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    第6章 JICAにて国際協力の第一歩を踏み出す
    第1節 研修事業による人づくりと心の触れ合い


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    第6章 JICAにて国際協力の第一歩を踏み出す
      第1節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い
      第2節: 研修事業が海と連環することを知り、鼓舞される
      第3節: 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)
      第4節: 英語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」を創刊する
      第5節: 「海洋法研究所」の創設に向けて走り出す

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  国際協力事業団(JICA)への就職が内定したのは1976年の盛夏の頃であった。同年の11月1日から勤務することになった。 全く遅咲きの人生ではあるが、いわば「ピカピカの社会人一年生」となって出直すことになった。通勤ルートは渋谷までは同じであったが、 今度は山手線に乗り換え新宿まで通うことになった。前月までは所長とたった二人の事務所であったので、勤務地での緊張感は まるでないのも同然であった。だが、今度は千数百人が働く職場であり、いかにも社会の第一線で勤労するという緊張感を体中に 滲ませての通勤であった。否が応でも濃厚なサラリーマン感覚が体中に一挙に充満していた。かくして、心機一転して新社会人として の第一歩を踏み出すことになった。「国際協力」や「技術協力」の業務をするといっても実際にどんな仕事をするのか、丸で見当も つかなかった。宝石箱でも開けるかのようで、いずれ知る楽しみでわくわくしていた。 他方、大組織に勤務し、実務に就くのは初めてのことであり、仕事をしっかりこなしていけるのか大いに不安もあった。

  当座の関心事は、最初の配属部署のことであり、そこでどんな仕事をするのかであった。JICAの仕事を通じて、どれほど海との接点 をもつことができるのかも大いに気掛かりであった。JICAに奉職しながら、組織の内や外において、海との関わりをどれほど続けて 行けるのか、あるいは能動的に続けて行くのか。それが、もう一つの当面の個人的な関心事であった。JICAの業務を通じて何がしか 海との関わり合いをもてることを内心期待していた。だが、最初から期待を膨らませ過ぎると、失望も半端でなくなるので、余り期待を 抱かないように自分に言い聞かせた。今後おいおいと見えて来るはずのことであり、じっくり待てばよいことに違いなかった。 運よく入団できただけでもこの上なくハッピーであり、偶然と奇跡がもたらした人生最大の幸運に先ずは感謝であった。

  11月1日、時間に余裕をもって初出勤した。採用試験受験時の休憩時間中に紫煙を揺らしながら暫し言葉を交わしたことから、わずかに 見覚えのある者の顔もあった。入団した20人ほどの中途採用組のいわば「同期の桜」たちが勢揃いし、緊張した面持ちで入団式に 臨んだ。配属部署も記された、総裁署名入りかつ総裁印が押されたB5サイズの「採用兼辞令書」を有り難く受け取り、 その後全員揃って、1週間ほど続くオリエンテーションへと流れ込んだ。

  ところで、事業団の社会的使命を最も適格に表わす標語は、「国づくり人づくり心の触れ合い」であろう。もっとも、その標語は 入団時にはまだ採用されておらず、ずっと後に創作されたものである。その「国づくり人づくり」のためにさまざまな部署 が配されていた。発展途上国からの技術研修員の受入れ、途上国への技術専門家の派遣、農林水産・鉱工業・医療などの長期プロジェクト の運営、さまざまな分野での開発調査や無償資金協力、海外へ移住する日本人への支援事業、海外青年協力隊(JOCV)による ボランティア活動などに従事するいわゆる「事業部門」の他、「官房部門」と称される総務、企画、人事、調達、経理などの部署、 世界30か所以上の在外事務所、国内主要地域に設置された支部や国際研修センターなどがあった。そしてJICAの各事業部門は、 ざっくりと言えば、霞が関の中央省庁別の縦割り構造に組み立てられていた。

