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    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第7節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その二)/技術協力と無償協力との 合わせ技


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    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
      第1節: 担当プロジェクトを総覧する
      第2節: 担当はインドネシアの漁港案件から始まった
      第3節: チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ
      第4節: ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する
      第5節: カリブ海での沿岸水産資源調査やパラオでのカツオ操業の採算性実証に取り組む
      第6節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その一)
      第7節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その二)/技術協力と無償協力との合わせ技
      第8節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その三)/最終合意に乾杯する
      第9節: アルゼンチンへ赴任する

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  ブエノスアイレスでの第1回目のオルティス校長との協議で最大の懸案であったのが、技術協力プロジェクトの協力期間であった。 当初はプロジェクトの実施などは一切不要というニュアンスであった。無償資金協力によって供される新規施設や実習機材は 自力で使いこなせるとの立場であり、事実上技協プロジェクトなど頭の片隅にもなかった。だが、いろいろ交渉の末、無償協力 と技術協力とを切り離せば、彼らが最も欲する無償資金そのものが供されなくなることだけは理解し、何らかの技術協力を受け 入れるとの姿勢へと、交渉の最後の段階に転換した。だがしかし、海軍内部で対応を検討sたのであろう。校長は2,3ヶ月もあれば 十分使いこなせるであろうから、プロジェクトはその程度の期間にしたいとの見解を表明した。日本との隔たりは大きかった。 譲歩はごくわずかであった。英国と正面切ってフォークランド諸島を巡って戦争し、結果ひどくプライドが傷つく中でも、 「ア」国海軍のプライドはさすがに高く保持されていた。

  再び一策を講じることになった。今度はジャベドニー副校長と漁具漁法担当のマキ教授を招聘し、先の校長らの招聘時と同じように、 東京水産大学、水産大学校、水産高校、民間の漁網製造会社や船員養成学校、JICAの水産研修センターなどの水産教育施設や実習機材を 案内し、日本の水産教育の現状やレベルなどを理解してもらうことになった。プロジェクトに対する理解を深めてもらうこと、特にその 協力期間として少なくとも数か年、またはもっと長い期間へ翻意してくれることを願って、「日本の水産教育事情のインプットに よる洗脳作戦」をさらに実践することになった。

  だがしかし、滞在期間中押しつけがましいことは何一つ二人に説明しなかった。勿論、副校長へ協力期間のことについて 話を持ち掛けることは一切しなかった。視察途上において、重たいテーマでもって頭を悩ませてもらいたくなかったし、また副校長は それを協議する立場にもなかった。彼と交渉して、結果的に後ろ向きの私見を胸に秘めて離日してもらうようでは、元も子もなかった。オルティス校長は退役大佐で あり、副校長は年上ながらも退役中佐であった。海軍内では上官命令や指示には絶対服従の立場であったであろうから、副校長が帰国後 校長に向かって協力期間の大幅延長を促すことになっては、校長の立場とプライドが傷ついてしまうかも知れないと懸念したからである。 交渉はオルティスだけと考えていた。

  副校長ら二人が離日した後、協力期間にまつわる難題を次回の協議においてどう乗り越えようかと思案していた頃、無償資金協力 調査部から「ア」国への出張依頼が舞い込んだ。技術協力と同時並行的に進められるはずの無償資金協力による漁業学校の新校舎 建設と実習機材供与に関する「基本設計調査」に、業務調整団員として参加するよう依頼された。かくして、再び地球の裏側 に出向くことになった。1983年7月下旬のことで、「ア」国では南極から寒風が吹きすさぶ厳冬季であった。

  団員構成としては、外務省国際協力局無償基金協力課の本件担当者(海外経済協力基金・OECFからの出向者)を団長に、水産 大学校の深田耕一助教授、施設設計担当のコンサルタント会社であるOCS設計の技術者ら、漁業実習用機材の設計を担当する日本水産の 技術者ら、総勢8名ほどの大所帯であった。OCS設計・日水共同事業体が、調達部で実施された一般競争入札の結果選定されたものであった。

