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    第6章 JICAにて国際協力の第一歩を踏み出す
    第3節 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)


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    第6章 JICAにて国際協力の第一歩を踏み出す
      第1節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い
      第2節: 研修事業が海と連環することを知り、鼓舞される
      第3節: 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)
      第4節: 英語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」を創刊する
      第5節: 「海洋法研究所」の創設に向けて走り出す

    第1章 | 第2章 | 第3章 | 第4章 | 第5章




  最初の配属先の研修事業部に勤務して3年目を迎えていた後半の1979年1月のことである。初めて海外出張の任に預かることになった。 「公用旅券」と呼ばれる、公務のための海外出張用パスポートは、その表紙がグリーンであった。 「赤パス」と言われる一般旅券を、旅行エージェントの担当者を通じて外務省に預け入れをした上で、公用旅券を携帯することが 許されていた。同時に二冊のパスポートを所持することは禁止されていた。出張先は、イスラム文化圏のエジプトとトルコ共和国、 そして長くスペイン統治下にあったフィリピンの3か国であった。生まれて初めてイスラムの世界へ足を踏み入れることになった。

  「地熱エネルギー探査技術」という集団研修コースは、過去10年以上にわたり、九州大学を主な研修受け入れ機関にして実施されて いた。研事部でのコース担当者は私ではなかったが、何故か運よく、海外出張のお鉢が回って来た。集団研修コースが10年以上経過した場合には、 研修員の帰国後の活動状況を視察し、彼らと技術的な意見交換をしながら技術的課題を探ったり、また研修に対する意見や 要望をヒアリングしたりして、今後の研修にフィードバックするために、幾つかの国を巡回することになっていた。集団研修コースの 帰国研修員に対する巡回指導という名目で予算的に認められていた。慣例として、研事部配属3年目の職員が推薦され、その任に当たることになっていた。

  巡回指導調査団は当該コース運営のリーダーを長く務めてもらっていた工学部教授を団長にして、工学部事務長と私の3名で 構成された。私は「業務調整」という役割りで参加した。と言っても、出張中何をどうすればその任務を果たせるのかほとんど 理解できていないままに旅だった。私には地熱エネルギーなどは門外漢であったが、団長からすれば、当該研修の充実を図る絶好の 機会であった。3ヶ国において帰国研修員が勤務する地熱エネルギー資源開発関連の政府研究機関や公社、地熱発電のフィールドなど を訪ね、先ずは現場を知ることができる。そして、研修員が日本での当該研修で得た知見の利活用状況や彼らの抱える技術課題などを探り、 研修プログラム編成に活かすことができる。

  ところで、私は少なくとも現地の国内交通費、小型飛行機レンタル代、会議費、資料購入費など数十万円の公費を右ポケットに、 私金を左ポケットに忍ばせていた。公金ゆえに一円単位まで厳格な管理が求められるのはよいとしたい。だが、異なる3ヶ国を巡回する となると、日本プラス3ヶ国の出入国のたびに円貨・ドル貨と現地通貨との通貨換金が合計8回にわたることになる。 実際に手にする現金と領収書や換金証書類との辻褄合わせ、それに帰国後の精算書づくりが、複雑怪奇の作業となり、出張者にとっては 意外と人知れず悩みの種であった。私金の換金も数えると合計16回にもなる。実際の公金の現金管理と書類作成の慣れ、そして会計規則の 理解度の問題であったが、要領を飲み込んでいないと、1円単位まで適正に会計処理するのは結構苦労させられる。 換金するたびにコインについては少額なので換金を受け付けてくれない。次の国に入国する前に間違いのない適正な会計処理をして おかないと、後々ずっと精算処理上の辻褄が合わなくなる。どうしても合いもそうもなければ、「私金で負担する」とか、「少額につき 換金不可能」などとするしかない。それらの、ちょっとした要領を知らないと、どうもがいても、公金の現ナマと帳簿とは合わせられない。 これには随分と泣かされることになった。さて、出張期間は、1979年1月21日から2月7日までの約2週間であった。