  さて、最初の配属先は研修事業部研修第二課という部署であった。研事部は西新宿の超高層ビルの一つである新宿三井ビル48階にあり、 ビルの南側半分の広々としたフロアを占めていた。因みにJICAは同ビルの45-48階の4フロアを占めていた。当時には、超高層ビルといえば 京王プラザホテルなど数本しかなく、サラリーマンが羨む「天空のオフィス」であった。 研事部から窓越しに眼下には明治神宮や新宿御苑の森や緑地、国立競技場などの他、原宿や渋谷界隈の街並みなどを全望できた。 オフィスの三方が総ガラス張りであったので、「空中に浮かぶオフィス」内を歩き回ると、まるで空中散歩しているかのような 気分であった。その鳥瞰的パノラマ・ビューを眺めれば、気分をいつも爽快にしてくれた。三井ビルは、外から見上げるとブラックと シルバーのツートーンカラーのシンプルかつシックな趣きをもち、重層感と落ち着きのあるビルであった。初期の頃は、田舎者丸出しで、 内心では、田舎に暮らす親たちに一度はこのパノラマ・ビューを見せてやりたいと思ったことは、私だけではなかったはずである。

  研修事業部の使命と業務をざっくり言えば、日本政府が「政府開発援助(ODA)」の一環として、世界中の発展途上国から招聘 する技術研修員のために、2週間から6か月程度の研修プログラムを作成し、実施することである。それによって、途上国に技術的 ノウハウなどを移転することで、人材育成を図り、その国の経済社会的発展に役立ててもらうこと、そして日本との友好関係の 増進に繋げることである。その実施には、国内関係省庁の行政・研究機関、地方自治体、大学、公益法人、民間企業など、あらゆる 関係機関と関係者からの協力を得ることになる。その研修対象分野は、「農業から原子力まで」と称され、ありとあらゆる分野に 及んでいた。

  研事部内の組織建ては省庁別の縦割りになっていて、そんな構造の見本のような存在であった。研事部には管理課の他に、研修第1、2、 3課の四つの課があった。そこには全体で60~70人の職員や嘱託らが働いていた。私はその研修第2課のなかの第2班に所属した。第2班は、 通産省(現在の経済産業省)とその傘下にある資源エネルギー庁や工業技術院、その他文部省(現在の文部科学スポーツ省/文科省)、 および科学技術庁(現在は文科省に吸収合体)が所轄する業務に包摂される研修プログラムの運営を担当していた。第3課は、研修監理員という、 研修の現場において研修員の監理と通訳業務に当たる職員や常勤嘱託などから成っていた。

  「コーディネーター」と称される監理員は、JICA職員のなかでも研修員に最も身近な存在である。監理員は、数多ある研修コース に最初からずっと張り付いて、海外からの技術研修員をはじめ、研修の受け入れ実施機関の講師や事務方などの関係者、研事部の コース担当者の三者間を繫ぐ役割を果たす。研修員にとっては、研修の現場でいつも自身に寄り添ってくれる、最も有り難い存在である。 間違いなく、そんな監理員は、滞在中最も頼りとなるJICA職員ということになろう。そして、その監理員らは、名前は格好よく 「プログラムオフィサー」と称される研事部第1、2課のコース担当者と二人三脚で研修コースを運営する。監理員は講義や実習での 通訳業務もこなすが、平たく言えば、研修現場で研修員のためにあらゆる「お世話」をする。英語通訳が最多であるが、 コースによっては仏語、スペイン語などを専門に通訳する監理員も配置される。

  研修コースには、「集団研修コース」と「個別研修コース」があった。前者には何百ものコースがあった。前者はいわば出来合いの 「セットメニュー」的なコースである。毎年定期的に実施される。10数か国から各国1名程度の技術研修員が招聘され、全体で 10数名が参加し、通例半年間ほど学ぶ。時には、研修員の割当対象国や受け容れ人数の見直しと入れ替えなどがなされる。 研修は東京・大阪を中心に全国の主要地域に分散して実施されるが、JICA所有の「国際研修センター」が存在する場合は、そこを宿泊施設に して滞在する。オリエンテーションや若干の座学もそこで可能である。センターの職員がプログラムオフィサーとして、地元の監理員と 共に各コースの運営に当たる。

  JICA本部のコース担当者は、外務省技術協力課やその他の関係省庁の国際協力課などの窓口機関のみならず、研修の実際の受け入れ 実施機関や関連公益団体などとの連絡や正式文書のやり取り、その他あらゆる必要な調整機能を果たす。因みに、研修第2課第2班 での研修分野として、例えば、通産省関連では、金属加工、繊維技術、機械工作や旋盤技術、品質管理(Quality Control=QC)、電気や電子工学、鋳造や冶金技術、石油化学工業、プラスチック成型技術などである。資源エネルギー庁関連では、 沿岸鉱物資源探査、火力発電など、工業技術院関連では計量標準などである。科学技術庁関連では、原子力研究、防災技術など。 文部省関連では大学教育学部での理科教育の教員養成、工学部での地熱エネルギー探査技術などがほんの一例である。