  調査団の使命そのものは単純明快であった。「ア」側に、無償資金協力に関する制度全般、諸手続き、工程、その他実施に当たって 「ア」側が履行すべき重要な義務(例えば、所得税、輸入税、付加価値税の免除)などを説明し理解を得ることが、その一つであった。 もう一つは、漁業学校の諸施設・実習機材の内容や規模・数量などを検討・設計するに当たって遵守すべき「ア」国の建築関連法令、 船舶海技資格を付与するに当たって履修されるべき単元などを定める諸規則の資料などを収集することである。また、建設費を積算 するための工賃・材料費などの積算基礎データ、サブコントラクター(下請け会社)となる現地建築会社に関する情報などを収集する ことであった。

  無償資金協力に関するスキームは大変複雑であった。プロセスを大まかに述べると、基本設計の現地調査を終了後、 コンサルタントは基本設計調査報告書のドラフトをJICAへ提出し、その審査を受ける。コンサルタントはそれをもって「ア」側に説明し、 設計内容につき了解を取り付ける。その後、正式の報告書が、積算書と共にJICAに提出される。JICAは施設と機材の設計と積算につき 技術審査を行なった後、外務省に正式に提出する。外務省は、それに基づいて閣議に諮り公式に資金援助を決定する。その後、外交 ルートで口上書(Exchange of Note, 略称EN)が取り交わされ、正式に資金援助が約束される。援助は実行段階へと移行する。

  その後、JICAは、この学校建設の施行監理を行なうコンサルタントとして同共同企業体を「ア」側に推薦し、海軍はそれとコンサルティング契約を結ぶ。海軍の代理人となったコンサルタントは、詳細設計、入札図書一式などを作成し、入札を補助 する。無償資金協力は日本企業タイドであるので、結果日本の建設会社が工事を請け負うことになる。海軍と建設会社との工事契約締結後、 建設工事が始まる。約一年後に竣工し、全てが施主である海軍に引き渡される。コンサルタントはその引き渡しまで 海軍の代理人として施行監理業務をこなす。その後一年間は瑕疵担保保証期間となる。

  建設費はコンサルタントと施主の了解の下、3回ほどに分割して支払われる。日本から供与された無償資金の支払い手続き における書類の多さとその流れは極めて複雑である。被援助国が資金を不正に流用できないようなシステムになっている。資金提供を受けた海軍 は、一切現金を見ることも触れることもないシステムになっている。日本のコンサルタントや建設会社とその関係者に対する 特権付与と所得税免除、建設資材などに対する付加価値税(IVA)の免除などにつき、各契約書に取り極められる。スキームのことは この程度にして次に移りたい。なお、建設が完工するまでのいつの時点においても、無償資金が「ア」海軍の銀行口座に 滞留することはない、ということを「ア」側関係者に信じてもらうことは困難であったことであろう。

  ところで、無償資金協力にも当然予算的制約があるので、基本設計の対象とする施設や機材の内容、規模、数量などを絞り込ま ねばならない。妥当性を説明できる根拠と予算限度の大まかな目安とを両天秤に掛けながら、両国の関係者が真剣に協議を重ねて行った。 漁船には一般商船にはない構造や装備、その特有の機能があるので、漁業学校ではそれらに合わせて漁労などの実習を行なうための 特別の施設・機材の配置が必要不可欠となる。

  先ず、管理棟の施設内容につき協議を始めた。幹部の執務用施設として供される校長室や副校長室とその室内面積などが検討された。 教科用のいろいろなテキストや関係資料を印刷したり、また学生募集・登録や入寮手続きなどの学務を担う総務室とその規模。 会計事務を担う会計室。図書室を兼ねる教授や来校者らのための控室。沿岸・近海・遠洋漁船ごとの航海部職員と機関部職員に 対して、海技免許別に、座学を講義するために必要となる教室とその数量や規模。教室内に収められる机・椅子、黒板、教壇などの 装備品や天井照明器具の照度や数量などが打ち合わされた。

