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    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第1節 国際法を専攻し、国連平和維持軍に興味をいだく


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    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
      第1節: 国際法を専攻し、国連平和維持軍に興味をいだく
      第2節: 留学できず「浪人生活」するなかで、海洋法ゼミと海洋プログラムに出会う
      第3節: 関大新聞紙上の先輩活躍記事、偶然目に留まる
      第4節: 羽田空港での初顔合わせと対話は運命の分岐点
      第5節: 浪人生活は人生の回り道ではなかった

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  雪上テントの寝袋の中で寝つけないまま悶々としていた時に脳天に突き刺さった閃きによって、人生の新たな目標が定まった。未来はバラ色に 輝いてみえ、その高揚感のために眠れなかった。卒後すぐの就職ではなく、そのまま母校の大学院へ進学して、国際法を深く学び究めることを 決意して鉢伏山から意気揚々として下山した。合宿から帰郷してすぐさま、大学院事務局の扉を叩いて情報集めを始めた。

  母校の関大大学院の修士課程には法学と政治学の二つの研究科があった。勿論、法学研究科の公法学、その中の国際法を専攻することにした。それ以外の選択肢 はなかった。院への入学には大学推薦枠というのがあり、学部の成績が優秀で一定の基準を満たせば、無試験の推薦枠で入学できるという。先ずはこの3年間での履修 教科の成績の平均値が気になった。他方、4年次に残された必須科目などの成績が良くないと、平均値を押し上げられなくなってしまう。 今となっては手遅れかもしれないが、就活を一切止めて勉学に一層真剣に身を入れ出し、その推薦入学に期待を寄せた。 問題は、履修して成績の押し上げを目論むほどの科目数が意外と残されていなかった。

  第二語学はフランス語を履修していた。語学はもともと大好きで英語も含めて語学講座での成績はほぼオールAであった。語学授業では本人出席が必須で あった。マンモス授業では出欠などを取られなかったが、少人数の語学授業では代理出席のような誤魔化しを例えしようにも不可能であった。 もちろん最初から授業をさぼることなくほぼ100%出席し、予習復習も怠らなかった。肝心の法律関係の専門科目の憲法、民法、刑法、 民事・刑事訴訟法、国際法、行政法、その他専門ゼミなどについても、授業をずる休みなどをしていい加減にするという意識は全くなかった。 日頃の部活や農作業などからくる疲れや眠気を我慢しながらも、最大限の出席と勉学に努力をしていた。だが、結果としては「優・良・可」が 入り混じり、平均値が推薦入学の基準に達するかは微妙であった。

  結局のところ、1-3年次の学部時代の学業成績の平均値は数ポイントほど基準に及ばず、涙を呑むことになった。4年次の頑張りは手遅れと いうことになってしまった。かくして、一般入試枠での受験を余儀なくされた。幸いなことに試験に合格し、修士課程法学研究科の公法学(国際法)を 専攻することができた。かくして、院生活が始まったのは1971年(昭和46年)4月であり、修了したのは 2年後の1973年(昭和48年)3月であった。国際法専攻の仲間には私の他に4人いた。

  ところで、大学4年次の1970年春~秋季に、地元茨木で万国博覧会が開催された。万博の開催地住所は吹田市であるが、実際の会場は茨木市 との市境で、最寄りの国鉄駅は茨木駅であった。国連奉職を目標に大学院への進学を目指していた頃である。 世界中の異文化に接し、世界への雄飛を自ら鼓舞するまたとない機会であった。その地の利を生かして、何度も会場へ足を運んだ。 アメリカ館など人気の高いパビリオンはいつもひどい混雑振りであったが、翻ってアジア・アフリカや中南米の国々のパビリオンを見て回った。 国連館も訪問のターゲットであった。国連館では、国連本部勤務の日本人女性職員から就職にまつわる事情をいろいろ教わったり、専門職への 応募用紙を手に入れたりした。国連やそこで働く公務員がより身近に感じられ、奉職への志を大いに掻き立てられた。

