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    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰

    第9節 深海底のマンガン団塊と海洋環境を深掘りする  

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      「海洋総合プログラム」というのは、10月から翌年6月までの1年間 (実質には3学期9か月間) に、学位取得に必要な単位の 履修をし終えれば、LL.M.(Legum Magister; Master of Laws) という修士号を取得できるコースであった。そんな中、 第3学期にも幾つかの科目を履修し、学業もプライベートライフもすこぶる堅調に推移し、留学の喜びを噛みしめながら充実した 学期を送ることができた。だが、大きな悩みが一つあった。他のクラスメートは、第3学期(4-6月)末までに学位取得に必要な全単位を 取り終え、ほそくさと卒業して行った。だが、私といえば、第一学期の2教科のドロップアウトが響いて、単位不足を第3学期末 までに完全にリカバリーできずにいた。単位を欲張って多めに取得しようとすると、やはり学業に消化不良を引き起こし、成績 不良という結果を招き、学位取得に必要な成績平均値が「B」(平均80点)を下回ってしまうという別のリスクがあり、それを 避け続けてきた結果でもあった。

      単位不足を、逆転の発想で意外と楽観的にとらえていた。シアトル生活も2年目を迎える時期にあり、それをよい機会にして、 シアトル・ライフを楽しみながら過ごしてみたかった。シアトルで過ごす上でのベストシーズンは、7から9月の夏期をおいてなかった。 夏以外の時季には曇天や雨天の日が多く、アウトドアライフには到底向かなかった。学生は勉強する他なく、勤労者は働くほか過ごし ようがないとも言われていた。マイクロソフトが本社を構えたのは、それが理由だとまことしやかに噂されていた。翻って、 夏期は別格で、快晴の日々が続き、バケーションを楽しむには最高のシーズンであった。学費や生活費などは余計にかかることを 覚悟の上で、学位取得には不足する数単位は次の秋学期に先送りしようと思い立った。実にシンプルな発想であった。それに、 夏期には、米国内のいくつかの地域や都市を少しは旅して、見聞を広めたいという目論みを抱いていた。酷い貧乏旅行になっても、 アメリカ文化を知る機会にしたかった。

      そんな目論みはかなり甘かったようだ。事は全く違った方向に進み出した。第3学期末にバーク教授と面談し、私のアイデアを 口にした折のことである。教授曰く、「夏学期に単位を取り、早く学業を終えて、世に出てお金を稼ぐのが良いのではないか」と 強く助言されてしまった。アドバイスと言うよりも、事実上の「お達し」であると受け取った。ずっと後で気付いたことだが、 「次の秋学期には新しい留学生が入学する予定であるから、夏学期に単位を取って学業を終えてほしい。さもないと後がつかえる」、 ということだったのか。それに違いないと勘ぐってしまった。教授の一言にハッとして一瞬戸惑ったが、それは言い得ていること であった。教授のアドバイスを素直に受け入れて、ゆとりあるシアトルライフのエンジョイ計画を変更、夏学期に履修して学業を 終えるという決意を固めて教授室を出た。

      キャンパスに足止めとなり、ベストシーズンを学業にあてがうことになったのは諦めたものの、だがしかし、長く思い 描いた旅のことが脳裏から離れなかった。学業に身が入らないような精神状態は良くないと思うと、旅への誘惑には勝てなかった。 善は急ぐべしと、夏学期前の少しの間隙を縫って急遽旅に出ることにした。先ず友人が滞留するロサンゼルスへと向かった。

      旅への渇望を抑え切れずに向かったロサンゼルスでは、大学時代の部活で一緒だった後輩と再会した翌日、ダウンタウン に社屋を構えるヒューズ社を訪ねた。同社は深海底に大量に賦存する、21世紀の鉱物資源・マンガン団塊を4、5,000メートルの海底から 商業的に採鉱する事業実現化に向けて莫大な投資を行ない、その採鉱技術の開発に取り組んでいた、成長著しい民間企業であった。 いわば団塊開発の世界的トップランナーであった。団塊採鉱についての将来見通しや、同社への就職の可能性はいかほどか、 何がしかの情報を得たいとの思いを胸にして訪問してみた。期待通りの情報入手はできないまま、次の目的地であるサンディエゴへ と向かった。

