海洋法をドロップアウトすることなど、海洋プログラム院生にはありえないものであった。他教科に振替することなどありえず、 必死に食らいついて行く他道はなかった。少なくとも「B」スコアを取得したかった。

  毎週毎回バーク教授の海洋法講義に臨むに当たっては、いつも気をしっかり引き締め直した。今日こそはこれまで以上に精神を集中し、講義内容 を理解しようと真剣に向き合った。そもそも留学に先だって学んできた国際海洋法であり、どの教科よりも予備的知識があるはずであった。 だがしかし、授業が進むにつれ、理解度が上るどころかむしろ減退して行った。ついには集中力の緒が切れ始めて、講義途上でギブアップする 破目になりがちであった。それでも、再び気を取り直して授業について行こうと、耳をそばだて必死に集中するのだが、そのための気力は長くは 続かなかった。授業が終わってみれば、消化不良に溜息だけが残る状態に陥り愕然とするばかりであった。留学生にとってはこれが最も苦しく情け なくなる時であった。

  「理解できない」とか、「難解である」とは具体的にはどう状態のことなのか。断片的に単語やフレーズを聴き取って、それらを脳内の スクリーンに文章として焼きつけようとしても焼きつけられず、説明内容のアウトラインすらも呑み込めないということである。 例えば、ラジオ番組のチューニングにおいて、ほんの少し部分的には聞き取れるが、大半はガーガーと雑音が鳴り響くかのようで、何を言って いるか内容を聞き取れないのと同じである。聴き取れた断片的な単語やフレーズを頭の中でいくら掻き集め、それらを繫ぎ合わせようとしても、 しっかりしたストーリー性のある文章にできないのである。結局、そうなればその内容を呑み込めないことになる。頭の中で星雲がとぎれとぎれに 渦巻いているような状態で、中心核をもつしっかりとした星雲の形成にはならない、とも言える。 その状態が長く続くと消化不良となり、最後は脳内回路はもつれ、パニック的な状態になると言ったところである。

  苦肉の策というか、「溺れる者、藁をもつかむ」というか、同じプログラムに在籍のクラスメートに頼んで彼らの受講ノートを見せてもらい、 さらにコピーまでした。少しでもキャッチアップしょうと必死にもがいた。だが、手書きのノートは実に読みづらかった。活字印刷本を読んで、 じっくり読解するようには行かなかった。ノートに目を通し何かを断片的に理解できることもあったが、テーマ毎にどんな法理や実例が論じら れているのか、その内容を明瞭然につかめず愕然とした。イライラが募ることになり、ついにはノートに頼ることも諦めてしまった。

  かくして、学期中バーク教授の法理論の展開になかなかついて行けず、理解にひどい消化不良を起こし続けていた私は、全く自信のないまま 期末テストを迎えることになった。覚悟を決める他なかった。幾つか与えられるテーマから一つを選択して、「タームペーパー」と称される 論文を一定期限内に提出するというものではなかった。翻って筆記試験となると聞かされた。他のクラスメートもそれには多少心を揺さぶられた ようであった。嫌な予感がしたものの、今更どうすることもできなかった。因みに、IMSでの履修科目の期末試験はすべてタームペーパー方式 であった。余談だが、在学中での筆記試験はバーク教授の海洋法と、われわれ5名のプログラム院生が受講した「海洋学」のみであった。

  さて、海洋法の筆記試験は、幾つかの設問中からの選択方式であった。設問として、互いに向かい合う2つの沿岸国の大陸棚に対する主権的権利 やその境界線画定に関するものを選んだ。1974年の、今から45年以上も前の設問であるから、到底その詳細を思い出せないが、概ね次のような ものであったものと察している。

  設問の背景。沿岸国AとBの海岸線は向かい合っている(相対している)。その両国間距離は200kmほどである。二国間には水深100-150mの共通の 大陸棚が広がっている。A国の海岸からその陸地の自然の延長をたどると、海岸から遠くないところに最大水深500mほどの舟状海盆が平行して 走っている。そして、その海盆を越えたすぐの沖には再び100-150mの大陸棚が広がり、そのままB国の海岸からの陸地の自然延長と重なり合いつつ、 B国の海岸線にいたっている。

(1) A国は技術的先進国で、水深300mまでならば海底油井を掘削する能力をもつ。そこで、A国は、その舟状海盆を越え、かつ両国間の中間線 よりもずっと自国寄りにある水深300mの大陸棚海底で油井掘削を行なう計画である。

