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    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第2節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る


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    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
      第1節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む
      第2節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る
      第3節: パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する
      第4節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する
      第5節: プロジェクトのその先を探り、明るい未来を拓く
      第6節: 「さらばマル・デル・プラタ!」、何時の日か再訪あらん
      第7節: エピソード(その一)/笑えない本当の話
      第8節: エピソード(その二)/笑えるウソのような話

    第1章 | 第2章 | 第3章 | 第4章 | 第5章



  南極からの身を切るような寒風が吹きすさぶマル・デル・プラタの一冬を過ごした。本当に長く感じられた。私は未だ若かったけれど、その 厳冬期の寒さは身に堪えるものであった。漁業学校の校舎は、鉄筋コンクリートの骨組にレンガを積み上げ、白い漆喰を塗っただけの冷え 冷えとした建物であった。その校舎の一室で、校長が用意してくれた電気ストーブ一台を囲み、その寒さに耐えながら、我々専門家はカウンターパートと協業して、 翌年の1985年4月から本格的に開始される技術協力プロジェクトの諸々の計画づくりに励んだ。そして、 ようやく南半球の春を迎える頃、それらの計画のアウトラインを仕上げることができた。その後、季節は夏のピークを越え、初秋を迎えよう としていた翌年の1985年4月頃に(アルゼンチンでは日本と季節が真逆であった)、新校舎が完成した。

  その後、学校の人も物も旧校舎から竣工したての新校舎へと移った。学校が手配した引っ越し業者の手で、実習機材、学務書類、机・椅子や 事務機器など、一切がっさいが手際よく運び移された。その後暫くして、森リーダーがほぼ一年遅れで家族2名と共にマル・デル・プラタの 地に足を踏み入れた。これでプロジェクトの日本人関係者はフルメンバーとなった。 学校では、アルフォンシン大統領らを迎え、日本側からは桜内・元農林水産大臣や斎木千九郎駐「ア」日本大使らの臨席の下、新築された ばかりの学校の講堂で盛大な竣工式が開催された。

  管理棟には校長室・副校長室の他、総務・学務室、会計室、図書室兼教授控室、受付などが手当てされた。リーダーと私には、同じ 管理棟内に、狭いながらも共同の執務室一部屋が確保された。その執務室は廊下をはさんで校長・副校長室の斜め向かいに位置し、いつでもコミュニ ケーションを図ることができた。専門家のためには、座学教室の一部屋が執務室に転用された。カウンターパートと協働するにも十分過ぎるほどの大部屋であった。 この頃から一名のアルゼンチン人秘書を雇い、我々専門家チームの一員として、タイピングをはじめ、あらゆるサポート業務に活躍してもらった。

  話しは飛ぶが、私の家族は、リーダよりも半年ほど早く、1984年11月中旬の初夏の頃に5歳の長女と生まれて数ヶ月の次女を連れやってきた。 家族4人でのアルゼンチン生活がこうして始まった。8か月近く単身赴任であったがゆえに、スペイン語には否応なく必死に向き合わざるを得な くなったことで、幸いにもその上達スピードは相当アップさせられていた。そして、何処に行くにしても西和辞書を離さず持ち歩くことが習慣 と化していた。

  かくして、プロジェクトの黎明期を乗り越え何とか軌道に乗せることができた。プロジェクトの初年はいわば「生みの苦しみ」の一年であったが、 その長い「時のトンネル」を抜け出し、一気に春とサマーバケーションの季節を迎えた感じであった。ついにプロジェクトのチーム全員が揃い、 その2年目に入り、本格的な協力期間が始まった。その頃には、何の憂いもなく、生活面でも業務面でも全てが順調に滑り出し、最高のコンディション にあった。

  プロジェクトを軌道に乗せようとこれまで肩ひじ張って緊張の連続であったが、この頃には心が解放され、嘘のように リラックスして日常実務をこなしていた。その日常の落ち着きが心に余裕を生んだのであろう。ある一つの閃きが突然脳裏にやってきた。 まさに、プロジェクトの進捗が順調に滑り出していたがゆえに生まれていた余裕の賜物であった。頭の片隅に追いやられていた潜在的思いが 突然飛び出した。

  学内での日常の中で、あることにふと気付いた。学内では、専門家とカウンターパートとの間で、航海、漁具漁法、漁獲物処理、その他 いろいろな教科にまつわる会話が日常的に交わされていた。そのやり取りの中には専門的な語彙が溢れていた。 それも日本語、スペイン語、英語の3言語によるやり取りであった。