  「1978年船員の訓練及び資格証明並びに当直の基準に関する条約」、通称「STCW条約」という国際条約があり、アルゼンチン は加盟国であった。それによれば、電子海図と連動した操船シュミレーションを行なうコンピューターシステムを装備することが 義務付けられていた。学生は、室内において、レーダーを覗き、 他船の位置や動きを見ながら、また潮流や風向・風力などの自然条件を 加味しながら、舵輪を握り、さらにエンジンテレグラフを操作して機関の回転数を調節しながら、実際に艦橋で操船しているかのように 船舶操縦の訓練を行なうことができる。

  航海術指導教授は、電子海図モニター上に、幾つもの船舶の航行状況と海洋自然環境について設定し、学生に「自船」を操縦 訓練させる。モニター上のデジタル海図には、学生が操縦する「自船」や他船の進行方向や速度、潮流の強度と方向、風向・風力などの 海象・気象条件、航行障害物、各種航路標識、灯台などを思い通りに再現することができる。操舵員としての学生は、レーダーに映る 他船の動きなどを見ながら、舵輪を回し、ラダーを動かし機関のスピードを調節しながら、自船を操縦しながら、例えば海峡や港内を 進んだりできる。他方、教授は、モニタ上の電子海図を見ながら、操船の適格性を判断する。この操船シュミレーション装置は、 航海・運用術実習室の最重要機材である。その他、舵輪・ラダーの構造模型、 各種船体構造模型なども供与される。

  実物の大型漁具の製作・補修などを行なう漁具漁法実習室はもう一つの重要な教育施設である。そこには、オッターボード付き トロール網の小型模型を、水が回流するタンク内にセットし、網口の開口状況や曳網の水平・垂直位置(表・中・底層)などを理解するための 実験装置も備え付けられる計画である。漁獲物処理実習室はもう一つの重要施設であった。魚のヘッドをカットし三枚におろす フィレ製造の機械装置である「バーダーマシン」や魚の温燻製を製造する装置、小型冷凍機、その他魚貝類を解剖したりする 調理台などが備えられる。

  小型とはいえ漁業訓練船は漁業学校として必要不可欠の装備品であった。操業訓練の内容や実習対象人数などから割り出される船舶のトン数、 主要目、装備品などが協議された。また、殆どの学生は、マル・デル・プラタより南のパタゴニア地方などの出身者ではあったので、 過去の学生出身データを参考にしながら、寄宿舎での部屋・ベッド・机・椅子の数量などが見積もられた。また、各部屋の面積や標準 装備につき、法令や他の学校の参考例を基に見積もられた。 その他、入寮生徒数に合わせて、食堂と厨房施設の規模やテーブル・椅子、什器類、料理器具、その他供用洗濯機・乾燥機などの 数量も見積もられた。

  教職員と全校生らを対象にした学校行事、セミナーや映写会などを行なう講堂についても、その面積や舞台の構造・装備などが 検討された。特に注目を引いたのは、視聴覚教材の製作・保管のための部屋と映写機設置スペースなどの配備であった。単にテキスト による座学だけでなく、多種多様な視聴覚教材を自ら制作し、それを用いて講義を行い、教育レベルの向上をめざすことも計画された。校長らが視察した水産 大学校での漁具漁法ビデオテープ映像、スライド画像などによる「前田博士教授法」を取り入れようというものであった。製作を 担当する専任技師が配置される計画である。製作に必要な機器なども水産教育の向上には欠かせない重要機材であった。

  救難救急演習室なるものも検討された。膨張式救命筏一式、ライフジャケットやサバイバルキット、退船訓練用 縄梯子、人工呼吸・心臓マッサージ訓練用人体模型、人体の器官配置模型などの救助と救命・応急処置関連の各種器具、防災・消火訓練 に供される器具などが揃えられることになった。膨張式救命筏による実際的な投下訓練や遭難者の救助訓練を行なうための 縦横25×15メートルほどのプールの設置が要望されたが、費用対効果の観点から優先順位は低く抑えられ、事実上見送られた。