      サンディエゴのダウンタウンで安ホテルを確保した後、そぞろ歩きのつもりで海の匂いがする方向へと散策に出掛けた。 暫く行くとそこに船溜まりがあり、一隻の小型帆船が係留されていた。写真を何枚か切り撮った。 帆船の船尾には「スター・オブ・インディア号」という船名が刻まれていた。後になって現像した写真を見て船名を知った。 当時、それが「サンディエゴ海洋博物館」の一部であったかどうか、全く気にすることもなかった。

      岸壁には、見るからに近代的で最新鋭のカツオ巻き網漁船なども係留されていた。カツオ漁船といえば日本の一本釣り漁船しか イメージになかった。だから、そのカツオ巻き網船の近代的装備もさることながら、高度回遊性のカツオを巻き網という漁具漁法 によって一網打尽に捕獲すること自体に驚かされたことを今でも記憶する。波止場の周辺には、船舶模型や海事関連史料などを展示する 海洋博物館があった訳ではなかった(存在したものの、それに気付かなかっただけかも知れない)。当時、海洋博物館を訪ねようと いう趣味は全くもち合せていなかった。未だ見ぬ異国の港や船の風景に触れて見たいと、 岸壁沿いでの散策を楽しむ程度であった。だが、30数年後にその同じ岸壁に再び立ち、正にその同じ帆船を同じ場所で目にすることに なろうとは思いもよらなかった。

      サンディエゴ訪問には別の目指すところがあった。翌日、ダウンタウンから電車とバスを乗り継いで、数10km北にある ラ・ホヤという太平洋岸沿いの町に向かった。ラ・ホヤは海浜高級リゾート地として有名であった。その郊外に海洋研究のメッカとも いえるスクリップス海洋学研究所があった。米国東海岸にあるロードアイランド大学海洋学部やウッズホール海洋研究所などと並んで、 スクリップスは世界でも最高峰の海洋研究・教育機関である。ワシントン大学の海洋プログラムで海洋学基礎編を教わったフレミ ング教授は、その「ス」研究所の著名な海洋生物学者であった。

      「ス」研究所のキャンパスはそこそこ急峻な崖の上から海岸までの斜面一体に広がっていた。その崖上から見下ろすと、眼下に 太平洋の大海原が遮る物なく180度広がる。海岸には砂浜の海水浴場が南北に長々と伸びている。その海岸からは一本の大がかりな桟橋が 数百メートルほど沖に突き出し、その先端には研究調査船が接岸されていた。崖の斜面に沿って研究所の教育・研究施設、図書館、 付属水族館、カフェテラスなどが、ゆったりとした空間を擁しながら配されている。海洋学関連のラボでは海底から採取された 柱状コアサンプルを並べて解析していたところを見学させてもらったり、また研究所附属の海洋生物展示館である水族館を訪ね たりした。ワシントン大学とはまるで風趣が異なるキャンパスにおいてゆったりとした時間を過ごすことができた。

      サンディエゴはスペインやメキシコとの歴史文化的な繋がりが深かったので、シアトルとは全く異なり、ラテン文化の趣きが漂う 商業・観光・港湾都市であった。近郊には広大な敷地を誇るバルボア・パークを擁する。大勢の一般市民や観光客が憩う、 ラテン文化の風趣がいたるところに溢れる公園であった。そこで生まれて初めてラテン文化的なるものに触れたと感じた。 わずかそれだけのことで心が随分高揚したことを覚えている。青少年の頃に船乗りとなってサントス、リオ、ブエノスなどの港町で 南米のラテン文化の風趣に触れることに憧れていたが、サンディエゴでそれに触れることができるとは思ってもいなかった。 そして、それに大いに触発されてのことであるが、折角の機会と前向きにとらえ、国境を越えてメキシコの土を踏んでみることにした。 当初予定のなかったことの敢行であった。数十レーンはありそうな米墨国境ゲートを通過してすぐの、いわゆる国境の町ティファナへ と入り、生まれて初めてメキシコの土を踏みしめた。

