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  夏季にはオゾンで満ちた樹林の中を山歩き、秋には紅葉で彩られた自然の中を歩き、冬・春季には雪の世界へ足を踏み入れ、新鮮で非日常的な 体験をもたらしてくれた。特に大阪育ちの私には、白銀の別世界に惹きつけられた。部OBたちが自己資金を持ち寄って建てた山小屋が 兵庫県養父郡の 鉢伏山の南側に広がる鉢伏高原にあった。いわば部活のローカル・ホームグランドであった。冬や春になって雪に覆われた高原は、 広々とした一般客用のスキーゲレンデとなった。 山小屋はそのゲレンデのど真ん中にあった。ゲレンデとスキーリフトがどんどん開発され、気が付けば山小屋がゲレンデのど真ん中に取り 残されてしまった、というのが実情であった。さて、12月下旬近くになれば、国鉄の福知山線や山陰本線を乗り継いで「八鹿」という駅で下車し、 その後路線バスで終着地の丹戸という村を目指した。村人だけが知る獣道のような山道を登って高原にたどり着くと、大パノラマが開ける。 高原の北側に鉢伏山が座っている。そこから西方に尾根筋が伸び、そのずっと先には兵庫と鳥取との県境をなす、ひと際高い氷ノ山がそびえ立つ。

  山小屋で投宿するのは最初と最後日くらいで、ほとんどの場合我々部員はテントや鍋釜一式、食糧その他一切の用具を詰めたザックを背負い、 山小屋を後にする。いわば雪山での縦走を想定して、檜・杉が生い茂る、雪深い樹林の中へ分け入る。全員で横一列となり肩を 組んで雪を踏み固め、テントを張るための平地を造成する。そこにテントを設営し、固めた雪のブロックを切り出して、風雪からテントを護る ように周囲に積み上げる。 夜のうちに新雪が深く積もれば、訓練にはもっけの幸いである。翌朝にはワッカを履いてラッセル訓練をする。 先頭を行く者は膝の高さ以上に雪に食い込ませながら孤独な闘いに挑む。ラッセル者は最も体力を消耗する。時間を見計らい二番手と順次交 代しながら前進する。鉢伏山の稜線には雪庇ができ、またアイスバーンにもなっている。 雪庇を遠巻きにしながら、靴にセットしたアイゼンでもって 登攀の訓練をしたりもする。

    時に早朝すべてを撤収して、次の目的場所へと移動する。 テント設営跡はアイスバーンのように凍っている。そこでは、スキー板を履いたまま ザックを担ごうとすると、ひっくり返る。ザックを背負い起き上がろうとすると、思うように上手く立ち上れない。同輩はザックを担ぎ上げ 立ち上り出発のスタンバイができるのに、何と2、30分もかかった。彼はそれでかなり体力を消耗してしまった。 それは冗談ではなく、実話である。深々と積もった新雪の上で転ぶと、ザックがその重みで雪中に潜り、さらにスキー板が絡み合い、思い通りザックと 板をコントロールできず、もがき苦しみこれまた立ち上がるのにひと苦労する。一年生には何でも初めての経験の中から、雪上でのいろいろな サバイバル法、身の処し方を学習していくことになる。

  山岳スキーならではの特殊な用具の一つに、スキー板に取り付ける金具がある。その金具に登山靴をセットしたり外したりできる。 普通のスキー装備では板と靴がしっかり固定されるが、山岳スキーでは、歩行に合わせて靴のかかとが浮くようになっている。従って、ノルディックスキーのように、 板を滑らせながら歩行しても足に負担をかけずスムーズに進むことができる。二つ目にシールという帯のように長い人工皮革がある。雪と接する 面はアザラシの革のようにザラザラしている。スキー板の裏面にこの皮革を取り付けて、雪上を登攀したり滑降するのである。 スキー板を履いて数10kmにわたり連峰を縦走するには必需品である、是が非でも使い慣れておく必要がある。スキー板を履いたまま、かなりの 勾配のある雪山でも、ストックを上手く使いながら登ることができる。使いこなせれば体力の温存につながる。シールを着けたまま、緩やかな斜面では 直滑降でも、また急斜面では斜滑降で下れるが、急に滑りセーブされると身体が前のめりになり、さらにはザックが背中から押してきて 前傾姿勢で転倒することになる。山岳スキーツアーでは、雪上でザックもろとも転倒したその日の回数が体力消耗率に比例することになる。