  国連の専門職は髙い専門性をもつこと、また十分な職業的経歴も要求された。業務遂行にはコミュニケ―ションが欠かせず、当然ながら髙い 語学能力も必要とされる。英語の他にフランス語、スペイン語などの国連公用語の語学能力があればなお有利になるという。 専門職の最低限の学歴として、修士号の学位が求められることなどをその国連訪問時に知った。国連奉職を目指すのであれば、大学院で専門性 を高めることが必須であった。自身の場合、法律が専門といえるので、その分野での専門職となれば、法務官の仕事が最もなじみやすかった。 できうれば、究極の目標として国連事務総長の特別法律顧問もありうるのではないかと、一人で夢風船を膨らませていた。

  さて、大学院には二人の国際法教授が在職していた。一人は定年退官が近いと噂されていた川上教授と、もう一人は一回り若い竹本正幸教授 であった。院ではもちろん国際法ゼミを専攻した。院での指導教授となれば、必然的にその国際法ゼミ担当の川上教授であった。 二者択一制にはなっていなかった。ところで、学部時代には時間とエネルギーの大半を部活と農作業に注いでいたが、院での2年間においては違った。 農作業を除いて、すべての時間とエネルギーを院での学究に注ぎ込むことができた。学部時代における勉学不足は十二分認識していた。 それに目指すは国連本部事務局の専門職員であったので、今までとは打って変わって学究と真剣に向き合った。何といっても、 国連へ奉職できるか否かの人生が懸っていたからである。その甲斐あって、院での学業成績はオール「A」をマークすることができた。 やればできるのだという面持ちであった。学部時代の成績は次の人生のステップにおいて身を助けることにはならなかったが、院でのこの成績は 大いに身を助けることにつながると期待した。

  同じ国際法専攻の仲間4人のうちの一人が、イスラエル政府の奨学金をえてテル・アビブ大学へ留学することにチャレンジして していることを知った。彼のそんな留学チャレンジも一つの刺激と励みになり、院に在籍して間もなく留学のことを真剣に模索するように なった。高度な専門性に加え、髙い英語能力なくして、国連法務官が務まる訳もないことであった。 学位に関する最低条件を満たしたとしても、コミュニケーション能力が不十分では全くお話にならなかった。、 修士号の学位取得はもちろんだが、さらに何にチャレンジすべきかは明々白々であった。海外留学へのチャレンジを視野に入れた。 そして、留学へのハードルをどう乗り越えていくかを摸索し出した。修士課程半ばにして留学を決意し、語学としての英語の能力向上に向け、また 留学のための事務的諸準備を開始した。

  院で最も関心をもち学究にエネルギーを注ぎ込んだ修士論文のテーマは、国連のもつ安全保障制度や機能とその実際の運用、国連平和維持軍の 設置や組織、その活動や運用を通じた紛争防止や地域平和の維持に関するものであった。そのケーススタディとして、1950年の朝鮮動乱における 米国を中心にする「国連軍」の派遣、国連安全保障理事会決議による実力行使による集団安全保障制度の発動、国連憲章規程の適用上の 課題や限界などを取り上げた。そして、米ソ冷戦下における集団安保制度の運用の在り方についていからな展望があるのかを模索した。 修士論文では、その朝鮮動乱における「国連安全保障理事会における決議案の合法性に関する決定過程」と題して論考した。

  院在籍当時、カナダのトルード首相政権はその外交政策として、国連平和維持軍の設置・派遣による地域武力紛争の再発防止、地域平和の 構築に熱心であり、国連軍の活用を強く唱導していた。停戦が外交努力で実現された後のことであるが、武力衝突していた国家間の緩衝地帯に 国連加盟国混成部隊を派遣し、武力紛争の再発を抑止するという構想である。そのバリエーションはいろいろあった。 カナダおいてこの領域の学究に取り組みたいと、カナダへの留学に情熱を注いでいた。国連憲章に基づく安全保障や国際平和と秩序の維持は、 国連の責務の中でも核心的重要性を帯びるものであった。それに、カナダはバイリンガルの国である。 ケベック州などのフランス語圏では、日常的に英語の他フランス語にも接し、学究面でもフランス語で取り組む機会も多かろうと考えた。 学部時代にフランス語を第二語学として真剣に向き合い、成績も悪くなかったことから、第一にカナダ留学を最優先に目指した。

