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    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第5節: カリブ海での沿岸水産資源調査やパラオでのカツオ操業の採算性実証に取り組む


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    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
      第1節: 担当プロジェクトを総覧する
      第2節: 担当はインドネシアの漁港案件から始まった
      第3節: チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ
      第4節: ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する
      第5節: カリブ海での沿岸水産資源調査やパラオでのカツオ操業の採算性実証に取り組む
      第6節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その一)
      第7節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その二)/技術協力と無償協力との合わせ技
      第8節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その三)/最終合意に乾杯する
      第9節: アルゼンチンへ赴任する

    第1章 | 第2章 | 第3章 | 第4章 | 第5章



  水産室勤務時代のこと、イスラム諸国への協力案件ばかりを担当すると、他の地域の異文化や人々と向き合う機会が少なくなり、 国際理解が偏ったものになるのではと、独りよがりな解釈の下に懸念していた。日頃からそんな思いが心底に沈積していたのであろう。 中南米地域のプロジェクトも担当したくて、「誰か、プロジェクトを交換してくれませんか」と、先輩職員にバーター取引を求める 「独り言」を吐露した。1982年中頃のことであった。それは冗談というよりも、本気度のほうが勝っていた独り言であった。 かくして、譲ってもらったプロジェクトの一つが、中米ホンジュラスでの沿岸水産資源調査案件であった。 JICAに奉職して初めて太平洋を越えて、中米に業務出張できると喜んだ。それにまた、生まれて初めてカリブ海に面する海辺に立つことが できると喜んだ。とはいえ、太平洋越えもカリブ海のことを持ち出すことなど、恥ずかしくて人には言えなかった。だが、私的には、 心の幸福度も仕事への士気も大いに盛り上がった。先ずその資源調査のことに触れたい。

  ホンジュラスでの「カリブ海沿岸水産資源開発調査プロジェクト」は、水産室でも珍しいプロジェクトであった。自身にとっても これまで担当経験のないものであった。首都テグシガルパ北西の、カリブ海にほど近いところに、サンペドロ・スーラという 同国第二の都市がある。そこから北50kmほどの地にプエルト・コルテスというカリブ海に面する 大きな港町がある。そこに沿岸の水産資源調査を行なうための拠点が設営されていた。私は当該案件の「作業監理調査団」の一員として、 資源調査の現況や課題を調査し、その円滑な実施を促進するというミッションをもって現地へ赴いた。1983年2月初めの頃で、日本では 真冬であったが、亜熱帯地域に属する現地は暖かくて快適であった。

  水産資源調査の地理的範囲は、プエルト・コルテスから100km余り東方にあるカリブ海沿岸の漁師町ラ・セイバと、もう少し東にある トルヒーヨという漁村までの間にある地先水域であった。数10トンの新造小型調査船を日本から持ち込んだ。だが、専門家から後に聞いた 話によると、プエルト・コルテス港で貨物船から陸揚げ中に、事もあろうに落下の憂き目に遭い海中に没してしまったという。 保険求償がなされ、再び船が送り込まれたため、調査はかなり遅れて着手された。魚探、測深器、その他引き網、刺し網 などの漁具をフル装備していた。プエルト・コルテスを拠点にして、沿岸水産資源の賦存状況全般、特に商業的開発 の可能性がある有望な浮き魚類とその推定量などを定量的・定性的に探るために、一定間隔で曳網を縦横に引き回しながら、 試験操業に取り組んだ。

  二年近くにわたる当該調査の結果、やはりサメ類が圧倒的な優越種であった。それ以外のハタ、スズキなどの市場性の高い魚類や カツオ・マグロの高度回遊性魚類の漁獲は少なかった。ロブスターやエビなどの商業価値の髙い甲殻類などについては、 調査の対象外であった。甲殻類は米国系大資本などの独占的漁獲の対象としていたからである。調査結果としては、一般漁民の期待に 応えることができず、多獲性魚種としてはサメ類くらいなものであった。練り製品の原料やフィレの干物にできる可能性はあった。 だが、その集中的な漁獲によって乱獲を招きかねないリスクもあり、それを強く推奨することは抑制的にならざるをえなかった。