      アメリカナイズされた国境の田舎町ではあった。だが、私にはラテン文化の風趣に浸るには十分な町であった。初めての体験 こそが私に新鮮で絶対的な感激をもたらしてくれるものであった。市内の闘牛場にて一度は本場の闘牛を観覧してみたいと勇んで 出かけ観覧した。最初は、仰々しいほどに鉄壁の防護装具に身を固めた馬と剣士が、よってたかって牛の背の首元あたりの急所に 剣を刺し込んで行った。牛は徐々に突進と猛進の勢いを失って行った。ほどなく赤いマントを振り回しながら、主役の闘牛士が 次々とその急所をめがけて剣を刺し続けた。そのたびに大歓声が場内に湧き上がる。最後の一刺しをもって止めを刺す。 その瞬間こそが闘牛のクライマックスであった。その一刺しで巨体を倒せれば、闘牛士の最高の誉れとなる。彼は英雄となって 拍手喝采を浴びる。時には闘牛士は牛の角によって宙に舞うこととなった。彼は牛に踏みつけられ最早起き上がることさえ できないこともあった。ティファナでスペイン文化の一幕をみせられた。

      少年の頃、私の農家では、牛一頭を毎年大事に育て、牛の大きな身体に似合わない小さな眼に慣れ親しんできた。闘牛が仕留められる シーンは残酷的なものに思えた。異文化への感動どころか、価値観の相違に大きなショックを受けた。正直違和感だけが残ってしまった。 闘牛士と牛との闘いは、人間側の事故死や大けがと隣り合わせであり、迫力ある場景がそこにあるかもしれない。だが最後まで 血なまぐさいもので、ひどく自身が傷つけられたような気がした。そんな余韻を引きずりながら、スタジアムを後にした。 二度と闘牛を見るつもりはなかったが、実は止む無き事情があってスペインで再び観戦する羽目となった。今度は何の感激も高揚も 湧かなかった。ともあれ、ティファナにて束の間の異文化体験を楽しんだ。そして、その後の人生において、中南米の地に8年以上 も身を置くことになろうとは予想だにしなかった。中南米の文化を知る上での起点となった町こそ、このティファナであった。

      さて、休題閑話。旅から帰って夏学期の学業に戻った。今期において集中的に取り組みたいテーマは、深海底に賦存するマンガン 団塊に関するものであった。早速、関連資料を収集することから始め、キャンパス内の幾つかの図書館なども巡り歩いた。 そして、資料を片っ端から通読しながら、マンガン団塊の地理的分布状況、成因や金属元素の含有比率などの鉱物学的な特性、採鉱や精錬の技術開発 の現況、主要含有鉱物の経済的価値や国際市況の動向などを概観しようと務めた。

      団塊は、1873-76年の英国海洋調査船「チャレンジャー号」の世界海洋探検航海において初めて発見された。団塊には マンガン、鉄の他に、微量ながら銅、ニッケル、コバルト、亜鉛、モリブデンなどほとんどすべての有価金属元素が含まれている。 当時としては、最も豊富な賦存海域は、北部太平洋の赤道付近で、ハワイ諸島の南東海域の北緯20-6度30分の水深3-6000メートルであった。 単位面積当たりの賦存量としては、例えば、太平洋全域での平均値11.2㎏/平方メートルというデータも見受けられた。ある学者は、 太平洋海域での団塊に含有される銅の全量は、1960年での世界消費量の6,000年間分、ニッケルは15万年分に匹敵するとまで概算された。 また、極めて低い率であるが、団塊は数百万年に1-100ミリ程度凝集されつつあるもいわれた。とはいえ、凝集速度や海洋に賦存する 全量について一致した学説は当時としては未だないとされた。