  エンジン(主機や補機)などの機械系統機材の他、発電機や電気配電・制御コンソールなどの電気系統機材は、機関長や機関部員の 養成には必需の実習訓練機材であり、それらを収める機械と電気の2つの実習室が計画された。機械室ではエンジンや発電機などの分解 ・組み立ての実習もできるよう、本格的な天井垂下式かつ水平移動式のウインチ装置も設置される計画である。

  ところで、1982年当時には国連海洋法条約が採択され、それ以来各国に批准が求められて間もない頃であった。既に国際社会は 200海里経済水域(EEZ)時代へと突入していた。アルゼンチンも、自国沖合に広がる世界でも稀有な広大な大陸棚上部水域に200海里 EEZを設定し、外国漁船をどうフェーズアウトするのかしないのか、思案に入る時期でもあった。日本の大手水産会社は、 合弁事業にしろ単独事業にしろ、そのEEZ内での操業が今後どう認められるのか、その関心は高かった。 無償資金協力によって漁業権益確保を有利な方向に導けるという期待はあったにせよ、今回の無償援助の当事者は海軍であり、 農牧省の水産次官官房が当事者ではなかった。漁船海技資格は海軍管轄の漁業学校の所管であったから、それもやむ得なかったという ことである。

  さて、今回のミッションは基本設計ではあったが、オルティス校長に河合君を交えて、JICA事務所において内々に、懸案でった協力 期間につき膝詰談判を重ねた。前回は討議録のひな型を提示していたが、今回は一歩も二歩も踏み込んで、「ア」側との協議用に特別に 作成した討議録案そのものを校長に提示していた。漁業学校プロジェクトの目的、航海・漁具漁法・漁獲物処理の三分野での長期専門家の派遣の他に、視聴覚教材 製作や魚類同定のための資料作成、水産教育指導法などの分野の短期専門家派遣、教授らの日本での研修受け入れ枠、技術協力の遂行 上必要とされる追加的な資機材、両国政府の有する権利・義務、そして「協力期間」については「5年間とする」と記されていた。

     今回も、河合君はオルティス校長との公式の交渉でも、また非公式の意見交換やランチ・ミーティングでもずっと寄り添ってくれ、 私と校長との密度の濃いコミュニケーションの橋渡しをしてくれていた。河合君は前回からさらに校長とコミュニケーションを重ねていた ので、二人の気心も分かりあえていたこと、また校長の河合君に対する信頼はさらに増していたこともあり、私は彼を介して胸襟を 開き意見をぶつけることができた。他者の居る公式の場では口にはできないことも、可なり踏み込んで本音ベースの説明をする ことができた。

  無償協力と技術協力は一体てきであり不可分である、などと校長に抽象的に語りかけても、恐らく彼にはちんぷんかんぷんで あったことであろう。今回は可なり本音で語りかけた。平たく正直に言えば、新学校の施設と機材を供する無償協力は、 5年とは言わないが少なくとも長期専門家(派遣1年以上をいう)を派遣できる数年間の協力期間がなければ、無償協力は供されない。 これが無償協力の絶対的条件である。逆説に言えば、日本人専門家が漁業学校の水産教育レベル向上のために、「ア」側カウンターパート と協業し技術協力するには、どうしても学校施設と機材の革新的リニューアルが要る。協業と技術協力がないのであれば、国民所得 の高いアルゼンチンは自前の資金で施設と機材を手当てし、リニューアルすることで事足りるはずである。日本がそれらを供する 必要性も妥当性もない、というのが日本側の見解である。そこをもう一度海軍上層部に伝えてもらいたい。

  協力期間につき数ヶ月から少なくとも数年に翻意を促すために、校長へさらなる説明を続けた。 協力期間が長期間になれば、カウンターパートの教授やその他関係者の日本研修もそれだけ多く可能となり、毎年数名の枠が供される。 また、無償資金協力による機材とは別に、技協プロジェクト期間中、長・短期専門家が協業し技術指導する上で必要とされる資機材が 毎年供与されることにもなる。2,3ヶ月のプロジェクト期間ではそれらは実現不可能である。 実際的メリットを説明し、翻意を強く促した。

