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    第10章 国際協力システム(JICS)とインターネットとの出会い
    第3節 インターネットを熱く語る「M」さんとの出会い


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    第10章 国際協力システム(JICS)とインターネットとの出会い
      第1節: 食糧増産援助(2KR)という初めての無償資金協力事業
      第2節: 海外調査団員の人繰りに明け暮れる
      第3節: インターネットを熱く語る「M」さんとの出会い
      第4節: インターネットのデモンストレーションと海洋語彙集の輝く未来
      第5節: ホームページ作成法を独学し、「オンライン海洋辞典」づくりにのめり込む

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  1995年4月、業務第二部2KR課から、同じ部の計画調査課へ横滑りした。調査課は主に無償資金協力プロジェクトの「事前調査」、「フォロー アップ調査」、「簡易機材調査」などの海外調査ものを扱っていた。そこに2年間在籍した。異動して一年半後、中米のニカラグアという国 での簡易機材調査にプロジェクト・マネ-ジャー(以下「プロマネ」)として 関わることになった。件名は「農業生産基盤改善用機材整備計画」調査であった。

  ニカラグア政府から援助要請されていた機材は、大型ブルドーザー1台、それを運搬する大型トレーラー1台、現場に駆けつけ ブルドーザーの応急修理に当たるための工具一式を搭載した車両1台、その他汎用のトラック1台などであった。ニカラグア側の援助 要請機関は略称「ポルデス(POLDES)」という農村開発公社であった。機材の利用計画、必要性の根拠、機材の技術仕様や概算額などを 検討する上で必要な情報を収集するために、1996年9月から10月にかけて現地調査に赴いた。 調査団構成は3名で、当時JICSのいわばインハウス・コンサルタントのような存在であった森明司氏と通訳団員であった。

  調査のことに触れる前にその基層に横たわるニカラグアの歴史について少し触れておきたい。ニカラグアでは、かつてソモサ一族に よる親子3代42年間に及ぶ独裁政権によって支配されていた。反政府組織であった「ニカラグア民族解放戦線」が 革命を成功させたのが、1979年7月中頃であった。ソモサ政権はついに革命で崩壊した(後に「サンディニスタ革命」と呼ばれた)。 ソモサ政権を打倒し権力の座に就いた革命政権は、1979年から1990年まで続いたが、それは内戦の時代でもあった。 即ち、ソモサ独裁政権の崩壊後に樹立された「反ソモサ・革命政府」と、ソモサ体制時代における国家警察隊 のメンバーを中心とする「コントラ」(反革命政府武装右派ゲリラグループ)との間で、1980年代初頭から、武力闘争が繰り広げられ 内戦状態となった。当時、親米で反革命勢力であった「コントラ」は、米国の支援の下で、政府側の解放戦線軍との間で長年にわたり 内戦を繰り広げることとなった。

  「コントラ」は立場の違ういくつかのグループの寄せ集めで、その最大公約数は革命政権への対峙であり、それは 米国の利害とも一致するところであった。1981年に米国レーガン政権が成立した後は、米国による「コントラ」への支援によって 内戦は激化した。他方、革命政権の代表格であったダニエル・オルテガが1984年の国民選挙で大統領になった。 そして、1987年8月には、いわゆる「コンタドーラグループ」によるラテンアメリカ域内の和平努力が実り、ことニカラグア内戦については 中米和平合意が成立した。

  和平合意によって同解放戦線やコントラの兵士も武装解除がなされ、国内に平和が戻り現在にいたっている。 そして、1988年には、サンディニスタ革命政府と「コントラ」との間で武装解除などのいわゆる「サポア合意」に至った。そして、 1990年2月には大統領選挙が実施され、「サンディニスタ民族解放戦線 (FSLN)」側の代表であったダニエル・オルテガ大統領は、大方の予想に 反して敗退し、ヴィオレータ・チャモロが当選を果たし、リベラル政権が発足した。 親米中道派の政権が誕生した結果、オルテガ率いる同戦線の政権者らは下野した。 革命政権はソモサ政権を打倒し権力の座に就いていたが、ここに至っておおよそ10年間に及んだ革命政権時代に幕を閉じることになった。

  武装解除された旧兵士の多くは、一般民間人となって地方の農村や山間部へ入植し、農牧業に従事してきた。その入植地は山間部の奥地の さらに奥地が多いという。時のリベラル中道派政府としては、武装解除され、山間部奥地などで農牧業を細々と営む貧しい旧兵士らの 農民とその家族のためにも、農業生産基盤を改善し、彼らの生産性を引き上げ生活向上を図ることは、何より重要かつ喫緊の課題であった。