      一般論的には、鉱物資源開発に要する技術・資本力を有する先進諸国は、マンガン団塊をできるだけ自由に開発することを望んだ。 1973年に国連第三次海洋法会議の第一会期が開催され、当時始まって間もない頃には、マンガン団塊を人類の共同財産として、 その探査・開発は新設される国際海底機構による一元的管理に服することを頑なに主張する途上国グループ77と、より緩やかな管理の下で 探査・開発を求める先進諸国とが激しく対峙していた。米国、英国、フランスなどの先進諸国の企業体は、団塊の探査・開発において、 国際機構からライセンスを取得し、その対価として一定の合理的な許認可料あるいはロイヤルティを支払うという「ライセンス方式」 を主張した。国際機構の機能は、開発企業体間の利害対立回避のための調整を果たすことに限られるべきというものであった。

      これに対して、東欧諸国を含む発展途上国は、深海底を人類全体に帰属させること、その資源を人類の共同財産とすること、 その開発による収益に関し途上国も平等に享受すべきであること、さらに国際機構を設けてその強力で一元的な管理権の下で 開発が行われるべきであることを主張していた。国際機構が探査・開発・精錬・販売までの開発主体となること、しかし 機構そのものは技術・資金力がないことから、先進諸国企業体は、機構自身の事業体(「エンタープライズ」と称された)とジョイント・ ベンチャー契約をもって雇われ操業者として、それらの活動に参加するというものであった。 いわば「ライセンス方式」と「直接開発方式」の2方式が、海洋法会議初期段階において、先進国・途上国間で鋭く対峙していた。 そして、1975年当時はまだ、その対立の行方は混沌とし、その合意形成はいかなるレジームに落ち着くか全く見通せる状況にはなかった。

      時間はその後1年ほど下るが、米国がその対峙の打開を図るために重要な提案を行なった。即ち、1976年第4春会期において、 米国キッシンジャー国務長官が提案したもので、国際機構はその下部に組織される事業体でもって直接開発する、国家企業体および 私企業体は国際機構と契約して探査・開発できる。同企業体は、探査契約時において、同等の商業的価値を有するの2の鉱区を申請し、 一方に探査が許可され、他方については機構の事業体や途上国による開発のために留保される、ということが提案された。

      先進・途上国間の対峙は基本的に、探査・開発に従事する事業主体は誰とするかということであり、それは最も際立った 対立点であった。だがしかし、対立点はそれだけではなく、後々いろいろな重大な争点が浮上して来ることになった。 それらの争点の外交的妥協と決着を図り条約案採択に漕ぎ着けるためには、その後7年以上もの年月を要することになった。 その大きな要因となったのは、それらの争点の合意形成がはかどらなかったことによるものであった。 それは無理のないものであった。団塊の開発管理レジームについては、国際社会にとって過去に類似のそれを創設した経験がなく、白紙から創設する作業 であったといえる。即ち、人類にとって、人類の共同財産と位置づける資源の探査・開発・収益配分などを一元的に担う国際的組織とれーがる・ レギームを史上初めて創設するものであった。

      さて、それら先進・途上国間の際立った後々の争点とは、例えば以下のようなものであった。
    1. 希少含有鉱物であるニッケル、コバルトを生産する途上国の陸上生産国は、海底からの大量の開発によって大きな経済的なマイナス 影響を被る懸念があった。生産国や途上国は、団塊からのそれらの鉱物の生産量を制限するための量的基準を設けるべきと主張し、 他方で先進国は生産制限の考えそのものに強く反発することになった。生産国の経済的マイナス影響を最小限にどう抑えるかの 問題であった。

    2. 団塊の開発企業体に強制的な技術移転の義務を課すかどうかを巡って激しく対立した。特に第三者の技術に絡む移転義務の有り様 に集中した。途上国は、企業体が国際機構と契約を結ぶ際、その企業体が使用する技術を申告し、機構の事業体に無償で使用させる ことを主張した。先進国はそれに反対で応じた。

