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    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第9節: アルゼンチンへ赴任する


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    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
      第1節: 担当プロジェクトを総覧する
      第2節: 担当はインドネシアの漁港案件から始まった
      第3節: チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ
      第4節: ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する
      第5節: カリブ海での沿岸水産資源調査やパラオでのカツオ操業の採算性実証に取り組む
      第6節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その一)
      第7節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その二)/技術協力と無償協力との合わせ技
      第8節: アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトに向き合う(その三)/最終合意に乾杯する
      第9節: アルゼンチンへ赴任する

    第1章 | 第2章 | 第3章 | 第4章 | 第5章



  署名済みの討議録のオリジナルを大事に抱えてアルゼンチンから帰国し、早速長期専門家5名の人選や 派遣手続きに向き合った。先ず、プロジェクトの「業務調整」の役目を担う専門家の人選であった。業務調整専門家については、 「自分が赴任しなくて誰が?」という思いであったし、自身の赴任こそがベストであると考えていた。 プロジェクト形成に真剣に取り組み、経緯を誰よりも熟知していた。それに「ア」関係者とそれなりの信頼関係を醸成してきた。 さらに、漁業訓練プロジェクトなどの運営経験も豊富に培ってきた。自分以上の適任者が他に誰がいるのかという思いであった。 実のところ、3回目の出張辺りから業務調整の任に就く専門家として「ア」国に赴任することを渇望し、その決意を固めていた。 人知れず「プロジェクトに自身が赴任せずして何とする」という強い思いに突き動かされていたのである。志願するなら、プロジェクトが 成立して間もない今をおいてないと考え、ついに志願の名乗りを挙げた。オルティス校長に大見栄を切った手前もあり、校長と共に プロジェクトのファーストステージでの成功を何としても見届けたかった。

  先ず、佐伯水産室長に率直に相談した。余談だが、室長は大のアルゼンチン・タンゴ好きで、特にアルゼンチン人で知らない人はいないほど 超有名なカルロス・ガルデルというタンゴ歌手の大ファンであった。2回目の出張の折には、お土産としてガルデルのほぼ全ての タンゴ曲を収めたラジカセ20巻ほど買ってプレゼントした。大変喜ばれた。お陰で、室長に赴任のことでも相談しやすかったことは 事実である。室長にゴマをすった訳ではない。室長が「独り言」を認めて課員同士の案件取り換えを認めてくれたお礼のつもりであった。

  プロジェクトの業務調整には、外部人材ではなく、JICA職員が派遣されるように人事課に掛け合って欲しいと、室長に願い出た。 私は本来そんなことをする柄ではなかったが、今回だけは違っていた。ここは天下分け目の「天王山」と思い、自身の壁を乗り越え 思い切って室長に掛け合ったという訳である。JICA人生で後にも先にも、人事異動について自ら上司に 願い出たのはこれが最初で最後であった。室長は快く承諾してくれ、人事課に内々につないでくれた。結果大成功であった。 室長から一枚の申請用紙を受け取った。そして、プロジェクトにJICA職員を業務調整のために送り込まねばならない必要性や妥当性など について、しっかり論述する文書を作成するようにと指示された。

  「ア」国の技術レベルの高さは漁業についても例外ではなく、またアルゼンチン人のプライドは南米人のうちでも想像以上に 高いものがあった。 それも海軍の退役将校で占められる漁業学校の関係者のプライドは飛び抜けて髙いものがあった。プロジェクト運営の難しさが予想される なかで、「ア」側と伍してプロジェクトを切り盛りして、技術指導の成果をあげ、ミッションを完遂するには、現地の社会事情のみ ならず、プロジェクトの交渉経緯などを熟知し、関係者と信頼関係を構築してきた、JICA内部の人材を派遣することが最善である などと論述した。今後漁業権益に関わる日ア政府間交渉を鑑みれば、両国漁業協力プロジェクトの良好な運営への期待には大きいもの があった。故に、外部人材ではなく、JICA職員自らがその任に就くことが最も相応しいと説明した。

     ありったけの思いつく理由を申請用紙に書き込み室長に急いで手渡し、すぐに人事課に提出してもらった。当該用紙の提出は、 余ほど問題がない限り、職員の派遣がポジティブに検討されること、さらに職員派遣が内諾されていることを示す、いわば証左でもあった。 さらに言えば、プロジェクトの樹立に携わってきた担当職員を現地へ送り出すことを「了」とすることを意味していた。

  かくして、「水産室職員 中内清文」を何月以降に業務調整員として「ア」国に派遣してよろしいか伺います、という決裁案を プロジェクト担当者である私自身が起案した。担当者が自身を派遣することを起案するのは何とも妙な感覚であった。 そして、職員の人事マターなので、人事課長にも合議する形にして関係部課へ回付した。数日後のこと、決裁文書が手元に戻って来た。 人事課長決裁欄には赤鉛筆で自筆署名がなされていた。嬉しさのあまり万歳して飛び跳ねたいほどに舞い上がってしまったが、そこを ぐっと押し殺して、喜びに身震いした。室長や先輩職員に報告した。嬉しさで体内の血が沸きたつような心境であった。