  自らの五感をもってその国の人々の実際の暮らしぶり、風俗風習、自然などを眺め、観て、知ることは最高の喜びであった。 それへの興味は尽きることがなかった。経験値が一気に上昇することにつながった。特に、初めて足を踏み入れ初めて観るものは、 全て珍しく印象深いものとなる。私的には、感情の高揚や興奮は、日本を出発する前からアップし、3ヶ国のそれぞれの地に自身の足 を踏み入れ、その地の空気を吸い、匂いを嗅いだ瞬間に最高潮に達した。

  私は、地熱エネルギー探査・開発に関することは全くの専門外であったし、地熱コースの担当者でもなかった。だが、再生可能 エネルギーの利用形態の一つとして大いに興味があった。何故ならば、波力、温度差、潮汐、海流などの海洋再生可能エネルギーの 開発とは、「再生可能エネルギー」という同一延長線上にあることから、多少は地熱に「親近感」をもっていたからである。

  地熱エネルギー開発中のフィールドや、既に稼動中の地熱発電所などの最前線を回ってみて、再生可能エネルギー資源としての開発可能性の 高さを強く感じた。また、3国を回る過程で、地熱エネルギーに対する知的好奇心を高め、学びの対象と幅を広げ深める ことに繋がった。地熱エネルギーのことを知ることの新鮮さや面白さを実感した。日本をはじめ、フィリピンやトルコなどは、 石油・天然ガス資源に余り恵まれてこなかった。他方で、数多くの火山が国内に存在するなど、その地球科学的な観点からして、 地熱エネルギーの開発ポテンシャリティーは極めて有望である。自然環境に十分配慮しながら、その開発可能性を探求する価値が大い にある。クリーンで再生可能な自然エネルギー源の多様化を促進するうえで、大いに期待できるものとの印象をますます強くしていた。

  だが一方で、巡回する中で、開発には幾多の課題がつきまとうことも理解できた。いつの時代においても、地熱エネルギーが賦存する 最適ポイントの特定化、開発可能な総熱量(地下の地熱レザバーの規模)やその持続性などの技術的見極めについては、いつも困難を伴う。 それらは発電プラントの規模、発電総量や耐用年数、建設コストなどに直結するからである。また、化学物質の混じった熱水や蒸気を 大量に放出すれば、周辺環境への負の影響が懸念される。地方自治体や地域住民との理解、連繋、共生が求められる。国立公園や 自然環境への特別な配慮も欠かせない。あれこれと考えながら、帰国研修員の探査・開発に取り組む真剣な眼差しにエールを贈る とともに、JICAの研修が「人づくり国づくり」に役立ちつつある実際の現場に立てることは、大いに誇りとすることができた。

  個人的に嬉しかったのは、海との接点についてのヒントを得た事である。先にも少し触れたが、海には、波力、温度差、潮流、 海流などの再生可能な自然エネルギーが内包することを再認識させられた。今後、海洋エネルギーの利用開発にも改めて自身の関心 を向け深く学んでいくのきっかけを得た。そして、いつでもどこでも海への関心、海との繋がりをもち続けたい私としては、 3か国を巡回する道すがら、当該国の自然地理や歴史的な出来事について、たえず海との接点を追い求めた。その結果、時に当該国の 海にまつわる面白い史実などを掘り起こすこともできた。そんな視点からのエピソードをもまじえながら出張を振り返りたい。

  エジプトでは、最初に、カイロ市街にあるリモートセンシング技術研究所を訪問した。そこで、帰国研修員らと懇談会をもち、 リモートセンシング技術を応用した地熱エネルギー探査などについて意見交換した。午後には、別の帰国研修員グループと彼らの家族 をも交えながら懇談した。実は、その場所が感動と感激の川岸であった。カイロ市街を南北にナイル川が貫通するが、シテ島と言う 中洲が浮かんでいる。懇談の場となったヒルトンホテルはそのシテ島の川下の一角に建つ。カフェを楽しむテラスからは、眼前左右180度の 視界にてナイル川が広がる。