    3. 財務規定に関する深刻な問題が喚起されるようになった。探査・開発鉱区の登録申請料として企業体は国際機構へいくら支払うか、 開発・生産によって得られたる利益を機構へいくら納付し、加盟国にいかように配分するか、なども重要テーマとなった。 機構が探査・開発を一元的に管理することの意味は、開発からの収益を途上国にも分配することに他ならなかった。 探査の鉱区登録申請料や商業生産契約の申請料、生産開始後の生産賦課金や純収益の分与額やその納付方法など、いずれも難問であった。

    4. その他、機構の組織についても争点として浮上した。理事会の構成と権限、意思決定の手順なども重要テーマとして提起された。 国際区域の管理機関である国際海底機構での意思決定方法は、同機構が企業体と契約する権限をもつがゆえに、重大な関心事項 であった。また、総会と理事会の権限の配分、理事会の構成国と地理的配分、その意思決定手続きなどが争点となった。

      団塊のことに取り組んだ1975年から4年ほど先のことになるが、1980年発足の米国レーガン政権は、条約案をちゃぶ台返しした。 特に団塊開発管理レジームに関し、全面的な見直しを主張し出した。その後1982年に、国連会議では、コンセンサス方式での条約採択 が変更され、記名投票が行われた。米国は反対票を投じ、英国・ドイツなどは棄権した。条約は圧倒的多数で採択された。 その米国は、その反対理由として、団塊開発における生産制限は市場原理に反すること、機構の事業体(エンタープライズ)などへの 強制的な技術移転義務は重大問題である、事業体の特権的扱いは見過ごすことはできないこと、機構における意思決定方法に不満である ことなど多くを列挙するものであった。

      さて、今夏学期での取り組みとしては、団塊の開発管理のレジームを概観するもので、それを深掘りすることではなかった。 翻って、取り組みの最大のテーマは、団塊の商業的採鉱に伴う海洋環境への事前影響評価に関する調査研究の進捗について 深掘りすることであった。法学をバックグラウンドにする学徒の私が、それらを学究できるのは、「海洋総合プログラム」の 神髄の一つでもあった。大規模な商業的採鉱が実施される前に海洋環境への影響について評価がなされ、採鉱などの技術開発へ フィードバックされる必要があろう。団塊周辺の深海底や海水コラムに局部的にしろどんな影響をもたらすことになるのか、 その程度など、私には興味あるテーマであった。正に、法学的課題ではなく、自然科学系と工学系の多くの要素が入り混じった 課題を深掘りするものであった。私の視座は、団塊の商業的採鉱に伴う海洋環境保全の観点から米国産学界は、どのような調査研究 に取り組み、何を課題にしているのかを理解することであった。

      団塊の採鉱システムには当時、主に2つのエンジニアリング・システムがあった。一つは「連続バケット式採鉱システム(CLB)」 と呼ばれた。深海底の堆積物にわずかに、あるいは半没する団塊をすくうための直方体のザルのような鋼鉄製バケットと、 それらを一定間隔で取り付けたワイヤーを巨大ループ状にして、船を支点にして機械的に回転させる垂直輸送手段から構成される。 他は、「水力式あるいはエアリフト式採鉱システム(ALP)」で、いわば巨大な吸引式掃除機と考えれば分かりやすい。 海底で団塊を集塊する吸引装置と海上へ吸い上げる輸送管とポンプ装置で構成される。 集塊するバケットや「掃除機」周辺では、海底堆積物や生物の掻き乱しによって環境に影響をもたらす。またリフトアップ途上において バケットから海底堆積物が漏れ出て海水コラムに沈降することになる。洋上の採鉱船では、輸送管で吸い上げられた団塊と堆積物・海水が 分離され、後者は海へ放出されよう。海洋環境や生物へのインパクトの程度は異なるが、3つの共通的なインパクトが観察されることを理解した。

    1. 海底堆積物の掻き乱しと再堆積作用による海洋環境へのインパクトが観察される。バケットや集塊装置のドレッジヘッドによって 海底堆積物を掻き乱すことになる。バケットの食い込み深度はどの程度コントロールできるのか、これからの技術開発にもよる。 堆積物を海水コラムに掻き上げ、その後沈降・再堆積作用を引き起こす。ALP方式では集塊装置が堆積物に食い込む。 その深度はコントロール可能となろう。堆積物の掻き乱し、その懸濁や沈降、再堆積作用が伴うが、海洋全体からすればミニマルではある。 装置による掻き乱しを最小限にするためのさらなる技術開発が求められている。