  帰宅後、真っ先に打ち明けたのも、また最も喜んでくれたのも妻であった。東京外大のスペイン語学科出身の妻は、JICAの嘱託として研事部 研修第三課に暫く勤めていた。だから南米諸国やラテンアメリカ文化にもそれなりの興味を抱いていた。「ア」国は南米諸国の中でも 生活をエンジョイできそうな国の筆頭格であった。私的には、スペイン語をかじったばかりなので、内心では妻の語学能力を80%以上 当てにしていた。プロジェクトで公式、非公式に通訳・翻訳が必要となれば、力になってくれるものと期待してしていた。 大船に乗ったつもりであった。室長も先輩らも、中内にはその奥の手があるから語学面での問題はないはずと思っていたようである。

  だがしかし、暫くして、妻が第二子を宿していることが明らかとなり、目算は目の前でガタガタと崩れ去ってしまった。 プロジェクト一年目は最も語学支援を当てにしたい時期であったが、そうはいかなくなってしまった。 一時期、私はひどく落ち込んでしまった。だが、気を取り戻してスペイン語の学習に今まで以上に必死に向き合わざるを得なくなった。

  時は少し遡るが、スペイン語の学びについてはホンジュラス出張時がきっかけであった。その後アルゼンチンへ初出張して、 スペイン語の向上心も高まって行った。JICA内で実施された語学研修の初級、さらに中級コースを終えてかなり時が経った頃、予算が確保 されたらしく、それまでなかった上級コースが開設された。真っ先に申し込んでクラス入りした。同じ受講するなら、単に 出席率100%だけでなく、語学成績もクラスでトップをマークして、人事課にその名を記録に留めておいてもらえるよう受講に励んだ。 実際にもトップをマークできた。

  初級コースを受講し始めた頃は、中南米への赴任願望とは関わりなく、語学研修に取り組む姿勢として、「出席まじめにして、 成績優秀」との評価を人事課にアピールしておくのも、何かの時のプラスになるかもしれないと思う程度であった。いわば一般的 向上心に少し毛が生える程度であった。しかし、「ア」国への出張回数が増すにつれて、心境が変わって行った。語学研修に真剣に打ち込む姿勢 をアピールし、「成績優秀」が伝わるよう意識的するようになっていた。今回の 赴任の人事承認も、恐らくはそんな姿勢や成績がポジティブに評価され、これまでの取り組みが報われたことを実感した。 憧れのタンゴの国アルゼンチン、「南米のパリ」ブエノスに赴任できるとは、夢のようであった。

  さて、航海・漁具漁法・漁獲物処理の3名の長期専門家の人選については室長や水産庁にお任せすることでよしとした。 専門家の人選は人脈豊富な室長に委ねられる事項であった。だが、自身が赴くプロジェクトの「リーダー」を担う専門家 について、いつもの慣例の如く丸投げとする訳にはいかないという思いがあった。リーダーと業務調整員(コーディネータ) とは自動車の両輪であり、両者の一枚岩的な連携と協力関係は、プロジェクトの成否に大きく影響する。チュニジアの漁業訓練センタープロジェクト の運営経験からも、そのことは痛感していた。その教訓の一つは、リーダーと業務調整員との間の信頼の深さ、さらに職責の良好な 分担態勢であった。そのことは他の専門家のもつ指導能力の発揮に大きく影響することになる。

  そこで、室長に人選を丸投げせず、調整員となる自身ができうればリーダーを推薦し、かつ人選に至るのがベストであると考えた。 私と一緒に赴任してもらえるリーダー候補者はいないか、模索を始めた。即座に思い浮かんだのは、 チュニジアに3度も団長として参団してもらい、信頼を寄せ、人柄や気心も知る森敬四郎氏であった。 当時JICA神奈川水産研修センターの所長の職位にあった。森氏にお願いしてもらえないか、室長に相談した。

  室長は真摯に耳を傾けてくれた。その後いつの間にか、チュニジア・プロジェクト運営やアルゼンチン・プロジェクト形成の 諸事情などを呑み込んだ上で、内々に人事課に相談に出向いてくれていたようであった。ある日突然、「森氏本人や水産庁、 人事課と内々に話した結果、森さんにリーダーを引き受けてもらえそうである」ことを知らされた。だがしかし、そんな明るい見通しでは あったが、一つだけ条件があった。

  当時、森氏は水産庁からJICA水産研修センターの所長として出向してまだ一年そこそこであった。任期はまだ2年ほど残されているという。 出向期間を少し短縮する特別な措置が取られるにしても、それには限度があった。出向のことで組合騒動にならないように配慮する必要も あったらしい。今後1年間は所長を勤め上げ、その後にプロジェクトへ赴任するのではどうか、ということであった。一年ほどの間 リーダー不在の状態となるが、それでもよしとするか否かが問われた。