(2) 他方、B国は開発途上国であるため、自国沖の大陸棚上で海底石油などの資源開発を行なう技術力はなかった。B国の主張によれば、自国の 陸地の自然の延長は、両国の中間線を越え、その陸地が舟状海盆へと下り始める水深200mまでは続いており、自国の大陸棚の主権的権利はその 海底地点まで及ぶと主張する。また、A国は「1958年大陸棚条約」の非加盟国であり、A国はその地点で掘削する権利を有しないと主張する。

(3) 現在第三次海洋法会議で、大陸棚法制や境界線画定方法の見直しが審議されているものの、審議中のいずれの条約規定案もこの事例には 適用されないものとする。また、A国は大陸棚条約の非加盟国であるが、B国は加盟国となっている。

主要設問は次の2問である。
設問(1): A国は、国際法上、舟状海盆を越えて水深300m地点で海底油井掘削を行なう主権的権利は認められるか。
設問(2): B国は、国際法上、中間線を越えて水深200m地点まで主権的権利が及ぶと主張できるか。

  設問の法的論争に適用される主なルールとしては、現行の成文国際法(多国間条約)である「1958年大陸棚条約」が一つである。適用される 国際慣習法の規定や法原則があるとすれば、それはいかなるものであるか。もう一つは「1969年の北海大陸棚の境界線画定に関する国際司法裁判所 の判決」である。これらの規定や判例をよく理解したうえで、法理論を展開し解答を導かねばならなかった。

  設問(1)について。大陸棚条約規定では、大陸棚は海岸に「隣接する」領海の外の「水深200mまでの海底およびその下」、または「水深が それを超える場合には天然資源の開発可能なところまで」とする。沿岸国が大陸棚の権利をもつ根拠は、この隣接性や近接性にあり、 地形上や地質学上の大陸棚の定義を採用していない。また、「1969年の北海大陸棚事件の判決」では、この条約規定については、国際慣習法化 されていると結論付けている。従って、A国は条約の非加盟国であるが、A国にも同規定が適用される。A国は水深300m地点の海底であっても 開発可能であり、そこでの権利を正当化できる。また、舟状海盆があってもその地形とは関係なく、同掘削地点は両国中間線のずっとA国寄りにあり、 A国の海岸に隣接または近接していると言える。

  設問(2)について。A国は加盟国である。規定上、海岸から沖に向かい「水深200mの海底およびその下」まで主権的権利をもつが、 その権利は両国の中間線をはるかに越えて、水深200m地点にまで及ぶか。これは相対する国の境界画定の問題でもある。大陸棚条約第6条の 規定では、向かい合っている国での境界画定について、合意による決定を基本原則としつつ、合意がない時は、特別事情がない限り、 中間線を適用することと規定する。だが、北海大陸棚事件判決では、この規定は国際慣習法化されているものでないと判断しており、 A国は同規定に拘束されないが、加盟国のB国は拘束されることになる。 従って、B国は、特別事情が見当たらないので、中間線をはるかに超えて水深200mまでの大陸棚主張を正当化する権利はない。 翻って、A国は同規定に拘束されず、中間線近くまで権利を主張する立場に立てることになる。とはいえ、先ずは境界画定につき両国間で 合意をえられるよう外交的努力が求められることになる。

  1974年以降には、大陸棚法制を含む国連海洋法条約が制定され、大陸棚境界を巡る幾つもの国際司法判決事例が発出され、それらの新しい 基準やルールが成立してきた。そんな状況の中で、時代をはるかに遡ってバーク教授の設問(それも記憶がかなり曖昧の設問)を論述し、 1974年当時のルールをもって解答を試みるのは、内心忸怩たる思いがある。というのは、期末筆記試験の結果は惨憺たるものであったから である。

  当時、この設問に接した時、大陸棚条約のいかなる諸規定や北海大陸棚事件のいかなる判例・法理をどのように適用し、いかなる理論構成や 展開をもって、また幾つもの論点を簡潔に整理して、いかなる結論を導き出すべきか、最初の可なりの時間に悩みに悩んだ。あれやこれやと 頭をひねくり回したものの、論点整理が一向にできず、解を求めるも明解で納得しうる解には辿り着けず、解なければ筆も進まず、 時間半ばには焦るばかりになってしまった。多分、何の解に向かって何を論じているのか、わからないようなひどい精神状態に陥った。 さらに、まとまらない論理を英語で筆記するのであるから、答案用紙は消しゴムのくずだらけになっていた。留学生には若干時間延長が認められたが、 他の米国人受講生もぎりぎりまで答案用紙と格闘していたのには、少しはほっとした。納得の行く答案にはほど遠かったが、時間切れとなり、 解放されはした。無念の思いを引きずって教室を後にした。