    2. 2方式の共通の第二の影響は深海動植物群に対するものである。バケットまたは集塊装置が通過する特定の海底区域に棲息 する動植物群そのものやその棲息地を破壊することになる。影響の程度は、その動植物群の賦存量や再生殖サイクル、採鉱の強度や 地理的範囲などが、その決定要因となろう。当時、深海底の動植物群の量的データほとんどなく未知の領域とされるが、そのバイオ マスは極めて少ないとされる。だが、遅い再生殖リサイクルの生物が観測さるといわれる。深海ハマグリは性的成熟に達するのに 200年を要するとも指摘される。そのような動植物群を保護するには、究極的には一つしか方法がない。十分な幅員をもって、荒らさない ままにベルト状に海底区域を残すことである。特定採鉱区域での全面的な破壊を予防すること、またはミニマムに抑制する技法 が採用されることが重要となろう。海底の掻き乱しと堆積物の懸濁・沈降による生物へのインパクトの調査研究はこれからである。

    3.第三の共通インパクトは、堆積物、生物、底層海水が、海水コラムの各海層に放出されることである。沈降・再堆積することになる この放出海水が海洋環境に及ぼす影響の問題である。放出される深海の底層海水は、水温・塩分が低く密度は高い、またさまざまな 塩類を含み栄養塩類溶存度が高い。その海水の放出による有害性や、逆に植物プランクトンや海洋食物連鎖の生産性を助長するかも しれない。そのような観点からの有益性などを研究することも今後の課題と考えられる。

    4. 揚鉱された団塊の精錬工程は、その開発システム上の重要な構成要素の一つである。洋上精錬が行われる場合、くず鉱や その他の廃棄物の海洋投棄に伴うインパクトにつき、慎重かつ十分な調査研究がされるべきであろう。十分な予防的防御措置なくしては、 採鉱そのものよりは遥かに危険なインパクトを海洋環境にもたらしかねないと危惧されている。それらの大規模かつ長期にわたる 洋上投棄は海洋の動植物に有害な結果をもたらしかねない。

      米国連邦法によれば、深海底鉱物資源開発を国内立法化したり、政府が海洋法条約などのマンガン団塊開発関連条約を承認する 場合には、環境インパクトに関する詳細な報告書の作成を必要とする。 因みに、商業開発企業体は、その操業においていかなる環境条件をクリアにすべきかを理解する必要がある。それをもって、いかなる 団塊採鉱技術や洋上処理・精錬技術を開発すべきかを理解することになる。そのことは、それらの装置の設計などの技術開発そのものに 直接的にかかわってくる。企業体にとっては、米国政府や国際海底機構によって将来定められる環境保護条件に適合するよう、技術 の開発を進めたいと願うであろう。開発してきた装置の変更を将来要求されるとすれば、生産計画やコストにマイナスの影響を もたらしかねないことになる。当然の関心事である。米国では環境に大きく関わる事業の場合、事前に環境影響アセスメントによって 問題がないことが確認される必要があるが、将来いかように具現化されるのか関係者は注視している。 かくして、当時の2つの代表的な採鉱システムと海洋環境への共通のインパクトについて深掘りし、将来的課題や見通しなどを模索した。 期末には、「マンガン団塊の採鉱と海洋環境への影響および環境アセスメントの現況」と題して、タームペーパーを作成し提出した。