  後者の「個別研修コース」は、いわばオーダーメードの研修である。発展途上国や国際機関からの個別の研修ニーズに合わせて、 「特別なメニュー」的な研修プログラムを作成し、要請国に提供するものである。1名から10名程度が受け入れられる。 例えば、事務機器や精密機械の製造工程における品質管理(QC)に関する理論を学び、民間製造工場でその実習を行ない、 製品の品質向上のための実際を学ぶという、メキシコ一か国向けの特設個別研修コースを担当したことがある。

  その他、個別研修コースでも、多国向けの特設コースとして「石油化学」という研修が何年かにわたり実施されていた。 1973年の世界的オイルショックを経験した日本は、中東・湾岸諸国などの産油諸国だけを対象にした技術協力の一環として、 「石油化学」コースという「特別メニュー」が特設されていて、たまたまその担当者になった。石油化学プラントをオペレーションする 上級技術者などが、イラン、クウェート、ア首連、カタール、バ-レーン、サウジアラビアなどから、 毎年10数名招聘された。いずれも準高級研修員待遇で受け入れた。中央省庁の課長級に相当の研修員ばかりで、まして当時「泣く子も黙る」 産油国のハイレベルの石化工業技術者たちなので、飛びぬけてエリート意識とプライドが髙かった。

  研修開始後暫くして、全員から「何故ハイヤーを用意してくれないのか」と詰め寄られた。宿泊ホテルから受講先まで移動する間、 ラッシュアワー時のすし詰め電車に乗るのを相当いやがり、マイクロバスなどの専用の車両を手配するよう求め、 研修をボイコットする勢いであった。それに、また彼らのプライドがそれを許さなかったらしい。どう即答するか、それとも本部にもち帰り 対策を練るか? 

  私は、咄嗟の説明理由として、ハイヤーを用意するのもやぶさかではないが、都内の交通渋滞はひどく、通勤には大幅に時間がかかる ことになる。時間を読めないことが多く、「食事もできないままに、今以上に早朝にホテルを出発し、都内の酷い交通渋滞に巻き込まれ、 毎日ゆとりのない生活と研修を送ることになるが、それでもいいのか」と少々大袈裟に言い放った。 産油国のエリート技術者のプライドの高さと、鼻息の荒さには、胃が痛くなっていた。結果、全員が顔をゆがめてうなり込み、 それ以上のことは求めなかった。内心ほっとした。講義室から出て大きなため息をついた。

  産油国には、原油を輸出するだけでなく、原油を精製して経済的付加価値を付けた形で世界市場に売り込みたいという当然の意識が 強まっていた。当時、石化プラントを国内に建設し稼動させるための取り組みが旺盛であった。石油化学製品を作る基礎原料である ナフサ(粗製ガソリン)だけでなく、ナフサを原料にエチレンを作ったり、さらにそれを加工して合成樹脂(ポリエチレン、ポリプ ロピレン、塩化ビニール樹脂)を製造できるようになれば、産油国の工業力が飛躍的に向上させられるという思いにかられていた。 翻って、原油のほとんどを輸入に頼る日本は、石油化学製品を製造するプラントのオペレーション技術などの研修を産油国に提供し、 日本の技術協力や国際貢献をアピールし、彼らとのパイプを太くしようと努力していた。その真意は、協力の見返りに円滑な 原油供給への熱い期待であった。

  さて、研事部での研修員受け入れの起点となる業務は、集団研修コースでは、先ず研修員募集要項を作成することであった。毎年、 研修の実施を引き受けてくれる受託機関との間で、前要項をベースに見直しを図りながら、次の新しい研修プログラムと実施要項案 を作成する。外務省担当者を交えて、割当対象国の見直しをや要項案の最終確認を行なう。問題なければ、外務省担当者は時宜を 得て割当対象国の在外公館に送付する。在外公館は、相手国の窓口機関に研修員の募集や第一次スクリーニングを依頼する。 A2・A3と称される、OECDの「開発援助委員会(DAC)」作成の援助国共通フォームにて提出されてきた援助要請書や履歴書などが 在外公館から本省へ送付される。そして、研事部担当者は、受託機関の全面協力をえて、技術的観点から候補者の合否判定を行なう。 受け入れの可否は外部省経由で在外公館へ、さらに先方政府へと正式回答される。