  調査結果は帰国後、JICAの名前で正式に報告書に取りまとめ、スペイン語に翻訳した。そして、ホンジュラスの水産局長を日本に 招聘し、レポート内容を説明した。また、調査過程で生まれた副産物としての、ラセイバとトルヒーリョにかけてのかなり詳細な深浅図  (主に内水・領海内の海底地形図) を、生の水深データと共に、同国の貴重な国家財産として直接引き渡した。

  余談であるが、ホンジュラスの東側にて国境を接する国はニカラグアである。1979年にサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)という反政府 勢力が勝利し、革命政権が成立した。当時政権を率いていたのがダニエル・オルテガ大統領であった。 これに対し、親米路線の「コントラ・グループ」と称される反政府軍(事実上、傭兵からなる民兵組織・ミリシアで、通称 「コントラ」といわれた)が、解放戦線政権軍と激しく対峙し、国内でゲリラ戦を繰り広げていた。米国はコントラを支持する 立場を取っていた。コントラ軍はニカラグア・ホンジュラス国境地域に身をひそめたり、時にホンジュラス側へ越境することで、 コントラ軍自身の安全を確保していた。そして、コントラを支援する立場から、米国はホンジュラスに軍事顧問団などを駐留させて いたそんな時代に、調査団は同国に足を踏み入れた。我々が投宿したサンペドロ・スーラの民間ホテルには、そんな米国顧問団が 滞在していた。

  その後、1988年3月になって、サンディニスタ解放戦線政権軍とコントラ軍は、コスタリカの仲介による「和平協定」の成立によって、 停戦合意するに至り、政権軍の縮小やコントラ軍の武装解除となり、長年の内戦に終止符が打たれるに至った。 1990年2月には、国際監視の下で国政選挙が実施された。リベラル派の野党連合を率いるビオレータ・チャモロが、ダニエル・オルテガ が率いるサンディニスタ解放戦線政権側を破って、大統領に就任することになった。オルテガ大統領らの政権指導者は下野し、 チャモロが親米のリベラル派政権を担った。

  10年以上もリベラル派政権時代が続いたが、時の国政選挙で、サンディニスタ解放戦線率いるダニエル・オルテガが再び政権に 返り咲くことになった。2007年にニカラグアに赴任した当時は、オルテガ大統領が政権の座に返り咲いたばかりであった。その後2年間の 赴任中に、中央省庁や警察などの大臣・長官・局長・課長クラスは勿論のこと、一般官吏に至るまで、それまでのリベラル派官吏から、 サンディニスタ戦線所属の官吏へと、見事なまでも取って代わられた。

  さて、プエルト・コルテスから首都への帰途、その西方10kmにあるオモアというカリブ海沿岸の村に遺されたスペイン植民地統治 時代の遺蹟「サン・フェルナンド要塞」に立ち寄ることができた。スペインが新大陸に築き遺した要塞に初めて足を踏み入れる 機会となった。小さな歴史的遺構ではあったが、征服者コンキスタドールの痕跡を目の当たりにして、暫し感慨に耽った。その後南下したが、 通りすがりにグアテマラとの国境に近い「コパン・ルイナス」というマヤ文明の遺跡に立ち寄った。ここで生まれて初めて、かつては ジャングルに埋もれていたマヤ遺構に触れた。要塞はスペイン征服者自身の遺構であり、コパン遺蹟は最後にはスペインの支配下に 置かれた旧文明遺構である。

  首都テグシガルパに戻った後、台湾が協力する水産養殖プロジェクトを視察するため、今度は60kmほど南下した。サン・ロレンソ という、メキシコからパナマまで中米地峡を縦断する国際幹線道路パン・アメリカン・ハイウェイ沿いにある村へ赴いた。 プロジェクトはその村から少し南の、フォンセカ湾最奥の岸沿いにあった。フォンセカ湾は奥行きのある大きな湾で、エルサルバドル、 ホンジュラス、ニカラグアの三ヶ国が湾に面し、3本の国境線で分割される「国際的な」内水である。25年後にその湾口に突き出た小半島 にあるニカラグアの漁村ポトシから、フォンセカ湾をはさんで最奥に位置するサン・ロレンソ当たりの背後に連なる山々をはるか遠くに 臨むことになるとは、思いもしなかった。 、