  リーダーと相部屋にしていた執務室で二人してタバコを片手に打ち合わせをしていた1985年の4月のある日のことであった。「航海、漁業などに関する日英西語の語彙集づくりをするには、これほど恵まれた環境はない、という思いが去来した。次の瞬間、「日常的に 耳にし目にする海にまつわる語彙を何でも書き留める絶好の機会である、それらを書き留めなくて何とする」との閃きを得た。 それは頭に檣頭電光を受けたかのような衝撃的であった。この機会を逃したらもう二度とチャンスは巡ってこないのではないか、という強迫観念の ようなものを感じた。語彙づくりのラストチャンスと違いないと思えた。

  航海、漁撈、水産加工などの日常飛び交う専門的語彙を拾い、語彙集づくりをするというアイデアを閃いた時、間髪を入れずに即その下準備 を始めた。過去2回モノにできなかったという失敗の教訓から、即その場で大学ノートを準備した。語彙をABC順に書き留めるため、 各ページにABCの見出し用ラベルを貼った。そして、専門語彙に出会った時には、その語彙の接頭語に合わせて分類しながら、その場で書き 留めることにした。その場にノートを持ち合わせていなければ、何かの紙切れなどにすぐにメモを取った。

  数ヶ月もすればノートは5~6冊にもなってしまった。そして当然の成り行きとして、ある問題に直面した。ノートの冊数がどんどん増え 続けて行けばいくほどに、その課題は大きくなり、それに悩まされることになった。語彙の重複が気になり始め、頻繁に立ち往生するに至った。 既にノートに書き込んだ語彙なのか否か、そうであればその語彙はノートのどこに書き留めたのか、ノートをひっくり返して重複の有無などを 確認するための回数と時間が段々多くなり出した。その確認にてこづるようになり、その対処法につき考えざるをえなくなった。 何冊ものノートを行ったり来たりで、無駄な時間を費やするようになっていた。

     時間軸をここで少し巻き戻したい。海の語彙集づくりの思いつきは初めてではなかった。最初は米国シアトルでの留学時代であった。 海洋社会科学系の教科だけでなく、海洋学や水産資源管理論、海洋鉱物資源やその開発などについて、海洋自然科学系や工学系の教科を学んだり、 またタームペーパーの作成に取り組んでいた時、さまざまな海語に出会った。それらを書き留め、自身の利便のための語彙集を自作するには一つの チャンスであった。だが、リーディング・マテリアルの通読やタームペーパーの作成に忙殺され、結局のところ単位取得の重圧下で、 ついに日の目をみることはなかった。目の前の学業のことで精一杯で余裕がなかった。

  二度目のチャンスは、アルゼンチンへの赴任前や帰国後に、非営利目的の海洋調査研究団体として設立した「海洋法研究所」の 中核的活動であった、日本の海洋法制・政策や海洋開発動向を扱う「英語版・海洋法と海洋開発ニュースレター」を発行したり、 また「英語版・海洋白書/年報」の発刊構想に取り組んだ時である。さまざまな海語を拾い上げ、集積し、語彙集づくりに 取り組むもう一つのチャンスであった。語彙集づくりを目指して足を一歩前に踏み出し始めたものの、いつしか尻切れトンボになって しまった。当時、語彙集の必要性や利便性があるにはあったが、語彙集づくりの「起点」にも「発火点」にもなりえなかった。 結局、一度ならず、二度までも、語彙集づくりのチャンスが目の前を通り過ぎてしまった。

  漁業学校に勤務していた時に出会った三度目のチャンス。当時それを「海洋辞典づくり」のビッグチャンスと大上段に構えて 取り組んだ訳ではない。だが、語彙集づくりをする上で二度と巡り会うことのないビッグチャンスであることだけは十分認識できた。 その10年ほど後に、世はインターネット時代を迎えた。そして、語彙集をネットを通じて世界に発信することを着想して初めて、 「オンライン海洋総合辞典づくり」の原点や起点は、アルゼンチンの国立漁業学校にあったことを悟った。

  当初は、航海、漁業などの専門的語彙が三か国語で飛び交う環境下で、聞き流しで終わらせるには「余りにももったいない」と思い、書き留め 始めたことが発端であった。語彙集にすれば、専門家やカウンターパートに何がしかの役に立つのではないかと思い、「善は急げ」のことわざ通り、 先々のことは何も考えずに始めた。ところが、10年後に、信じられないような情報通信技術の出現により、語彙集づくりに一条の光明が 差し込むことになった。正直、内心では世界中のコンピューターが繫がる世界が将来出現するかも知れないと秘かに、そして漠然と期待しては いたが、ネット時代がそんなに早くやってこようとは全くの驚愕の出来事であった。