      さて、1974年10月以来1年間の学業を終えて、改めて海洋総合プログラムの意義をもう一度振り返ってみた。海洋法の学徒で ありながらも、海洋学、水産経済学、漁業資源管理学、海運・港湾学、海洋国際組織のガバナンス、海洋鉱物資源開発学、 マンガン団塊採鉱と海洋環境影響評価、海上通航など、海洋関連の社会科学・自然科学系と工学系の諸学を部分的ではあるが幅広く 学ぶことができた。そして、プログラムの意義について、1年間の実際の履修を通していろいろ見えてくるものがあった。 海における自然現象はさまざまに連環している。また、海における人間の営みや経済社会活動、それを律する海の法秩序や利害調整 ルールもさまざまに連環している。相互に複雑に連環する諸課題に向き合い、その解決の道を模索するには、一分野での単体的 アプローチや知見では限界あり、対処し切れないことが多々あろう。 個人的にも領域の垣根を超えてさまざまな諸学を学ぶことが大事であること、そしてまた異分野の学徒間で知見をシェアし、触発させ、 化学反応を図ること、また学際的、領域横断的にアプローチすることが不可欠であろう。 そのようなアプローチをもって海の課題に向き合うことができる人材を育成しようという基本的理念の下に創設されたのがこの プログラムであると理解した。

      ところで、今から振り返って残念に思うことが一つある。海洋に関連するいろいろな自然科学系や社会・人文科学系の諸学に触れた。 海にまつわる多様な専門書や学術論文など通読する機会も得た。読むだけでなく、7、8の海洋関連のタームペーパーを綴ってきた。 その過程で海の語彙に数多く接しながらも、海の語彙集づくりについてのアイデアを閃かず、また取り組むこともなかった。 大学ノートに語彙をその都度書き留め、便利帳づくりすることすらも試みなかった。 語彙をいちいち書き溜める余裕などなかったのか、それともその必要性が希薄だったのか、書き留めておかねば後々自身が難義する という意識も芽ばえなかったことによるものか。海洋総合プログラムでの学びは、海の語彙集づくりを始めるには最初のビッグチャンスで あったはずである。特に三学期以降は余裕があり、ベストタイミングであったといえる。だがしかし、着眼性の貧困さゆえに、チャンスは 見事に眼前を素通りしてしまった。

      語彙づくりを逃したものの、嬉しいこともあった。第三学期から夏学期にかけて、キャンパスライフに余裕が生まれ、此の頃初めて 海洋プログラムの面白さや留学の楽しさを日常的に肌で感じることができた。キャンパスを飛び跳ねる様に行き来していたように思える。 何よりも嬉しかったのは、海の諸学の学びの過程で海へ真に回帰できたと実感できたことであった。 国連海洋法法務官への奉職が現実のものとなれば、恐らく一生涯海洋法を自身の専門分野と位置づけ、海と関わり続ける ことができる。その可能性に希望を持つことができたことである。海への回帰は一過性に終わることなく、先々につながって行く という希望があった。海のない世界への後戻りは金輪際しないこと、二度と海から遠ざかることはしないことを深く心に刻むことが できた。

      かくして、夏学期を終え単位の取得を了した。だが、すぐに学位証書が授与されるはずもなかった。従って、すぐさま取得学位名 を記載した履歴書を国連事務局に送付できることにはならなかった。それ故に、夏学期の中頃には、卒業後には真っ直ぐ帰国する決意 を固めていた。学生寮のマーサーホールに新入寮生で溢れかえる前には退去すべく、段ボール箱に諸々詰め込み帰国の準備をした。 日本郵船のコンテナに他のクライアントの荷物と混載してシッピングもらうことにした。そして、スーツケース一つには、帰国後 すぐに必需となる日用品などを詰め込んだ。さらばシアトル。わずか1年半の生活であったが、シアトルは疑いなく第二の故郷となった。 シアトルでの人生は、決して忘れることのない密度の濃い、素晴らしいものであった。最後にバーク教授などに挨拶しして、 キャンパスを後にした。

         帰国して落ち着く先は故郷のある大阪ではなく東京であった。東京での一人暮らしには多少の不安はあったが、向かう先が あったことは精神的に安定させてくれた。東京では、旧海軍中佐であった麓多麓氏の個人事務所を訪ねることになっていた。



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     第4章 ワシントン大学での学びと海への回帰
            第10節 海洋環境コンサルタント事務所長との出会いと「さらばシアトル!」