  さて、一年次の春スキー合宿では岩手県の岩木山から八幡平までの縦走に出かけた。ゲレンデスキーとはまるで異なる白銀の世界を目の当たりにした。 山岳スキーによる雪山縦走は野性味があふれ、その醍醐味たるやゲレンデの世界とは比較しようもなかった。大学の学業では体験できない、 全く非日常的な特別のものを体験できる素晴らしさがあった。盛岡を経て雫石から路線バスで岩木山の麓へ取りついた。 翌日岩木山を遠巻きにして北上し、八幡平を目指した。天候はだんだんと悪化し、遂に低気圧の通過のため最悪の天候へと変貌した。 避難小屋の近くの雪深い樹林地帯でテントを張り、一夜をやり過ごそうとした。たが、朝目覚めるとテント内の様子が何かおかしいことに気付いた。 昨晩の大雨で何故か雪上テント内が水浸しで、プールのようであった。寝袋の下に敷くエアマットが水に浮いたのには驚きであった。 その日は移動を諦め、無人の避難小屋に緊急避難した。ダルマ型ストーブに薪をくべて暖を取り、濡れた衣類などを乾燥させ、気力を回復させた。

  翌朝は台風一過のように天候が回復し、青空の下には見渡す限りの美しい白銀の世界が広がっていた。「進軍」を再開した。 どの樹木も分厚い樹氷に覆われ、無数の巨大な雪男が仁王立ちしているようであった。 人生で初めて目にした白亜の大樹で埋め尽くされた白銀の世界がそこにあった。その自然界の造形美に圧倒されるばかりであった。 樹氷の周りには樹木の熱で深さ2メートルほどもある大きな窪地が口を開けている。そこに滑り落ちないように しながら、樹林を縫うようにして慎重に進む。途中、深雪にすっかり閉ざされた古びた湯治場を通過した。有名な酸ヶ湯温泉である。 そして、数日後縦走をやり終えついに八幡平へ辿り着いた。春季の山岳スキーの醍醐味を自身の五感を通して体験した。 大阪への帰途、盛岡からさほど遠くない渋民村に立ち寄った。石川啄木がかつて代用教員を勤めたことのある渋民尋常高等小学校旧舎などを訪ねた。 文学に全くといっていいほど関心がなかったが、文学好きの同輩に誘われ、生まれて初めて文学的香りがする史跡に足を伸ばした。

  さて、印象深い春季山岳スキー合宿をもう一度経験した。三年生の時で、3月中頃、群馬県の戸倉から尾瀬ケ原へのゲートウェイの一つである 鳩待峠へ向かった。尾瀬は冬から春季にかけ雪に完全に閉ざされ、全く人を寄せ付けない。特にその年の冬季には異常なほどに豪雪となった。 我々は、そのことを予想した訳ではなく通例のこととして、春スキー合宿に先だつ前年の晩秋に、鳩待峠にある山小屋の軒下に食糧を運び上げ 保存しておいた。豪雪のために尾瀬ヶ原までのアプローチは長くしんどいものであった。尾瀬ヶ原の西端にあって、至仏山への登攀口にいたるまで、 ドカ雪で深々と覆われた道なき道を丸2日かけてたどり着いた。その途中の鳩待峠の山小屋の軒下に置いた10缶ほどの食糧缶を掘り起した。 積雪は何とその山小屋の三階の窓まで達していた。記憶を思い起こしながら、三階から軒下まで6メートルのど雪を掻き分けた。何とか缶にありつけた。

  その後、鳩待峠から深雪をスキー板で踏みしめ尾瀬ヶ原へ向かい、至仏山への登攀口でテントを張った。昨夜のうちに雪が しんしんと降った。新雪に踏み入れれば膝まで雪に埋もれるほどであった。午前中は、ゲレンデとは趣が全く異なる、100%自然界 での山スキーを楽しんだ。至仏山の麓の斜面であった。滑ってびっくり仰天である。雪がふわふわと軽く、まるで重さが無いように感じられた。 斜面を滑り下ると膝あたりから雪煙が猛然と吹き上げられた。雪煙で前方が見えないほどであった。最高のパウダースノーでの滑降に有頂天になった。 生涯で後にも先にも、パウダースノーをしっかりと体験しえたのはこの一度だけであった。