  時空を超えて悠然と流れゆく大河ナイル川を眺めることができた。生まれて初めてじっくり眺めるナイル川の悠久の流れであった。 一度は川岸に立ってみたかった大河がそこにあった。私的には、一生に一度はこの目で見たかったナイル川を、そのすぐの畔に座して 眺めながらカフェできることだけでも、この出張に感謝であった。これが5、6千年にわたり古代エジプト文明を育んだあの母なる大河ナイル川か、 と思うと感動で鳥肌が立ってしまった。しっかりと目に焼きつけて、研修員らと別れた。

  翌日ギザ経由で、地中海沿岸の商業港湾都市アレキサンドリアへ向けて北上した。ギザにはクフ王などの、巨石を「積み木」したあの ピラミッド3基とスフィンクスが、土漠に悠然とそびえ立つ。ピラミッドの真下に立ち、積み石をまじまじと見上げた。 その人工の山の巨大さに度肝を抜かれた。個々の巨石もさることながら、ピラミッド自体の半端でない巨大さは圧巻であった。 初めて見るピラミッドは筆舌しがたい印象を脳裏に突き刺し、その感動は生涯忘れえないものとなった。現在ではピラミッドのすぐ傍には、ファラオが冥土に旅するためなのか、埋葬された木造の大船が 復元され、「太陽の船博物館」として展示される。だが、当時にはなかった。今では、第二の太陽の船が発見され、復元されつつある。

  通りすがりであったが、ピラミッドを垣間見た後、砂漠の中を延々と貫通して地平線の彼方に消えゆく道路を疾走した。見渡す限りの 砂漠を走る初めての体験となった。鳥取の砂丘しか知らなかった私は、地平線のはるか彼方まで埋め尽くす砂だけの風景を車窓から 飽きもせず眺めていた。何事も初めての体験は新鮮にして観る者を飽きさせない。砂漠ルートのドライブも初めてゆえ、楽しいものであった。

  アレクサンダー大王の東方大遠征において築かれた都市アレキサンドリアは、古代ローマ時代にはすでに地中海の重要交易拠点の 一つであり、またオリエントの世界へつらなる「海のシルクロード」へのゲートウェイでもあった。東洋世界からの多種多様なスパイスなどの 交易品がこの地で船積みされ、西洋世界へと運ばれた。港には「世界の七不思議」の一つと謳われる巨大なファロスの灯台がかつてその港口に そびえ立っていたが、巨大地震で海底に崩れ落ちたという。

  さて、そのファロスの灯台跡に15世紀に建立されたのが「カーイトゥベーイの要塞」である。内部は海軍博物館になっているという。 また、港近くの海底遺跡から古代エジプト・プトレマイオス朝のクレオパトラ女王の治世時代 (紀元前51-30年) に神殿に使われた と見られる、塔門の一部が引き揚げられた。2009年12月のことである。いずれ将来には博物館が建設され、 それらの海底遺物などが展示される予定だと言われる。通りすがりに要塞を見た記憶があるが、アレキサンドリアでは市街中心地と海岸通りを ぐるりとドライブしただけで、地熱関連で何かを視察した記憶がない。

  地中海沿いの海岸通りでしばし車の行き足を止め、暫く佇み地中海の紺碧の海をじっくりと眺める機会があった。私は、 煙草の煙を揺らしながら、感慨の面持ちでブルースカイとブルーシーの水平線にしっかり目をやった。時に眼前の巨岩だらけの海岸に 打ち砕ける波を覗き込みながら、生まれて初めて見る地中海に向かって、感激の大きなため息をついたのは一度や二度ではなかった。 帰途はルートを変えて、ナイル川沿いに緑溢れる穀倉地帯を貫く街道を一路南下した。ナイル川の増水によって太古の昔から広大な 河口デルタ地帯を冠水させ、土地を肥沃にさせたことを思い描きながら、車窓を流れる田畑や椰子林などの風景をずっと楽しんだ。