  私的には、その条件を理解し即座に肯定的な返答をした。一年待った後に森氏を派遣してもらえるのであれば上出来であった。 森氏の派遣を今予定しておかなければ、この先どんなリーダーが選ばれ派遣されて来ることになるか全く分からない。それでは、面識のない未知数 のリーダーといきなり「結婚」するのようなもので、それではいつものリーダーと調整員の人選パターンと何ら変わらなかった。 チュニジア・プロジェクトにおける「二者間の信頼関係の重要性」の経験則を生かさずして、自身のプロジェクトの成功はない。 そう確信していたので、私は、リーダー不在のままでも、その間ベストを尽くして事に当たることに覚悟を決めた。 家族の渡航の遅れとリーダーのそれとの、二つの壁をどう乗り越えようかと、物心両面での準備を整え始めた。

  赴任は1984年の4月になった。私の赴任の志願が認められ、また森所長の赴任も実現される見通しとなり、JICAに人事上の大きな「借り」 を作ったことになった。私的には、当時「借り」を作ったという意識など全くなかった。だが、30年以上JICAで時を過ごすと、若い頃には 見えなかったことも、年の功で見えるようになるものであった。その後JICA人生の中で、人事の「借り」に対して高い利息を付けて 返すことになろうとは、当時には知らぬが仏であった。とはいえ、仮に将来代償の中身を知ったとしても、 志願の名乗りを上げず、赴任を諦めることなどありえなかったに違いない。

  さて、赴任に先だって、1980年1月から1984年3月までの水産室勤務での4年間についてざくっと総括的に振り返っておきたい。 独り言がきっかけで「ア」プロジェクトを担当し、南米との関わりを得た。何とラッキーであったことか。水産室での勤務は、 国連に海洋法担当法務官としての奉職を志願し、その間にポストの空席化を待つにはベストな立ち位置にあった。とはいえ、実際の 面接呼び出しはずっとなかった。

  実際のところとしては、国連志願のその後をフォローアップするどころでなかった。ア首連や「ア」国のプロジェクトの完遂がまず もって取り組むべき職務であった。4年間で、世界各地域でのタイプの異なる幾つものの水産プロジェクトを運営し、貴重なノウハウや教訓を 得ながら、国際協力の経験をした。さまざまなハードルを乗り越え、そのゴールに辿り着くことの難しさや真摯な取り組みの価値をも学んだ。 おしなべて見れば、海にまつわるキャリアを積み重ね、アップすることにつながった。申し分のない「国連ポスト待機職場」であった。 国連ポストの空席を焦ることなく、また家計も安定する中で待ち続けられたといえる。だがしかし、 国連ポストや志願の行方がどうなっているかは、この頃、全く気にかけなないほど、水産プロジェクト運営業務に邁進していた。 目の前の水産プロジェクトを遣り遂げ、よい成果を得ることが常に最日頃の最重要テーマであった。

  農林水産省、水産庁などの行政機関をはじめ、遠洋水産研究所や水産工学研究所などの水産研究機関、水産大学校、北海道大学 水産学部、海外漁業協力財団(OFCF)、水産資源開発調査センター、栽培漁業センターなどの水産関連公益法人、幾つかの民間水産会社 などと関わりをもち、それらの関係者らとの人脈づくりができたことは大きな財産となった。

  公私共々多忙を極めながらも、最も充実した人生の一時期であった。任意団体とはいえ非営利の「海洋法研究所」を創始し、 二足のわらじを履き、日本にまつわる海洋法制や政策、海洋開発動向などの英語・日本語版「海洋開発・海洋法ニュースレター」 づくりに取り組むこともできた。だが、赴任は全てのチャレンジを中断に追い込んだ。英語版の「海洋白書/年報」は帰国後 に再チャレンジせざるをえなかった。全て致し方のないことであった。

  水産室では海外途上国の水産事情だけでなく、日本の水産事情・動向などについて、国内外の研究機関や公益法人などのさまざまな 定期学術刊行物を介して知る機会をもつことができた。JICA図書館も非常に身近な存在であり、世界の水産関連情報に接しやすかった。 JICAでは当然に専念義務があった。従って、「海洋法研究所」としての調査研究論文などの作成や情報発信活動については、全て週末など の余暇時間をあてがった。当時では、誤解を招かないよう公言することはなかったが、二足のわらじは自身をいろいろと成長させ てくれた。水産分野での国際協力の職務に手を抜くようなことは決してなかった。抜くどころか、国内外の情勢に高いアンテナを 張りながら、世界の水産プロジェクトに遣り甲斐と生き甲斐をもって真摯に向き合った。

  さて、1984年4月に単身にて、4度目となる「ア」国への渡航のため機上の人となった。河合君もまだブエノスの事務所にいて心強かった。 オルティス校長らの関係者とは何度も協議を交わした仲であり、再会が待ち遠しかった。初めての「ア」国出張時に比べれば、 圧倒的に語学能力は向上していた。多少の憂いはあったが、武者震いするほど順風満帆の船出であったと思う。 当座、マル・デル・プラタでは孤軍奮闘を覚悟したが、「第三の青春」をまっしぐらに突き進むような感覚であった。 水産室での「独り言」が漁業学校プロジェクトを生み、赴任の機会をもたらし、さらに海との繋がりや「海への回帰」を強める運命 へと導いてくれるとは、想像もしなかった。その素晴らしい導きに乾杯であった。



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