  結局、国際海洋法の期末の筆記試験で「C」をマークしてしまった。遂に衝撃的な結果を目の前に突き付けられた。 ロースクールの学生は「Juris Doctor」という学位取得に必要な履修単位の成績を平均して「C」、院生は「LL.M」という学位取得には平均「B」を マークしている必要がある。それ以下であり続けると、留学生ビザが延長されないことにもなりかねなかった。 期末試験の結果、一つの「C」のために、第一学期の平均は「B」以下となり、次学期以降に「A」をマークして相殺しなければリカバリー できないことになった。ドロップアウトした2必須教科もあったので、どこかの時点で学位取得にはそれらもリカバリーする必要があった。 ある意味で致命的とも思われた。バーク教授から「C」という情けないスコアをもらったのは、留学の経緯を考えれば真に忸怩たる思いで一杯であった。

  次学期以降にスコア「C」を「A」でもって相殺する他に道はなかった。何よりも指導教授の最も重要な必須科目の結果に愕然とし、 最も落ち込んだ。人は笑うかもしれないが、人生の後先でこれほど心が折れた事なかった。 相殺できなければ、留学からドロップアウトし、勉学を諦め帰国するほかない、とまで深刻に思い詰めた。道半ばでドロップアウトすれば、 推薦していただいた竹本正幸教授などに、まして国連法務官曽野和明氏に全く言い訳も顔向けもできない。忸怩たる思いがこみ上げ、顔がひき つっていた。国連法務官を目指すどころではなくなる。雪山テントで閃き志した国連法務官、それも海洋法担当法務官への道は、夢のまた 夢であり、全ての努力が水泡に帰してしまう。それは人生最悪のトラウマを抱えてしまうことになる。誰にも言えず、一人で自分をひどく 追い詰め、また自身に追い詰められていた。ひどい自信喪失の状態であった。留学の危機であった。

  真の原因は自身の語学力不足に行き着く。己に恥じ入るばかりであった。「バーク教授の講義では難解な法理が展開されている」 と思うのは、その能力不足の故であった。海洋法の講義に最初から悩み、最後まで消化不良は解消されず、期末試験を迎えてしまった。 だが、情けない衝撃的な結果を招いたことをバネに、背水の陣をしき不退転の決意で奮起を自らに促し、二学期に臨む他なかった。

  学期末試験が終われば、寮生はもちろん学生らはクリスマスや年末年始を故郷で家族と共に過ごすためドミトリーを後にする。 ドミトリーには帰るところがないごく一部の留学生らが居残っていたが、全体としては閑散としていた。 私は時に部屋でラジオ放送に耳を傾けた。どのチャンネルを回してもクリスマス・ソングが溢れていた。華やかな歌も自室で一人聴くと、 学業のことで落ち込んでいることもあり、余計に孤独感に襲われ、一人メランコリの感情に泣けてきそうにもなった。 そこで、茫然と失意に暮れるのを止めて、思い切ってスキーツアーに参加することにした。 

  スキーでも楽しんで、沈み込んだ気持ちを少しでも逆回転させ、学業への意欲とエネルギーを取り戻そうと思いついた。シアトルの北東部に カスケード山脈が走るが、その山中にあるスノークォミンというスキー場へのスキーツアーに申し込んだ。この時、仕送りのお金から思い切って、 私としては大枚のドル札をはたいてスキー用具のブランド品「k2」とスキー靴を買った。それまではかなり質素倹約に勤めていた。 閑散とした寂しいドミトリーから脱して、また成績「C」のことをすっかり忘れて、3日間白銀の世界で楽しく過ごした。ツアー参加者は ほとんどが留学生であった。友達にもなり楽しい思い出を作ることができた。二学期のためのエネルギーも充電できた。 そして、第二学期でリカバリーできなければ、その時には学業を諦めて故郷に帰ろうと新たに決意、だがしかし、そうならないよう不退転の覚悟をもって 立ち向かう準備ができた。



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 第4章 ワシントン大学での学びと海への回帰
        第6節 論文「アフリカと200海里経済水域」をもって起死回生を期す