  募集要項作成もそうだが、コースの実施も、研修の受託機関なくしては成り立たない。研事部担当者は、この受託機関を研修の 要に据えてその運営に当たる。その他、各省庁内の国際協力担当課、関連部局や研究機関、省庁認可の関係公益法人、さらにその 法人会員である民間企業などの協力を得る。通例では、各省庁認可の公益法人に研修を全面的に委託することが多い。カリキュラム の作成、その講師の選定や依頼、実習の受け入れ団体・企業のそれも一任される。また同公益法人からコースリーダーが 選任され、専門的見地からコース全体の運営を取り仕切る任務を担う。研修員の参加の下での研修評価会の開催と次年度プロ グラムへのフィードバックなども、彼を中心になされる。研修の受託機関は公益法人ではなく、政府の一研究機関、大学の学部、 地方自治体やその研究機関が研修受託機関となることもある。

  研事部担当者は英語では「プログラムオフィサー」などと称されていたが、研修コースの運営実施に関わるさま ざまな実務をこなし、数多の関係機関や関係者との意見調整を図る「司令塔」のような役割を担うことになる。 特にコース開始に先だって、雑多な実務をこなすことになる。関係省庁の部局長、研修受託機関の長、実習の受け入れ先や講師派遣先の 企業代表者などへの正式協力依頼文書の作成・発出、講義を担当する各講師へのそれなど、漏れがないように発出する必要がある。

  当時ワープロもパソコンもなく、総務部のタイプ室に依頼する他なかった。タイプ室に願い出て、和文タイプライターにて正式文書を作成 してもらうか、印字済のプロトタイプの様式に、送付先の組織名称・肩書・氏名を自筆で書き込んで、後は総務課で事業団の捺印と割り印 をもって完成し、後は総務課経由で封書を郵送してもらった。今から40数年前のことである。現代からすれば、全く想像もつかない ようなアナログ的事務世界がそこにあった。

  和文タイピングは午後定時で終了となる。終業時間を超える場合、事前にタイプ室長に電話を入れて了解を得てからでないと、 取り合ってもらえず、翌日回しにされた。事前予約を怠ると、急ぎの時は焦りがつのりストレスが溜まる。残業時間に食い込むエキストラ仕事の依頼に備えて、 日頃からのタイプ室との意思疎通が物を言う世界である。私的には理解しがたい仕事のやり方であったが、これが現実であった。 悠長な時代と笑って済まされない話である。もちろん、その数年後に社内でもワープロが普及し、デジタル化の大波は タイプ室を激変させた。嘱託人数を大幅に縮減されてしまい、また旧弊もまた除去された感があるが、担当者の仕事は増大し、また 事務処理スピードもアップし、別の精神的負荷がかかるようになった気がする。

  集団研修コースのほとんど全てが既に敷かれたレールの上を辿り行くものであるので、これと言った苦労もエネルギーの浪費も ないといえる。簡単なルーティンワークだけといえば誇張し過ぎだが、慣れてくれば緊張感も新鮮味も少なくなるのはやむ得ないことであろう。 だがしかし、新たなコースを一から築き上げるのであれば、大きなエネルギー消費が伴うことになる。また、零から積み上げるという 圧倒的な面白さもある。研修受託機関を探すのが研修プログラム構築の起点となろう。同機関と座学・実習の内容や 研修員の選定条件を検討したり、また割当対象国を予備的に検討したりである。研事部に在籍中、そのような集団コース新設の経験は 残念ながらできなかった。だが、個別研修コースでは経験できた。それも、何と海洋に直接的にかかわるコースの新設体験であった。 そのエピソードについては次節に譲ることにしたい。

  さて、「プログラム・オフィサー」とは、ある意味で研事部担当者が自嘲的に自称するものであったことを、ずっと後で知ること になった。自嘲気味に、「研修員のための研修ツアー・エージェント」のような仕事であると、いう先輩もいた。確かにそういう面も あることは否定はできない。「研修プログラムへのツアー」を開催・請け負う旅行エージェントなのか。自虐的にそのような気がしない 訳ではなかった。