  もちろん観光に来た訳ではない。目にしたほとんどの都市・農村風景、そして自然風景は、公務中の通りすがりではあった。 だが、強い憧れの気持ちを胸に抱き、何時しか見てみたいと思っていた風景に初めて出会うと、時に生涯忘れえぬ強烈な印象と感激 をもたらしてくれる。教科書や地図帳でしか知らなかった、あのナイル川、巨石の「積み木」のピラミッド、それを守るスフィンクス、 古代より船乗りが航海するには手頃な「大地に囲まれた池のような海」であったはずの地中海の海風景は、脳裏にしっかり 焼き付き、生涯忘れ難いものとなった。初めての海風景もまた強烈な印象を脳裏に焼きつけてくれた。

  余談だが、「エジブト国立博物館」内を夕刻閉館直前に駆け足で見て回る機会を得ることができた。時間があれば、 5分でも10分でも見てみたいという思いであった。一歩でも足を踏み入れるか、あるいは、またの機会とするかは大違いである。 団長らのそんな思いは、何日間か旅を共にすれば、すぐに読み取れた。何千年も昔の数多くの古代ミイラ、ツタンカーメンの「黄金の マスク」、古代エジプト象形文字が刻まれた石柱など、目途の展示室だけを狙いを定めて駆け足で巡った。5千年以上の歴史的遺物に 息つくことも忘れるほどに圧倒された。「一瞬でも見た」ということだけでも経験値をアップさせてくれた。 だが、残念なことに、スエズ運河のかけらも見ることはなかった。運河の畔に立って初めてじっくり観ることができたのは、 サウジアラビアに赴任中の2007年4月のことであった。30年ほど後のことである。 とにかく、トルコ共和国もそうであるが、エジプトという初めてのイスラム文化圏への足の踏み入れでもあった。エジプトもトルコも 歴史が積み重なった国というだけでなく、イスラム文化大中心地であったことも、私的には大興奮を惹起させてくれた。

  カイロからトルコ共和国の首都アンカラに2時間ほどで足を踏み入れた。国立鉱物資源開発研究所を訪ね、帰国研修員と地熱 エネルギー探査や開発の現況や課題などについて意見交換した。その後、陸路で西部地方にある地熱開発フィールドを目指した。 途中、同行の帰国研修員は、気を利かして、道すがら、ユネスト世界自然遺産に指定される自然地形のあるパムッカレに 立ち寄ってくれた。石灰岩の溶解でできた幾つもの真っ白なミニミニプールに透き通るような淡いブルーの水を湛え、神秘さを漂わせていた。 そんなプールが何百も棚田状に連なる。自然が創り出した美の芸術作品は圧巻であった。暫し、目の保養となった。その後、地熱開発途上の フィールドを視察した。未だ発電プラントはどこにもなかったが、建設済みの大口径の配管からは白煙の蒸気を轟々と吹き上げていた。 見学後は、ローマ時代の古代都市遺跡が残るエフェソスなどを経て、領事館に報告するために東西文明の十字路と称されるイスタン ブールへと向かった。「世界がもし一つの国であったならば、その首都はイスタンブールである」と、彼のナポレオンが語ったと伝え られる。

  「ああ、これが、あのボスポラス海峡か!」。アジア側のアナトリア地方から車で海峡に架かる小アジアと欧州側を結ぶ長大橋を 通過し、車窓から海峡を眺めながら心の中で思わず叫んだ最初の感嘆の言葉がそれであった。 橋は1973年に竣工した、全長1,074メートルの第一ボスポラス大橋、別名ボアジチ大橋である。眼下には海峡が黒海方面に長く伸びていた。 「今、海峡をアジアからヨーロッパ側へと横断中」との思いに浸りつつ、感激で息つくことも忘れ、海峡を凝らしたままであった。 私的には、国際海洋法の学問領域に足を踏み入れて以来、ボスポラス海峡を一度は見てみたいと憧れ、その風景を思い描いてきた。 イスタンブールはローマ帝国分裂後の東ローマ帝国、さらにビザンツ帝国、オスマン帝国と、3大帝国の都として繁栄していた。 それらの文化が重層的に積み上げられ、そこにそれぞれの歴史が深く刻まれている。