  ホンジュラスのプロジェクトのバーター取り引きの他に、もう一人の先輩職員が譲ってくれたプロジェクトが南米アルゼンチンの 国立漁業学校プロジェクトであった。アルゼンチン人はプライドがひと際高く、この案件の成立に漕ぎ着けるのは難しい、との一言と 共に、ファイルを受け取った。そのプロジェクトとの関わりが私の人生の運命を大きく変えることになろうとは、人生とは本当に分からない ものである。元を正せば、たった一言の吐露がもたらしたことであった。その後の運命のいたずらを感謝の念をもって今でも思い 起こすことがある。第三の素晴らしい青春時代をもたらしてくれたプロジェクトでもあった。そのエピソードは次の節に譲ることにしたい。

  休題閑話。もう一つの変わり種であった水産プロジェクトに触れたい。日本政府の戦時賠償の一環として、カツオ一本釣り漁船 がパラオに供与された。そして、パラオ人だけであっても、そのカツオ漁船による操業で商業的採算性をとることができるのか、 それを実証するよう求められた。プロジェクトサイトは西太平洋のミクロネシア地域にあるパラオの首都コロールであった(現首都は バベルダオブ島にある)。

  かつて日本は、国際連盟から、パラオを含むミクロネシア(南洋群島)の委任統治が認められていた。1922年には同群島全体を 管轄する南洋庁本庁がコロールに設置されていた。第二次大戦における日本の敗戦によって、1947年に国連信託統治領として、 米国の管理下に置かれた。1981年になって、パラオ共和国自治政府が発足し、その後紆余曲折の歴史を経て、1994年10月に国連信託 統治を終了し、パラオ共和国として独立した。現地訪問した1980年11月当時は、パラオ自治政府は、米国といかなる関係をもちながら 独立するか、政治的に大揺れであった。そんな中、いずれ独立国になる予定のパラオに対して、日本政府は、戦時賠償の意味合いを もつ経済支援として、カツオ一本釣り漁船を無償供与した。

  ところで、「カツオ一本釣り漁業開発プロジェクト」に関する合意文書を読んで一筋の緊張感が走った。カツオ操業の経験の 乏しいパラオの人々にとっては、漁船を使いこなしてカツオを魚槽一杯に捕獲し、地元の米国系缶詰会社などに卸して、 経済的収益を上げたり、操業の収支バランスをとることは、なかなか至難の業であった。そこで、日本に対して、カツオ操業における 商業的レベルでの採算性を実証するよう求められた。JICAと取り交わした合意文書には、その目的のためにカツオ操業を指導する専門家 らを派遣し、それを実証するよう取り極められていた。「漁業開発」というプロジェクト名ではあるが、事実上「カツオ操業訓練」 を目途にするこのプロジェクトの担当を突如仰せつかった。これがイスラム文化圏以外の国で担当した初めての水産プロジェクトであった。

  プロジェクトリーダー、漁撈、機関の3名の長期専門家が指導に当たった。カツオ一本釣り操業には、生き餌としてカタクチイワシの稚魚 が不可欠であった。プロジェクトは、先ずその採捕と蓄養から始まった。カタクチイワシは極めて神経質な魚で、その稚魚の 採捕後すぐに漁船の狭い生け簀に入れたりすると、すぐに弱ってしまいたいていが死んでしまう。コロールから近い海洋性景勝地で あるロックアイランドの中の静穏海域に設置した生け簀で馴致させるために、暫く蓄養し興奮を抑え元気を付けさせる必要があった。