  具体的には、山間部奥地の辺境の農牧地からの農牧生産品の市場へのアクセス道の改善、農牧生産資材の奥地への搬入道の新規造成、 放牧牛の水飲み場の造成などが切実に求められていた。 ニカラグアでは、4~9月頃に乾期が半年間ほど続き、山間奥地における農民と牧畜のための水の確保は死活的に 重要であった。

  余談だが、1996年にチャモロ大統領政権のイニシャチブの下で「平和の灯台」が建設され落成した。その灯台の基礎には、革命政権・ コントラ側双方の旧兵士らによって放棄された数多の武器が集められ葬られた。この灯台は国民融和と国内平和の達成を記念し、 またそれへの願いを込めて建立されたモニュメントである。マナグア旧市街の国立宮殿(現・国立博物館)や、1972年の大地震によって廃墟 と化した大聖堂の傍に建っている。

  さて、首都マナグアの同公社では、地方農業基盤改善のための5か年計画の詳細、ブルドーザーやトレーラーなどの利用計画やその必要性の根拠、 詳細な技術的仕様などについて、いろいろ聴き取り調査をした。そして、マナグアから地方都市のレオン、エステリ、フイガルパなど からさらに奥地の山間部をあちらこちらと駆け巡り、農道造成の現況や農牧従事者の営農・生活事情とその生の声、 干ばつ被害程度、地方自治体の農道整備などに関する要望や取り組み状況を調査した。

  獣道のような、馬しか通れない道なき道も踏査した。そこを馬にまたがり、その背に生活物資などを積んで住処に向かう家族にも遭った。 そんな獣道を荷馬車が通れる道へ拡幅し、遠隔集落へのアクセス道として造成するというものであった。また別地では、ブルドーザーで アクセス道を実際に造成中である現場をも踏査した。それらはマナグアから何百kmも離れた山間の地方都市から更に何10kmも奥地に 入り込んだ、まさに辺境地にあった。奥地にある村落からさらに奥地へ入植した旧兵士やその家族らが、 そんな辺境で農牧を生業にして自給自足的生活に営んでいる。

  10月から翌3月の雨期には河川が5メートル、それ以上増水するほど降雨が続くこともあるが、乾期には草木は赤茶け落葉する様は、日本では想像 できない。急傾斜の多い山間部の放牧地では水の確保はままならず、牛はやせ細るばかりで、何とか平地を見つけて土を掘り起し 水飲み場を造ることが死活的に重要となっている。地方都市間を結ぶ未舗装の砂利道の支線から何kmも奥地へ通じる荷馬車道を造成し、 それらを繋ぎ合わせて荷馬車道の支線網を築き上げるのに、1台のブルでは焼け石に水である。だがしかし、ブルドーザー1台の供与でも、 辺境の地に暮らす農民らの生活改善のために、それら支線網へつなぐアクセス道を、5年間に延べ数10kmほど造成したり、牧牛の水飲み場 を数百ヶ所造成するなど、少しでも農牧基盤改善に資することができる。その可能性を信じることとなった。

  帰国後は、農業生産基盤の改善に関する中期計画、資機材の内容と数量の妥当性、それら機材の技術的仕様書、調達にかかる概算見積もり額 などを網羅した報告書を作成し、JICAに提出した。報告書はその後精査され、外務省に手交された。そして、この無償資金協力案件は 外務省の手で閣議に掛けられ、両政府間で援助に関する口上書が交わされ、資金援助が実施される運びとなった。

  その後、JICSはJICAから、ニカラグア政府の機材調達コンサルタントとして推薦を受け、同公社との間で機材調達に関する コンサルティング契約を結び、同政府代理人としてその調達業務を請け負うことになった。そして、その契約の締結、機材内容 や仕様の最終確認、その他実施上の諸手続きにつき協議するため、1996年4月に再び現地に赴いた。団員はJICS担当者、森氏の3名であった。

  帰国後はいよいよ機材の詳細設計を行ない、公社関係者の立会いの下に東京で入札を行ない、その納入業者を決定する手はずを整えた。 コンサルタント業務は、機材が同公社に納入され、それらのオペレーション技術指導などが完了するまで続いた。調査課に在籍した 2年間に、こうした簡易機材調査を起点にして、被援助国政府代理人として機材調達業務を行なうプロマネを何度か経験した。

  JICAは外務省の指揮監督の下、このような無償資金協力業務のいわば実施促進者の立場にある。JICAでは、プロジェクトのいわばお目付け 役的な経験はできるが、被援助国政府と契約を結び全責任をもって実質的な調達業務を担うプロマネの経験は、民間コンサルタントと JICSにおいてしかできないものである。プロマネはニカラグア政府の代理人であり、調達業務の監理者・スーパーバイザーであった。その 職責は重く厳しいものであるが、実地の体験を通して多くのことを学び得ることになる。