  東西文明のクロスロードであるイスタンブールに足を踏み入れ、市街地の新興地区にある総領事館を訪ねる道すがら、数々の歴史的 建造物などを目にした。その中で最も感激し身震いしたものは、ブルーモスク、トプカプ宮殿やオリエント急行の 終着駅舎、グランバ・ザールなどの代表的な歴史建造物ではなかった。釘付けになった第一のものは、現代の国際政治・ 軍事においても、また地政学的にも重要なボスポラス海峡そのものであった。

  旧市街地区には、海峡から枝分かれして、同地区の内陸部へと深く入り込んだ金角湾という入り江がある。その湾口にガラタ橋と 言う有名な橋が架かる。そこからは、大小の船がひっきりなしに海峡を縦横に行き交う姿を眺めることができた。 感激に浸りながら無言のままに暫く眺めていた当時のことを思い出す。旧ソ連や現代ロシアにとっては、海峡は死活的に重要な海上交通の チョークポイントといえる。南はマルマラ海からダーダネルス海峡を経てエーゲ海へと繋がり、さらに地中海からジブラルタル海峡 を経て大西洋へと繋がる。そして、北はボスポラス海峡を経て黒海へと繋がる。ボスポラス海峡は黒海から地中海と繋がる。

  ロシア、ウクライナなどにとっては、ボスポラス海峡は、黒海から地中海を経て世界の大洋へ出る上で通航しなくてはならない 死活的に重要な戦略的要衝である。かつて、海峡の航行権を確保したい帝政ロシアと、それを抑制したいオスマン帝国や西欧列強諸国の間で長く 政治的駆け引きがなされ続けていた。その通航制度をどうするかは、19世紀以来長く軍事上の国際問題となっていた。 現在は、1936年締結の「モントルー条約」により、トルコ領内にあるボスポラス海峡・マルマラ海・ダーダネルス海峡の通航制度 が定められている。海峡での商船の自由航行、軍艦の通航制限、航空機の海峡上空の通過制限などが定められている。

  航空母艦、ならびに8インチ(20.3cm)以上の口径の艦砲を搭載する「主力艦」は、通過できないものとされている。 また、同時に通過する軍艦の排水量は、総計において1万5千トン以下であること、その隻数は10隻未満でなくてはならない。 ただし、「主力艦」はこの限りではなく(空母、8インチ以上の砲装備艦は除く)、1隻までならば排水量に制限はなく、随伴艦も2隻まで 認められた。

  イスタンブールで感涙と身震いをした第二のものは、既に触れた金角湾とその入り口に架かるガラタ橋そのものである。 細長く奥行きの深い「金角湾」は、イスタンブールの欧州側にあって堅牢な城壁に囲まれる旧市街地と、その反対側にある新市街地 とを隔てている。1453年当時にあっては、ビザンツ帝国はほぼ全領土を失い、コンスタンティノープルという一都市のみの帝国となっていた。 だが、ビザンツ帝国側は、オスマン軍の攻撃に頑強な抵抗を示し、金角湾口の海中に太い鎖を渡し封鎖しようとした。オスマン艦隊の湾内 への侵攻を食い止める作戦であった。

     オスマン軍は、金角湾口から5キロメートルほど北のボスポラス海峡沿いにある海岸地点から、金角湾の少し奥にある 地点へと、山を切り開き道を造らせた。山道には丸太を敷き詰め、更にその丸太にたっぷりと油脂を塗らせた。 そして、闇夜に乗じて、ボスポラス海峡から軍船を陸へ引き上げ、山を越え、金角湾へと運び入れた。 金角湾に突如としてオスマン軍の艦船が浮かぶのを目の当たりにしたビザンツ軍兵士らは、 一気に戦意を喪失したという。コンスタンティノープルは、これによって、1453年5月29日に陥落することとなった。ビザンツ帝国は ここに歴史上から消滅し、キリスト教世界からイスラム教世界へと文明的大転換を図ることになった。