  カナダのロー・スクールの大学院での国際法や国連平和維持軍による地域安全保障に関する学究に関心を寄せ、それに取り組める大学の 情報をいろいろ収集した。インターネットのない時代であったから、大阪から上京し、在京カナダ大使館などで、カナダ東部にあるキングストン 大学、トロント大学、クイーンズ大学、マクギル大学などについて情報を集め、大学案内やアプリケーション・フォームなどを取り寄せた。 特にキングストン大学ロースクール大学院を最有力候補とした。願書、成績証明書や推薦状などを順次準備しアドミッション・オフィスに宛てて 応募した。推薦状には院などでお世話になった竹本正幸国際法教授、平井国際政治学教授、上林良一社会学教授らにお願いできた。

  法律分野では、日本の高等教育制度と米国・カナダのそれとは大きな違いがあった。日本では4年制大学の学部の一つとして法学部があった。 その上位に大学院(修士・博士課程)があった。米国やカナダでは全く異なった。4年制のいずれかの学部を卒業した後に、弁護士資格取得などを 目指して法律を専門的に5年間学びというのがロー・スクール(法律専門学校)であった。その上位にあるのが「グラデュエイト・ロー・ スクール(Graduate Law School)」であり、日本語では「法科大学院」とか訳され、修士課程2年と博士課程3年からなる。米国・カナダの 法科大学院の修士課程への応募要件は、「日本の大学院法学研究科修士課程を修めている」か、または「日本の弁護士資格をもち法律実務経験が 2年以上ある」かであった。かくして、米加の法科大学院への入学時における平均年齢は一般的に25歳ということになる。

  カナダ留学には日本での学部・院での学業成績証明書、推薦状複数、さらに語学証明書を提出することになる。語学証明では、いわゆる 「外国語としての英語試験」、即ち「Test of English as Foreign Language」、略称「TOEFL」という試験のスコアを提出することが求められた。 カナダの法科大学院の場合のTOEFLスコア基準として、大学によっても異なるが、キングストン大学などほとんどの大学については、当時600点が 要求された。神戸に出向いて、年に数回受験していた。受験後のスコアは出願したい大学院宛てに直接送付してもらえた。語学力は短期間で 大幅アップするものではない。テストの難易度、体調などによっても多少は左右されることもあろう。結局、600点以上には一度も達しえず、 550点前後をうろちょろしていた。院時代に独学ではあるが、語学としての英語に、真剣に取り組み続けたが、そう簡単にはアップにつながら なかった。残念至極である、心は時に折れそうであった。

  院には2年間在籍し、1973年(昭和48年)3月には修了となった。学業成績だけは73年2月最速で送付していた。院修了と留学との間の時間的 ロスを最小限にするために、即ち修了年の秋季9-10月の第一クオーターから留学できるように、院修了前後のなるべく早い段階に留学許可を 得たかった。早い段階で語学試験スコアさえ文句なく基準をクリアしていれば、 院を修了する頃には恐らく何らかの通知を得られていたかもしれない。しかし、語学面での基準値のクリアが なかなかでなかったために、恐らくは、願書を受け取った大学では合否判定をスムーズにタイミングよくできず、判定が先送りされ続けたのであろう。 思い描いていた通りには事は進まなかった。かくして、院修了の直前になっても、第一希望のキングストン大学からの通知は届かず、 どうしたものか頭を抱えた。そして、苦肉の策として、大学院にもう一年居残ることをを決断した。



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