  休題閑話。三年次後半にもなれば、ほぼ「部活卒業」となるのも時間の問題で、過去のトラウマ払拭の見通しも見えていたが、肝心の 「大学卒業」後における道筋はたたず、将来の職業選択についていずれ早晩その難題と向き合うことになるのは間違いなかった。 船乗りを諦めて以来、すっかり海や船のことから遠ざかり、その関心は山の世界へと180度方向転換をしていた。余りの大転換に 自分でも信じられないほどであった。恐らくは挫折の反動であったのであろう。部活や「山の世界」に没入したのは、無意識のうちに、 船乗りの見果てぬ夢、海や船のことを忘れたかったのかもしれない。

  三年生から四年生に進級するわずか数ヶ月前の鉢伏山での冬季合宿の頃から、卒後の進路や就職について深く思い悩んでいた。間もなく訪れる春季 の山岳スキー合宿を終えれば、将来の職業選択や就職のことを真剣に考えねばならないと、少々焦っていた。 「部活と大学卒後」何の職業に就くのか、どんな会社に行きたいのか、さっぱり方向は定まっていたかった。 既に少し綴ったが、1970年(昭和45年)の三年生の冬季合宿でのこと、鉢伏山から続く尾根筋で雪上訓練をしていた。スキー板にシールを張り付け、 急斜面を登攀したり滑降したりして、シール歩行訓練などを繰り返していた。その日の訓練を終え、風の強い稜線上で雪上テントを張った。 夕食後全員でミーティングを済ませ、10時には消灯し寝袋に潜り込んだ。また、卒後の針路や就活のことが気になり始めた。

  冬季とそれに続く春季合宿を終えれば、泣いても笑っても四年生となり、部活を事実上卒業して100%就活モードへと突入する。学友らは 一歩も二歩も先んじて、就活に本腰を入れていた。自身の就職をどうするのか、その思いに取り付かれ、頭が冴えてきて一向に寝つけなかった。 過去の自分のことをあれこれと振り返ることにもなってしまった。船乗りの夢はとうの昔に露と消えた。そもそも船乗りへの夢に代わるような、 「これがめざすべき人生の新しい目標」だというものに、真剣に向き合えていなかった。それが、悶々とした悩みの正体であった。 海との接点をもつ海洋調査、漁業、海運などの会社への就職の思いは、不思議と脳裏に去来することはいなかった。 尤も、意識的に海から遠ざかろうとした訳でもなかった。 唯一深層心理的に思い続けていたのは、海外への雄飛の可能性の摸索、世界の異文化と向き合うことへの関心であり、それらはいつも頭の 片隅にあった。商社や航空会社への就職もその一つの選択肢ではあった。

  寝袋の中で何をどう思い巡らし、辿り着いたのかをよく覚えていないが、最近読んだ一冊の岩波新書のことが脳裏に去来した。である。 国連事務次長・明石康氏著の「国際連合」という単行本のことがふと頭をかすめた。国連の組織や構造、事務総長の働き、国際紛争での 国連の解決の努力とその限界、国連平和維持軍の活動のことなど、走馬灯のようにいろいろ思い出していた。ウ・タント国連事務総長は、どんなに 重責が両肩にのしかかろうと、国際社会の平和や発展に貢献できるならば、その重責から逃避することはないし、それを全うすべく 最後まで最善を尽くす、というような下りがなぜか思い出された。それが突然の閃きを引き起こす「発火点」となった。

  次の瞬間、「そうだ、国連に奉職しよう。国際公務員への道をめざそう。法律を学んできたから、貢献できるとすれば法務官がベストだ!」 と電光石火のごとく閃めいた。かくして、大袈裟だが、「神からの啓示」を得た如く、国際公務員こそ我がめざすべき道であると考えた。 それは人生で最も価値のある閃きと思えた。今でもその思いは変わらない。

  人生航路の羅針盤上の新しい目的地と針路を国連奉職に定めた。向かうべき針路はニューヨークとする。マッチ箱を縦にしたような 国連本部ビルに定めた。船乗りをかつて目指すべき目標にしていたが、それに代わる新たな人生目標を得ることになった。 人生の目標と針路に関して、後にも先にもこれ以上の素晴らしい閃きを得た事はなかった。閃きが脳天に突き刺さったのは、何と部活での、 それも雪上テントの寝袋の中でやってきた。人生における最高の閃き得たと思った。学業とは縁遠い部活生活であったかもしれないが、 それは決して無駄ではなかった。部活への真剣な向き合いは、第一に早晩トラウマからの解放にもつながりつつあったし、その上にこんな 最高の閃きをえることができた。その一つの閃きえ得られただけでも、ひたすらに部活をしてきた意味があったこと、「山の世界」への没入は 決して無意味で無駄な人生ではなかったことを確信できた。



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