  コンスタンティノープルは、後にイスタンブールと名を変え、500年以上にわたりイスラム文化に彩られ今日に至っている。 ガラタ橋の端桁下にあるレストランでは観光客らで賑わい、さらに進むと大勢の太公望が釣り糸を垂れていた。ガラタ橋の欄干に身を寄せながら、ボスポラス海峡を横断する渡し船や、 旧市街地の丘の上にそびえるブルーモスクとそのミナレットなどが遠くに霞む情景を暫く眺めながら、感慨にふけった。 時に、太公望がその足元に置くバケツの中の釣果に目をやったり、金角湾奥に向かって広がる新市街の丘を見上げながら、空前絶後の 山越えの歴史やオスマン艦隊が金角湾に浮かぶ情景を夢想したりしていた。そんな歴史を刻んだ地に一瞬でも佇める私は、無類の幸せ者 であった。今の時を心底嬉しく思いながら、感激の高揚感に浸っていた。海にまつわるその土地土地の歴史を学ぼうという情熱が 湧き上り、一瞬身震いまでしてしまった。

  余談だが、領事館への報告後の夕暮れに有名なグランド・バザールを調査団全員で足を踏み入れた。余りに広すぎるので、待ち合わせ場所と時間 を決めて、思い思いにぶらつくことにした。私はゴールドのネックレスを買い求めて、その店主と値段の駆け引きをした。 定石通り彼の言い値の10分の1くらいから交渉を開始した。因みに、最も勇気の要ることは、店主が最初に口走った価格に対し、 そんなとんでもない低価格を言い出せるかどうかであった。これによって、その後の競り合いの着地点がほとんど決まってしまう。

  彼から振る舞われたチャイを飲んだり、交渉を一旦決裂させて店を出る素振りをしたり、本当に店を4,5歩出てショーウイン ドウを眺めたり、他の品物に興味を鞍替えしてみたりして、優に一時間交渉の末に半値くらいまで競り合い 最終決着を見た。時間が十分に取れない客や、本心としては買うつもりがないことを見透かされた客などは、競り合いに負けること になる。押しと根気をもって臨むほかないが、日本人の場合羞恥心が競り合いを邪魔しがちだ。それに、とにかく時間がかかり疲れて来る。 皆と再会後、団長に教えられたことがある。店主がゴールドの重さを天秤式のはかりで量った時、分銅とゴールドを入れ替えた上で 再度量ったかと問われた。天秤の支点がずれていないかを確認するためである。そこまで請求できれば、「勝負師」としての心臓は 本物であるに違いない。

  さて、出張の舞台を香港経由のフライトでマニラに移した。フィリピンは、日本と同じく環太平洋火山帯に位置し、数多の火山のある島国である。 フィリピンは、その地学的な特性を活かし再生可能な地熱エネルギーを開発できる最有望国の一つであった。同国もまた化石燃料 資源は極めて乏しく、石油のほとんどを輸入に頼ってきた。石油への依存度の縮減、エネルギー源の多様化に早くから真剣に取り組んできた。 地熱開発は、ルソン島南部のティウイ(Tiwi)という地から1970年に始められた。そして、1970年代後半から1980年前半にかけて、 ルソン島でマク・バン(Mac-Ban)発電所とティウィ発電所などが操業を開始した。その後、1990年代にレイテ島、ネグロス島、 ミンダナオ島などにも開発が広げられて行った。

  我々団員は帰国研修員のエネルギー省技術者らと共に、マニラから空路でルソン島南部のレガスピー(マヨン火山で有名)に移動し、 その後陸路を取った。椰子の樹林間を縫ってティウイの地熱発電所に辿り着き、稼動中のプラント施設をじっくりと視察した。1977年は 3メガワット級の実証プラント運転に成功していた。その後レイテ島のタクロバンへ移動した。現在ではフィリピンの地熱発電量は膨大で、 世界でも有数の地熱発電国となっており、再生可能地熱エネルギーに対する期待は今後とも大きい。その後、最後の訪問地セブ島に移動し、 翌日開発候補地をヘリコプターから視察して最後のフィールド行程をこなした。