  長い大竿に釣り糸をセットし、その先に大きな鉤針をつけて、甲板の舷側に立ち、漁船の周囲に蝟集して飛び跳ねるカツオの 群れに鉤針を投下し、その瞬間には、鉤針に引っ掛けて甲板へ豪快に釣り上げる。カツオを逸散させないために、生きの良いカタクチ イワシを船内の生け簀からたも網ですくって撒く。さらに、船側から水のシャワーを海面に浴びせ、カタクチイワシの乱舞と融合させる。 それによってカツオを船の周りに蝟集させ続けながら釣り上げる。カツオ魚群を探索し発見し、鉤針でスピーディーに釣り上げるには、 かなりの熟練を要する。

  若いパラオ人乗組員を集め、操業における規律や協調性、一致団結性を担保するために、地元の酋長や長老らによる指導を得たり、威厳を 借りることも時に必要になる。操業のノウハウを修得してもらうだけでなく、狭い船上での社会生活を営む上で心得るべきいろいろな 約束事がある。日本人とは社会文化的な価値観が異なる人々に、船上での決まり、生活習慣を習得してもらうには、それなりの根気のいる ことである。若いパラオ青年の給与が時を経ずにビールの泡に消えてしまうこともあるという。 パラオ人乗組員が船上でワンチームとなって、ベクトルをシンクロナイズさせることが肝要でもあった。

  幾多の社会、文化、運営上のハードルを乗り越え、パラオ人乗組員に熟練度を上げてもらうというプロジェクトのミッションは シンプルで明白ではあるが、専門家にとっても、その達成は真剣勝負の闘いであった。単に操業の訓練するだけならともかく、 パラオ人乗組員だけでその商業的収支バランスをとりうることを実証できる月平均漁獲量を上げるには相当の労苦が付きまとった。

  水産庁の遠洋水産研究所の遠洋資源室長を団長とし、カツオ漁業のベテラン民間団員を含む計画打ち合わせ調査団は、 パラオのコロールからの帰途、当時サイパンにあった自治政府の水産局に立ち寄り、操業訓練の現況や課題、今後の見通しなどを報告した。同じく、在グアムのアガナの 日本総領事館にも、同様の報告を行なった。1980年11月上旬の頃であった。JICAの数多の技術協力プロジェクトのなかでも、「商業的採算性を実証するために 技術協力を行なう」というプロジェクトは、間違いなくこれが唯一のもの、例外中の例外のものであったに違いない。

  日本人専門家の直接的な指導の下で実証することに成功することができたが、その後、パラオ人自身の手でどのようにカツオ操業 を続け、どんな収支バランスをもって漁業経営をしてきたであろうか。特に漁船のエンジンの良好な保守点検、修理、時にオーバー ホールを行ない、機関を長持ちさせることは、操業や経営の要である。その後の歩みについては、まともなフォローアップせず、 心残りとなってきた。

  パラオ共和国の200海里排他的経済水域(EEZ)へ外国漁船の入漁を呼び込み、相当の外貨収入を得てきたかのであろうか。 外国カツオ漁船からの自国EEZへの入漁料の徴取によって、国庫財政をかなり潤してきたのであろうか。それとも、自らのカツオ操業も さらに伸長してきたのか。あるいは、パラオ人の青年は、キリバスの青年のように外国船籍のカツオ漁船に乗り込み、雇用機会と外貨 収入の増進図って今日に至っているのであろうか。

  200EEZ時代になって、パラオにおいても、自国民が自ら捕獲しなくとも、他国にカツオやマグロ操業を許可することで、 国家収入を稼ぎ、海からの恩恵を受けることが可能である時代になった。国連海洋法条約がそれを保障ししてきた。 カツオ・マグロなどの高度回遊性魚種の水産資源が乏しければ、その恩恵は少なくなろう。だが、もはや先進漁業国による独占的な 資源利用や乱獲を懸念することはなくなった。これまでの「公海漁業の自由」のルールはかなり制限的なものとなり、事実上過去の ものとなった。今となっては、国際ルール変更によってもたらされたそんな現実を観ることができる。海洋法の学徒を続ける一市民 としては、感慨深いものがある。

  さて、パラオから帰国後、譲り受けたもう一つのアルゼンチンのプロジェクトと真剣に向き合った。まずはアルゼンチンの プロジェクト関係者に日本の水産業や漁業教育の現状を理解してもらうため、日本に招請することから始めた。



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