  過去の失敗を二度と繰り返すまいと、またこれが最後のチャンスと自身に言い聞かせ、即その日から大学ノートを準備した。そして、 試しに思い浮かべられる専門的語彙2~30語を書き留めてみた。それが最初の第一歩であった。いつも大学ノートと西和辞書を机上に置き、どこへでも持ち歩くように した。海に少しでも関連する語彙を何時でも何処でも拾い、書き留めた。この手法が原点であり、語彙集づくりはそれから始まった。 かつて高校生時代のクラブ活動で経験したトラウマを払拭するのに、大学4年間もかけることになった。3度目の語彙集づくりは、そんな過去の トラウマ払拭に取り組んだ当時の忸怩たる思いや覚悟とどこか相通じるところがあった。

  専門家やカウンターパートらの会話だけでなく、西和辞書や業務資料・図書などを目を通した際たまたま気付く海の語彙を何でも手当たり 次第に拾い上げ、ノートに記した。語彙がスペイン語や英語であれば、「これ日本語で何というの」と対訳などを調べたり、専門家やカウンター パートに尋ねたりした。日本語、西語、英語の辞書などでじっくり調べることも多くなった。 まずは耳にし目に見した語彙を、記憶から消え去る前に、その場で書き留めておくことが最も重要であった。何時でも何処でもメモすることが 習慣となり、癖ににもなって行った。

  さて、ノートが何冊にもなり、語彙の重複が目立つ中で、間もなくして思いついたのがプロジェクトのパソコンの活用であった。 赴任時、いわば「現代におけるノートと鉛筆」としてのパソコンを専門家用機材として購入し、プロジェクトにもち込んだ。機種は沖電気のデスク トップ型パソコン(OKI/IF800という機種)であった。だが、思いついた時はまだ防塵シートがかぶせられたままで、ほとんど未使用状態であった。

  当時JICA本部ではワープロはすでに社内で公文書づくりなどにかなり使われていたが、パソコンはそれほど普及してはいなかった。 パソコン画面上のフォーマットに氏名の他に、人数、等級、期間などの変数をインプットし、専門家や調査団員の渡航経費を自動計算させるくらいであった。 赴任前での操作経験と言えばこれくらいで、パソコンなるものをそれ以外の用途では使ったことはなかった。

  だが、赴任時に思い切って自身の専門家用「携行機材」としてパソコンをもち込んだ。世は移り変わり、パソコンはそのうち業務上の必需品 となる一方で、現地でパソコンを使いこなせるようになるかもしれないと、調達することにした。現地ではパソコンを少なくともワープロとして 使いこなし、本部への報告書などの業務文書の作成にフル活用するつもりであった。とは言え、当時まだ使いこなすところまでは到底いかなかった。 だがしかし、語彙集づくりで利用してみることが、パソコンを使い出すきっかけになった。

  パソコンに被せていた防塵カバーを取り払い、モニターの前に陣取り、電源をオンにした。そして、恐る恐るソフトフロッピーをスロット に差し込むことから始めた。短期専門家としてプロジェクトに招聘した水産大学校の前田教授の来「ア」時に、「ワード」という日本語文章 作成用ソフトの初歩的な操作法につき手ほどきを受けたことがあった。それを思い出しながらのトライであった。

  OKI/IF800のパソコンは、当時では、NECの機種と共に最先端の機材であったが、今から振り返れば何処かの博物館に展示されていても 可笑しくない年代物である。1960年代の旧式の箱型白黒テレビのような形と大きさをしたパソコン本体には2つのフロッピーディスクの投入口(スロット)があった。左側の投入口に「ワード」という 日本語文章作成用ソフトのフロッピーディスクを、右側のそれには入力されたデータの記録媒体用のフロッピーディスクを投入して、 パソコンをワープロとして機能させた。かくして、「習うより慣れよ」の心構えで、文明の利器パソコンに初めてワープロ機能を立ち上げ、 アナログノートを見ながら入力を始めた。

  複雑なことはできなかったが、先ずはABC順に語彙をベタ打ち入力し、その集積を図った。その入力過程で語彙の重複を簡単に回避あるいは 解消を図ることができ、一挙にそれまでの課題の解決を見た。語彙集づくりの効率は大幅にアップした。語彙の加筆修正はお手の物となった。 また、コピー&ペーストすれば、語彙や文章の移動による補正や並べ替えなど瞬時に可能であった。

  ワープロやパソコンが世に存在しなかったアナログ時代における辞書づくりはいかに難義であったことかと偲ばれた。 語彙とその対訳や用例などを一枚のカードに記載し、それを何千何万枚とABC順やアイウエオ順に並べたことであろう。加筆修正するためには 該当するカードを一枚一枚探し出し、作業後に元に戻す。すべて手作業であった。つい1980年代初めまで基本的にこんな作業が繰り返されていた はずである。