  ところで、セブ市の市街中心地の対面近くに、狭い水道をはさんでマクタン島が浮かぶ。空港はセブ本島でなくそのマクタン島に あった。セブ本島と、豆粒のような小さなマクタン島とは、大きな橋で結ばれている。マクタン島は世界周航を果たしたマゼラン艦隊 のゆかりの地であり、世界的な歴史が刻まれた島であることは知っていた。だが、マゼランゆかりの史跡やスペイン統治時代の遺蹟 などには、その当時全く縁も関心もなかった。余談だが、友人と連れ立って、セブ島を訪れそんな史跡や遺跡を見て回ったのは、 40年ほど後になってからの事であった。だが、フィリピンでの最後の旅程においてマゼラン終焉の地マクタン島にごく短時間でも身を 置くことができたことは、後々の「大航海時代」の歴史への興味につながった。

  さて、コロンブスが1492年からインディアスやジパング(日本)を目指して4回の探検航海を行ないながらも、結局は現在のカリブ海を右往左往 するばかりとなってしまった。他方、バルボアが1513年にパナマ地峡を横断し、「南の海」(マゼランは後に太平洋と名付ける) を視認した。その後、マゼランが、艦隊を率いて大西洋を西航し、その「南の海」へ抜ける通路を求め、かつ香辛料諸島へのルートを 辿ろうと、スペインから出航したのは、1519年のことである。先ず、現在のウルグアイのラ・プラタ川河口近くに辿り着き、その地を 「モンテビデオ」(現在のウルグアイの首都)と名付けた。マゼランはそこから探検調査隊を派遣したが、結局それは「南の海」 へ通じる通路ではないこと、即ちどこまで遡上しても淡水の大河であることを確認した後、陸沿いにさらに南下した。

  マゼラン艦隊は止む無くパタゴニアのサンフリアンで越冬する他なくなった。翌年に再び航海に出たマゼランは、ついに、 後に「百万感謝する岬」と名付けた岬を発見した。西方へ奥深く続いている現在のマゼラン海峡への入り口を発見した。 幾多の苦難の海峡帆走の末、広々とした大洋に出た。彼が後に太平洋と名付けた海であった。その海が後世になって「南の海」である ことが明らかとなった。

  艦隊はその後暫く陸沿いに大洋を北上した後、北西へと進路を取った。後に分かることであるが、大洋上に散らばる幾つもの島嶼 に何一つぶち当たることなく、大洋を横断することになった。彼が辿った航程線は実に稀有なものであった。彼は大洋横断後マリアナ諸島  (現在のグアム島とされる) を視認し上陸した。そして、さらにフィリピン諸島のマクタン島に上陸を果たした。だがしかし、 マクタン島にてラプラプ酋長率いる原住民との間で戦闘を交え負傷するにいたった。マゼランはそれがもとで、その地で1521年4月 に永眠するにいたった。

  セブ市街中心地の一角にはマゼランゆかりの十字架の遺構がある。また、その近くには、スペインの征服者がフィリピンで初めて 築し、その後は築造が重ねられてきた、「サンティアゴ要塞」の遺構が遺されている。また、マニラ近くの海域で発掘された、マニラ とアカプルコの間を行き来した、いわゆる「マニラ・ガレオン船」の海底沈船の遺物などが、マニラの国立博物館に展示されている。 出張当時、それらの遺構などは全く知らなかった。それらを訪れ知り得たのは40年も後の旅においてであった。

  ところで、マゼランが他界した後、旗艦のビクトリア号の指揮を執ったエルカーノらは、1521年5月セブ島を出帆し、翌年9月 スペインへ帰還した。乗組員のピガフェッタが記し続けた日記上の月日が、スペインでの実際の日付よりも一日進んでいたことで、 地球が丸いこと、さらに地球を周回したことが初めて実証された。人類が史上初めて地球周回の実体験をしたのは、今からわずか 500年ほど前のことである。