  JICAからの研修員への最初の間接的なコンタクトは、旅行エージェントを通じて、PTA方式という航空券送付方法で、 研修員に来日用の航空券を手配することから始まる。本人が受領した否かは暫くして分かる。来日後すぐに、滞在費、支度料などの支払い。 JICAの国際研修センターか民間ホテルなどの滞在宿泊施設の手配。国内移動のための旅費支給と航空券や鉄道切符の手配。 全国で有効な健康保険証の交付、時に地方の研修先への国内移動での同行など、旅行エージェントの担当者や添乗員のような仕事に どこか似通っていることから、「プログラム・オフィサー」には、旅行エージェントの担当者という意味合いが秘かに込められていたのである。

  来日後は、予め計算書を起案し会計課に出金を手配しておいた、当座1か月分の滞在費(日当、宿泊費)、支度料、通勤用の交通費 などの支給を研修員に行なう。会計課で現金を受け取って、来日当初の滞在先である市ヶ谷の「東京国際センター」まで持参した。 滞在費の中からセンター宿泊費を予め控除して(同センターに会計課から直接支払い済み)、日当などを支払うが、それでも10数 人分の最初の支給額は、現金にして100万円近くに上ることもあり、若い担当者には半端でない現金をカバンに入れてセンターへ向かった。

  センターまで電車と徒歩で4、50分はかかるが、途中で盗難に遭わないよう、また紛失しないように、カバンを大事に抱えて、 センターへ辿り着く。そして、自己紹介しウェルカムスピーチをした後、やおら一人ひとりの顔を拝しながら現金封筒を手渡した。 研修員はそれで旅の疲れも不安も解消され、満面の笑顔となる。各人から領収書を回収し、会計課に提出し、確実に手渡したことの 証とする。また、翌月からの滞在費の支払いのために、個人の銀行口座を開設し、またキャッシュカードの発行手続きをしてもらう。 それには、日を改めて監理員に銀行へ同行してもらう。現在では現金を全く取り扱わないが、当時は現金を直接受け渡しするのも 重要なミッションであった。私の給料も、まだ銀行振込ではなく、封筒に入れて現金を手渡ししてもらっていた。

  東京に滞留する場合は、東京国際センターを宿泊の本拠地としてもらい、そこから4,5ヶ月間研修機関に通ってもらった。 先ず、最初の一週間は、同センターで日本の社会事情、文化、センターの案内やルールなどのオリエンテーションを受講してもらう。 オリエンテーションはそれを専門的に担う外部スタッフにお任せする。引き続いて、一か月ほど日本語研修をシステマ ティックに受講してもらった。その後、ようやく研修機関へ毎日通勤し、詳細なカリキュラムに沿って、本格的な座学や実習を 受講することになる。研修機関が地方にある場合には、コース担当者が旅費を算出し、会計課から出金の上、切符と引き換えに旅行 エージェントに支払う。そして、研修員は名古屋や大阪などの国際研修センターへ移動するが、ここで新幹線乗車を初体験することに なる。ここでも、研修員は満面の笑顔を浮かべて車窓からの風景を楽しむ。19778年の頃である。 コース担当者が時に同行するが、たいていは東京駅ホームでセンターの担当者とバトンタッチをした。

  通訳兼監理員の「コーディネーター」が常時コースに張りつく。平たく言えば、研修監理員は、コース担当者と分業しながら 二人三脚で、研修員と向き合い、あらゆるお世話をする。研修現場における座学・実習の専門的な通訳業務をも担う。 研修員の生活面にまつわるさまざまな支援やトラブル・シューティングも監理員の務めである。研修員が体調不良になったり、 病気の場合は、研修先と協力して、病院へ同行したり、時に医者との面談の仲立ちなどをする。酷いホームシックにかかったり、時に 深刻なノイローゼに陥る研修員も中にはいる。あらゆる悩みの相談に応じ、体調管理への目配りなども怠らず、つねに寄り添う。 研修員には全国医療機関で使用可能な「健康保険加入証明カード」が特別支給される。彼らは、それを大事に所持する。何故なら、 それがあれば日本という異国の地で何カ月の安心して研修に励むことができるからである。

  研修員が地方に研修旅行に出かける時は、その全宿泊費、交通費などを計算し、現金で支給した。JICA研修施設が研修する地方 にない場合には、民間ホテルでの宿泊の手配、ホテル料金の交渉などを行ない、また時に現地に同行し必要な打ち合わせを行なう。 1977年当時は、まだファックスもインターネットもなく、全て電話か郵便での通信であり、手間暇かかる時代であった。