  オルティス校長は暫く協議の休憩を求めた。海軍上層部と相談するためであったのであろう。その後再開したところ、彼は期間を 2、3年とすることで大幅な歩み寄りを示してくれた。ついに3年という期間が視野に入って来た。 大きな譲歩であり、前進であった。無償資金協力だけの「美味いとこ取り」はできないことを、上層部はやっと呑み込んでくれたと 内心ほっとした。今回はこれをもち帰り、日本側はどう対応するのか、省庁に諮ることにした。今回は大いに希望をもって帰国できそうであった。 河合君の献身的橋渡しに感謝であった。

  ところで、プロジェクトの実施に際しては「日ア双方、英語でコミュニケーションを取ればよい」というのは表向きのことであった。 先の初出張で学んだことは、実際のところ、専門家とカウンターパートは、双方が英語に堪能でなければ十分な意思疎通を 図れないし、また専門家は技術指導の実効性を上げることは難しいということであった。さらにまた、日本人専門家にスペイン語能力が 相当なければ、技術指導や協業において実効的かつ円滑に進められないというのが、偽らざる気持であった。勿論、「ア」国での 社会生活を送る上でも語学力があることに越したことなない。

  1983年1月頃にホンジュラス案件で初めてスペイン語圏に出張し、中南米では一般的に英語が通じないこと、円滑な業務遂行には スペイン語能力が欠かせないことを目のあたりにして、語学を学ぶ必要性と気力に目覚めていた。実はそんなこともあろうと、語学研修に 関心を寄せ、JICA職員向けの語学研修コースのうちのスペイン語基礎コース研修(6か月、週二日)に、1982年半ば頃から参加する ようにしていた。

  アルゼンチンの初出張から帰国した段階で、さらにスペイン語学習の必要性に目覚め、その学習に一層関心を抱き始めていた。 と言っても、プロジェクトの成立の暁には自身が赴任することを意識してのことではなかった。たまたま、1983年の春から 半年間のスペイン語中級研修が始まることを知り、この機会を逃すまいと軽い気持ちで参加したもの であった。

  だが、2回目の「ア」国出張では、スペイン語能力の必要性をさらに切実に自覚し、スペイン語と真剣に向き合うことになった。 JICA語学研修の中級を無事修了した私は、その後上級コースの開設を待ち望んていた。スペイン語も時制と主語に応じて動詞の語尾 変化はやたらと多く、多くの学習者はここで四苦八苦し学びを諦めるといわれた。だが、途中で放り投げることなく、越すに越されぬ 難関を何とか乗り切れたようであった。

  その他、NHKラジオのスペイン語基礎講座を毎日聴くことを早い段階から始めていた。学習熱がさらに高まり、ウオークマンを買い込み、 磁気テープに講座を毎日録音をし、通勤の往き帰りに繰り返し聴くようにしてい。「ア」国出張時には片言ながらも日常会話で 使えるようになっていた。

  JICA研修とNHK講座聴講で学ぶうちに、スペイン語学習が面白くなり、前のめりになっていった。学ぶのであれば語学に徹底的に 向き合おうという意欲と覚悟の下に、JICA研修に参加した。そして、出席率も成績も先生に一目置かれるように熱心に参加することを 心掛けた。運よく開設された上級コースへとさらにチャレンジして行った。出張などの特別な事情がない限り、初級、中級、上級の 三コースとも、一日もずる休みせず、出席率100%を貫徹した。そして、「ア」漁業学校プロジェクトの形成ステージが進むにつれ、 語学向上への熱意もヒートアップしてきた。

  出席率もさることながら、各コースとも成績でもトップをめざした。アルゼンチンへの赴任を真剣に意識し、それを目指したのは、 ずっと後のことであった。具体的には、1983年11月に技協プロジェクトの討議録に署名がなされ、帰国途上にあった頃であった。 その時に初めて、今まで語学研修に真摯に取り組んできたことが人事部への最高のアピールになるのではないかと期待した。 次節に譲るが、その努力は決して無駄にはならず、また裏切りもしなかった。