  余談だが、帰国時マニラ空港のチェックイン・カウンターで荷物の超過料金300ドルほど請求された。3ヶ国も回ると収集資料が徐々に 増えて重たくなる。資料を日本に送付するための資料購送費という名目の公金ももっていた。それ故に、エキセス料金をそれで 支払えば事足りると何の心配もしなかった。だが、口が滑ってしまい、料金の値引きを願い出た。値切って200ドルにしてもらった。 係員は「OK」と少しだけうなずいた。で、ボーディングパスを渡しながら、係員は周囲に気を配りつつ50ドルの袖の下を要求した。 私はうなずいて分からぬように支払った。その直後、領収書をもらえないことにはたと気付いた。私金を払って 公金をディスカウントしてもらったことになった。最初から300ドルを公金で払っておけば済んだものが、後の祭りであった。 失敗の経験値を一つ上げることができた。それだけがプラスであった。

  ところで、出張の過程で、海洋の自然再生可能エネルギー利用開発に関心を高めて行った。海にはどんな再生可能エネルギーがあり、 そのポテンシャルや原理について、またどこで研究開発され、その技術開発の可能性や実用化の現況について、もっと学んでみよう と意欲が湧いた。世界有数の大海流・黒潮の海流発電はどの程度実現性があるのか。有明海での潮汐発電は採算性はどうか。離島での 温度差発電の研究開発の行方はどうであろうか。世界や日本での海洋エネルギーの利用開発について触発され、書物を読み解き学んでみる 意欲を一気に高めさせてくれた。地熱エネルギーとの関わり合いのお陰であった。実際、韓国西海岸に建設された潮力発電所を 見学するため、隣国まで足を伸ばすほどに熱を入れるところまで、その関心は「成長」した。だが、見学が実現したのはそれから 40年ほど後のことになってしまった。

  かくして、3ヶ国を回り、地熱エネルギー開発の現場を踏査し、帰国研修員と幾多の懇談を重ねながら、その開発現況を垣間見た。 彼らの活躍振りを通して、日本の技術協力が「国づくり人づくり」に幾ばくかの役に立っていることを間近に知ることができた。 また、異国におけるさまざまな社会事情、歴史、文化や価値観の違いなどを肌で感じ、たくさん学ぶことができた。一担当者が 関われる研修コースの数には限りがあるが、研修員の学びに役に立てるよう、また友好を深めることができるよう、これからも最善を 尽くそうという決意を新たに帰国の途に就くことができた。また、私的には、異国の歴史的な出来事と海との接点や繋がりに焦点を 当てながら、さらに学び続けて行こうとの思いを深くした。3ヶ国では多くの歴史・文化的場所や史跡などに触れたり、通りすがりに垣間 見ることができたりして、公私ともども忘れえぬ価値ある経験となった。また、経験値を高め「知的財産」を得る出張となった。

  最後に、研事部での3年間の奉職を総覧すれば、給料と年2回のボーナスをいただきながら、そして日本にいながらにして大勢の研修員と 異文化とに向き合い、研修事業と言う仕事を通じて技術協力・国際協力の一端を担いながら、友好親善にも寄与することが できた。国際社会への社会的貢献という意味では、国連における奉職使命に相通じるところがあった。また、 多少なりとも海との関わり合いをもつ研修コースを担うこともでき、それはそれで大いに幸運であった。海からの遠ざかりは最小限に 抑えられ、疎遠化の心配は杞憂に終わった。その上、人生のよき伴侶とも連れ添う機会をえることができ、感謝するに余りある有り 難い職場となった。そして、研事部で記念すべき社会人生活の第一歩を印す、素晴らしい職場となった。



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    第6章 JICAにて国際協力の第一歩を踏み出す
      第1節: 研修事業による人づくりと心の触れ合い
      第2節: 研修事業が海と連環することを知り、鼓舞される
      第3節: 初めての海外出張に学ぶ(エジプト、トルコ、フィリピン)
      第4節: 英語版「海洋開発と海洋法ニュースレター」を創刊する
      第5節: 「海洋法研究所」の創設に向けて走り出す

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