イラク研修員3名が鳥取市内の民間工場での研修に臨んだが、そのホテルの部屋が狭くて気に入らず、強い不満を訴えた。滞在費を 上乗せした上で、もっと快適なホテルへの転居か、3人でアパート暮らしをしたいと要望した。特に滞在費の支給基準額のアップを執拗 に迫られ、ついに在日イラク大使に泣きつかれた。止む無く研修員からのクレームを受け立った。課長と共に大使館へ出向き、大使に その支給基準などを説明し、日本政府の全研修員共通の支給基準を変更はできかねると申し入れた。どうしても不満であるというなら、 母国へお帰り頂くほかない、とさらに申し入れようとした。だが、その前に大使の円満な納得を得ることができた。 そんなこともコース担当者の務めであった。

  ある時、数名の研修員が搭乗した日航機が、バンコクでハイジャックに遭遇したこともあった。大勢の乗客の中に、来日途上のエジプト女性研修員 の他、何名かの研修員が巻き込まれ、JICA内でも大きな騒ぎとなった。だが、幸いにも無事に解放され、特別機で無事来日したが、 着の身着のままであった。研事部は、来日後の研修員に精神的ケアや生活支援を手厚く行なった。特別給付金を用意して、女性監理員 などに付き添ってもらい、デパートなどに衣類や日用品の買い出しに出向いてもらった。

  余談だが、監理員から聞いたエピソードであるが、サウジアラビアからの研修員が、同じコースの研修員らを招待して、 夜のネオン街を歩きまわったらしく、1億円ほど自腹を割いて派手に飲食したことを自慢げに話をしていたという。監理員は信じられず、 どうせアラブ人のホラ吹きの話として取り合わなかったが、半分冗談で「その証拠を見せてくれるなら、信じる」と一言口を滑らせて しまったという。彼はおもむろに銀行預金通帳を取り出して、印字された9桁の数字を見せて、自慢顔をしていたという。

  コース担当者の仕事にはまだまだいろいろあった。集団研修コースが無事終了すると、修了式を挙行しなくてはならない。式場での 国旗掲揚や研修員・来賓者などの椅子のセッティングを見届け、修了証書を準備するのも仕事であった。司会進行を務め、 理事から一人ひとりに証書を手渡してもらうのも仕事であった。理事のスピーチ原稿も準備した。その後、懇親会を執り行い、 コースの修了を全員で祝福した。JICA職員が思う以上に、研修員にとっては、その証書は母国では重みがあることを後でしった。 彼らはそれをもち帰れる安堵感、誇り、喜びで満面の笑顔を見せてくれた。些細なことであるが、懇親会の支払いの会計処理も担当者 の仕事であり、また座学講師への謝金などを、時に定期的に直接支払うのも担当者の役目であった。

  自嘲気味の「プログラムオフィサー」ではあったが、そう言ったこまごまとした雑事のように見えることの積み重ねを経て、 研修員の滞在生活が、安全・安心で、快適なものなものになって行く。また、研修自体が円滑に進んで行くことに繋がる。 研修員が、美味しい食事を食べ、快適なベッドで安眠でき、毎日無事に通勤し、研修先でしっかり学べることは、日本での滞在を 有意義なものにする第一歩といえる。JICAは、研修員の私生活を支え、研修をも支える。彼らの私生活に干渉 することはないが、研修も生活も快適で円滑に進むように支える。ざっくり言えば、彼らに必要な助言を提供し、生活の知恵や必要な 情報を提供し、研修と生活を有意義にすること、それがコース担当者と監理員の願いでありミッションである。

  彼らはJICAからの日当を節約して、貯金に回し、米国ドルにして持ち帰りたい。そのために、食事を少量化したり抜いたりする。 時に様子がおかしいので訊いてみると、朝食を抜くのことが多いという。それは体調を壊すことに繋がる。監理員はそれにも気を配る。 些細なこと、面倒なことでも、研修員を支えるために、監理員はいとわず寄り添ってくれる。それが研修員の安全・安心に繋がる。