  休題閑話。さて、森さんとはこのプロジェクトの件でいろいろな局面で濃密な打ち合わせを重ね、また2度目のニカラグアへの出張であったこともあり、 また年齢も近かったので、現地のホテルで食事やカフェを共にしながらいろいろと雑談もした。ある週末、 落ち着いた雰囲気のいつものレストランのすぐ傍のプールサイドのテラスでブランチを共にしながら、たわいもない雑談に華を咲かせた。 週末ながら、森氏はノートパソコンをもち込んで、資料の整理や報告書の素案づくりをしていた。 何を思ったのか、彼はインターネットのことについて語り始めた。最近の革新的なネット普及のことであった。そのうちネット談義に口角泡を飛ばし 熱を帯びだした。

  森さんが熱く語るも、その場でノートパソコンに電話回線を繫ぎ実際にホームページを閲覧できるという状況にはなかったので、 私にとっては理解しようにも、予備知識もほとんどなくすんなりと理解できなかった。インターネット元年とされる1995年は昨年のことであり、 1996年の今は世はネットのことで最高潮に盛り上がっていた中、私的には一年も周回遅れの状況にあった。

  森氏は、この場に電話器があれば、その受話器から通信回線を引っこ抜き、パソコンのこのポートに差し込むという。そしてソフトを使って、 日本に所在する「プロバイダー」と言うネット接続業者に国際電話を掛け、プロバイダーのサーバーと繋ぐという。 電話がつながったら、「ブラウザ」というホームページ閲覧ソフトで、アクセスしたいページのアドレスを打ち込み、リターン・キーを押せば、 そこにつながるという。当時には今でいう「グーグル」などのような、キーワードなどをもってネット上の数多のサイトを検索し 接続できるという便利な検索エンジンはなかった。だが、当時には「ネットスケープ(Netscape)」などのソフトでもって、 「http://www.」で始まるアドレスを入力して目途のサイトにストレートにアクセスすることができた。

  当時でさえ数多のホームページが存在し、ジャンル別にそれらのホームページアドレスとその概要を紹介する、電話番号帳の ような「ディレクトリー」と称されるものがたくさん出回っていたことを後で知った。兎に角、世界中のパソコンが繋がり、ページを 無料で閲覧できるという。海外に出張している場合は、投宿するホテルの自室から、受話器の通信回線を拝借して、契約関係にある日本国内の プロバイダーに国際電話を掛けて、プロバイダーのサーバーにつなぐことになる。その場合は、当然国際回線での通話となるのでとても 高くつく。国内にいれば、自宅や事務所にできるだけ近くにある接続ポイントを用意しているプロバイダーと契約すれば、たいてい市内電話 料金で事足り、通話料を格段と安く済ませられる。市外電話でも近隣の市にあるポイントとの接続であればそれだけ安くつく。 ホームページでは数多の法人が個性的で有益な情報を競い合って提供しているという。森氏はネットの仕組みと ネットサーフィンの楽しみ方などについていろいろなことを、口から鉄砲弾を撃ち出すがごとくその語りは止まることを知らず真剣に 説明してくれた。

  ただ、通信回線が目の前にないカフェテラスでのことであるから、森氏は自身のパソコンにそれを接続しようにもできず、デモンス トレーションして見せることは不可能であった。耳をそばだてて想像を逞しくする他なかった。ニカラグアへの出張でのこのネット 談義は目からうろこではあった。だが、輪郭鮮明にして具体的なイメージをなおもつかめなかった。当時取り組み始めてから10年ほど経っていた 海の語彙集づくりとどう結び付くのか、確信をもってはっきりとイメージできなかった。私的には、自身の脳内の電気回路の 中でビリビリと閃くところまではいかなかった。だが、今回の談義からインターネットが何たるものかを知る重要なきっかけを 得ることができた。そして、一層知る価値があることをはっきりと認識できた。

  世はインターネットの話題で大いに盛り上がっていて、当時関心が無かった訳ではなかった。だが、ネットがどんなものかを知る何の実体験も していなかったし、がむしゃらに知らねばならないと前のめりになっていた訳ではなかった。そんな中で、プールサイドのカフェテラスで、森氏が 「インターネットへの世界」への扉まで私を導いてくれた。森氏との運命的出会いを感じた。森氏は帰国後に、自身のパソコンを実際に目の前で ネットに接続し、それがどんなものか見せると約束してくれた。お陰でネットへの興味と期待は一気に膨らんだ。帰国後できるだけ早くそのデモンス トレーションに立ち会いたいと期待した。かくして、森さんとの運命的出会いのお陰で、インターネットに実際に触れるきっかけを得る ことになった。



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