  さて、最初の頃はパソコン操作はぎこちなく、大いに戸惑いながらの作業であった。入力エラーなどで字句修正に時間を取られた。 だが、試行錯誤しているうちにいろいろ学習して、徐々にパソコン操作に慣れ出し、1~2週間後には曲がりなりにも語彙の追加入力や 修正がしっかりできるようになった。そして大学ノートを行ったり来たりすることの無駄な作業は皆無となった。語彙拾いでの重複を 避けながら、圧倒的に効率よくABC順に入力できた。加筆修正は瞬時になすことができた。びっくりするぐらい効率よく語彙集づくりを進められた。 ワープロでも同じであったであろうが、パソコンの偉力は抜群であった。パソコンは語彙集作成者には救世主であった。

  学校への出勤を毎日30分ほど早めて、それまでノートに書き留めていたアナログデータをパソコンに入力するようにした。 そのうち、時に午前中フルに出勤して、入力に取り組む様にもなった。それを2年近く続けた。学校での授業は午後2時から8時までで、専門家は原則午後1時から9時までの 8時間勤務であった。2年間で完成することは無理としても、次の専門家らに引き継ぐに値する専門的語彙集の基礎編まで「進化」させたかった。

  さて、新規の語彙入力を続けていると、フロッピーディスクがデータで満杯になる。データの何割かを別の新規フロッピーに移転させる 必要がある。このデータ分割によって今度はフロッピー自体がだんだん分割されて行くことになる。スロットに該当するフロッピーをこまめに 差し替えながら、入力や修正を繰り返すことになる。当時、パソコンの内蔵記憶容量やフロッピーのそれが極端に少なかったからである。 それでも、何10冊ものノートに書き留められている語彙が重複しているか否かを確認をする手間や不便さとロス時間を考えれば、 フロッピーの差し替えは大した手間ではなかった。それに、同じ接頭語ごとに語彙がある程度まとまった頃を見計らって一挙に入力すれば かなり効率化できることであった。

  「ワード」ソフトを用いて語彙の入力ボックスを作り、それを三分割し、一に語彙の見出し語を、二にその対訳を、三に文例などを入力 する。そして、見出し語をABC順に一挙にソーティングする。論理的には、パソコン内に数多の「語彙カード」を創れるはずだが、 パソコンでそれをプログラミングする知識はなかった。それに「エクセル」ソフトも持ち合せていなかった。現代では当たり前の「エクセル」 というソフトを当時知ることもなかった。また、「ワード」でベタ打ちしたデータについて、そのままではABC順にソーティングできそう にもなかった。結局全てを諦めて、語彙と対訳と文例を単純にベタ打ちすることをその後ずっと2年間も続けた。前田教授に相談しながら、ワードソフトで そのような入力ボックス(語彙カード)作成とソーティング処理の可能性を模索してみたが、後には続かなかった。

  当時プロジェクトに「エクセル」があり、使いこなせていたとすれば、語彙集づくりもさらに効率化できたのかもしれない。だとしても、 現代のネット時代になって、エクセルで作成したその語彙集のテキスト形式をホームページ閲覧専用のHTML形式のテキストへ簡便に変換し、 ネット上で閲覧できたかどうかは定かでない。情報技術の日進月歩を思えば、不可能なはずはないかも知れない。だが、当時のプロジェクトには 「エクセル」もなく、また「ワード」を用いて語彙集づくりのプログラミングを行なう知恵もなかったが故に、語彙を単純にABC順に ベタ打ちで入力し、コピー&ペ-スト機能を使いながら並べ換えるという、最も原始的方法で作業を続けた。

  原始的なパソコンの使い方であったとは言え、パソコンと言う革命的な文明の利器をもって、入力されたデータに思い通りの加筆修正を加え、 また簡単に「人力的」に並べ替えることができ、語彙集づくりを驚異的に効率化できたことは、技術革新に感謝であった (もっとも、この程度の ことならワープロでも十分であったが、プロジェクトにはOKIのパソコンしかなかった)。 何はともあれ、3度目のチャンスにして、語彙集づくりの歯車を一回転させることができた。振り返れば、「オンライン海洋総合辞典」づくりの 千里の道もこのような一歩から始まった。プロジェクトの準備期間が終了し、2年目に入いったばかりの1985年4月頃のことであった。 その後インターネットというとんでもない情報通信技術に遭遇することになった。ずっと後年のことである。それは目からウロコの感激であり、 生きている間に巡り会えて良かったというのが正直な思いである。



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      第3節: パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する
      第4節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する
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