  我々はこうして分業しながら、研修員を支える。研修受け入れと言う国際協力や術協力は、まさに大勢の関係者が協力し合う分業形式で 成り立っている。一個人ですべてをやりこなして、研修を完結することなどできない。自分一人では大したことはできない。 研修を支える関係者は一集団コースにつき百名を下らないであろう。彼らが役割分担しながら、自らの立場と持ち場に おいてできることを精一杯こなすことで、研修員を支えている。しかも、それらの個々のパーツはバラバラではなく、JICAはそれらを システムとして組み立て運営し、研修員に提供している。そして、そのシステムの指揮者というか、司令塔に立つのがプログラムオフィサーであり、 コース担当者であると言いたくもなる時もある。だが、それは言い過ぎであろうが、誇りだけはもっても良しと言いたい。

  コース担当者や監理員は、研修員の日本での生活と研修を支える二人のキーパーソンに違いない。彼らが研修で最も頼り とするのはJICAそれ自身である。JICA、即ちその背後にある日本政府が彼らのスポンサーである。そのスポンサーの命を受けて、 担当者と監理員は、研修員のあらゆる悩みに耳を傾け、相談に応じ、寄り添う存在である。「旅行エージェント」的であろうとも、 今そこでやるべきこと、やれることをしっかりこなしていくことが大切であった。さらに言えば、全ての研修関係者による、 個々の大小を問わない努力が合わさって、総体として日本が提供する技術研修、さらに国際協力の一部を形づくっているといえよう。 そこには、総力を上げて、研修員を支え、研修を実行する日本独自の組織的で実効性のある体制がある。

  総力をもって支えるのは研修関係者だけではない。実は、研修員は多くの一般の日本人と接し、時に大変世話になっている。 研修員は、日常的に接する日本人を通じて、また実際の何かの体験を通じて、日本人は何者かを理解している。五感で日本を感じ学んで いる。日常生活で日本人の親切に触れたり、文化的な交わりをしている。日本人の物の考え方、価値観を知る多くの機会に日頃から 接しているといえる。母国での社会的価値観と比較しながら、日本の社会と文化を学ぶことになる。日常的に彼らの心の内でいろいろな 化学反応を誘起しているのかもしれない。一般の日本人との触れ合いを通して、研修テキストにはない多くのこと体験し感じとって いよう。また、親日的になれる機会もあちこちで得ていることであろう。

  青少年時代かつて船乗りになって海外で異文化と向き合うことに憧れをいだいていたが、JICAでの最初の職務を通じて、その夢が 初めて叶った。叶った場所は、何と海外ではなく、日本国内においてであった。JICAの研修事業で働きながら、異文化と真剣に向き 合うことになった。毎日のように新しい出会いや発見があり、感動があった。多くの途上国の研修員と触れ合い、お世話することもできた。 コース担当者の仕事はこまごまとした雑務雑事が大半であったかもしれないが、多くの関係者と分担し協業しながら研修員を支え、 人づくりと友好増進の一端を担うことができた。彼らと日本における空間と時間を共にしながら、 彼らの生活と研修を支え、総体としてその滞在を有意義なものにするうえでの一翼を担うことができた。それが最大の喜びであり、 誇りとなった。その上に、私的には、月々の給金と、年2回のボーナスまでいただいてきた。これに感謝せずして、天罰が下るとの 思いであった。

  研修員は将来いろいろな領域で活躍し、自国を支え、指導する立場の人にもなろう。ずっと親日的となってくれること、そして 両国の懸け橋となってくれることを真に期待したい。研修の効果は速効ではありえない。帰国後何年も何十年もかけて国づくりの 一翼を担うことになろう。人材育成の成果が目に見えるまでは、実に長い道のりを経ざるをえない。当時、毎年5~6000名の研修員を 受け入れていた。既にJICAの帰国研修員は延べ40~50万人にも及ぶであろう。彼らの親日的な言動は家族に伝播し、また友人や 同僚にも伝播するかもしれない。帰国研修員は、日本にとって真にかけがえのない人的財産である。かくして、 日本は世界中に研修員を通して「友好」と「技術」の種を播き続けてきた。既にその種から成木が大きく育ってきた。将来更に種が 播かれ、また大きく育ち行くことを期待したい。



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    第6章 JICAにて国際協力の第一歩を踏み出す
    第1節 研修事業による人づくりと心の触れ合い


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    第6章 JICAにて国際協力の第一歩を踏み出す
      第1節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い
      第2節: 研修事業が海と連環することを知り、鼓舞される
      第3節: 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)
      第4節: 英語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」を創刊する
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