  余談だが、基本設計調査のため現地に居残った民間コンサルタント団員を除き、調査団長、深田助教授と私はリオ・デ・ ジャネイロ経由で帰国した。生まれて初めてのリオに足を踏み入れた。コパカバーナ海岸近くの夜の街を少し散策したり、翌日には、 全くお上りさんになって、リオのシンボルである「コルコバードの丘」にケーブルカーで登った。そそり立つ岩山の先端に天に突き刺 すように建てられたキリスト像を仰ぎ見た。眼下には360度のパノラマが広がっていた。東には大西洋が広がり、コパカバーナや イパネマ海岸が南へと続く。眼下には釣鐘型のパン・デ・アスカルという岩山を臨む。正面北側には複雑に入り組む湾に沿って、 世界三大美港の一つと謳われる港とリオの市街が広がる。まるでコンドルになって天空を飛翔しながら、リオの絶景を俯瞰するかの ような錯覚に囚われた。

  青少年時代いつしか船乗りになった暁には、パナマ運河から南下し、アマゾン川の河口沖を経てリオの港に錨を降ろし、 時に上陸しブラジル文化や自然風景に浸って見たいと夢見ていた。12歳の青少年の頃からして何と20数年を経て、ようやく 「コルコバードの丘」に立つことができた。夢はついに実現した。積年の思いがこみ上げ、人知れず感涙であった。アルゼンチン との往復時には必ずブラジル最大の都市サンパウロを経由していたが、その外港であるコーヒー積出港サントスの土を一度も踏んで こなかった。何時かはそのもう一つの夢を叶えたいと、コルコバードの丘を後にした。

  さて、帰国後、ア首連・水産増養殖センター建設プロジェクトをフォローアップしながら、アルゼンチン・プロジェクトの 討議録案の作成に着手した。悩みは、3年の協力期間を5年にどうやって近づけるか、そのアイデアを模索していた。そして、恐らくは 私のように語学力の乏しい専門家のために、またJICA専門家稼業が初めてで、かつ専門的技術を教授する経験も初めての専門家のために、 いかなる仕組みをプロジェクトに組み込んでおけば、ワンチームとなって成果を収められるかということに悩んでいた。 兎に角、次回の出張では、プロジェクトの基本合意書である討議録の署名にもち込む責務が横たわっていた。

  最後に、もう一つの余談である。オルティス校長が訪日時、JICA水産研修センターで何故ステーキを一口も食しなかったかである。 それもやはり、プライドが関わっていたようである。校長に直接理由を尋ねたわけではない。アルゼンチンで何度もステーキ を食するにつれ、かつて抱いていた「謎」に対する答えを見い出したような気がした。「ア」でのステーキは半端ではなかった。 大きな炭火の周りに、1メートル以上はある鉄製串にあばら骨付きの巨大な肉塊を広げてじっくりと時間を掛けて脂身を落とし 焼き上げるアサードは豪快である。レストランで食する肉の塊250gは普通サイズであった。今回、肉が大好きという団長は、500gの 厚切りジャンボステーキを注文した。だが、彼はその3分の1ほど残してギブアップした。 水産研修センターで当時、校長に向かって「センター所長の特別の厚意だから食べて下さい」と二度三度執拗にビフテキを勧めなかった ことに、今回の出張中思い出しながら、内心では赤面しつつも胸を撫で下ろした。 「ア」国でのステーキのボリュームたるや、全く日本のそのの比ではないことを目の辺りにした。そのステーキを何度も食して、 オルティス校長の思いが初めて分かった気がした。「ア」国の水産教育のレベルは低いかもしれないが、肉料理では絶対負けない、 地下足袋の底のゴムのような薄っぺらいステーキを食することは、プライドが許さなかったのであろう。だが、当時もその後も、 彼は自国のステーキの凄さを自慢げに話題にすることは一切なかった。紳士であった。これが二人の信頼を傷つけなかった意味深長な 気遣いの一つであったかもしれない。



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