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    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第3節 パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する


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    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
      第1節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む
      第2節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る
      第3節: パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する
      第4節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する
      第5節: プロジェクトのその先を探り、明るい未来を拓く
      第6節: 「さらばマル・デル・プラタ!」、何時の日か再訪あらん
      第7節: エピソード(その一)/笑えない本当の話
      第8節: エピソード(その二)/笑えるウソのような話

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  1984年4月に日本から赴任して以来初めてアルゼンチンでの夏を迎えた。家族は同年11月中旬にマル・デル・プラタ(MDP)に到着して わずか数ヶ月経るに過ぎなかったが、生活にすっかり慣れ、この夏休みにはどこか旅に出掛けるのを楽しみにしていた。実はMDPは南米でも有数の 避暑地であった。ブエノス・アイレスはラ・プラタ川という大河の畔にあるが、その河口域を広範囲にわたってミルクコーヒー色に染まっており、 海水浴などできるものでない。結局河口から400km以上離れたそのMDPにおいてようやく清い海を前にして海水浴を楽しめるという訳である。 普段はMDPの人口は数十万人であるが、盛夏ともなれば倍以上に膨らむ。我々MDP住民は、避暑客相手のビジネスでもしていない限り、長期 滞在客でごったがえす喧騒に堪えかねて、そんな町から暫く脱出したくなるのが正直なところでああった。

  赴任して初めて迎えた夏には、1,400kmほど南西のアンデスの麓にあるサン・カルロス・デ・バリローチェという避暑地に出掛けた。 バリローチェは「南米のスイス」と称されるだけあって、アンデスの山々、森林と湖、氷河や渓谷、滝と渓流に恵まれた、大自然のなかの楽園 であった。生後数ヶ月の乳飲み子を抱えての初めての車での遠出であり、往復に6日間も要したが、何とか無事に旅することができた。 パタゴニアの北限辺りを横断したので、パタゴニアがどんなものか地理的事情を知ることができ、また土地勘も随分と得ることができた。 そこで、二年目の夏は、その体験に自信をえて、さらに遠出を試みることとした。

  JICAの長期専門家には「休暇一時帰国」という制度があり、3年に一度は日本に「里帰り」することもできた。そこで、それを長期 の国内旅行に振り替えることを思い付いた。というのも、アルゼンチンで家族全員が揃って生活している訳なので、わざわざ家族との 再会のために一時帰国する必要もなかった。日本に居残る家族はいなかった。もちろん、孫の成長した姿を実家の祖父母らに見せるために一時 帰国するということもありえた。だが、片道30時間以上のフライトに縛り付けられることや、往復に5日間も要することにもなるので、 一時帰国するのは自然と億劫になってしまう。加えて、次女は1歳半になったとはいえ、まだ幼児だったので、30時間以上もかかるフライト 内でぐずったりすれば難義であった。

  ところで、アルゼンチンは国土が広大で大自然があり、訪れてみたいところが幾つもあった。国内をあちらこちら巡り歩くまたとない 機会でもあった。長期国内旅行であっても、自分の車で遠出することになれば、幼児がいてもドア・ツー・ドアで身軽に移動することが できるので、同じ旅をするにしても何かと楽であり安心であった。といっても、運転するのは私一人なので疲れる話であった。だが、車の運転 は大好きであった。それに、長距離ドライブであっても、若かったのでまだまだ体力に自信があった。また、先を急ぐ旅を続ける訳でもなく、 また運転でぶっ倒れるほど無理をする必要もなかった。のんびりと休み休み旅をすればよかった。

  かくして、赴任二年目の1986年1月二回目の夏を迎え、漁業学校の夏期休暇期間を利用して、家族全員で、「不毛の大地」パタゴニアを 周回する「冒険旅行」に出かけることにした。往きはパタゴニアの大西洋岸沿いに一路南下し、南米大陸最南端のティエラ・デル・フエゴ島 にあるアルゼンチンの町ウシュアイアをめざした。その後、南米大陸の背骨であるアンデス山脈沿いに北上し、昨年旅したバリローチェを 再び経て、パタゴニアをほぼ周回し帰着するというものであった。

  東京から見れば地球のほぼ裏側に位置する「ア」国のパタゴニアの大自然を体験できるのは、人生の中でもそれほど機会は多くないとの 強い思いがあった。赴任の機会をぜひ生かしたかった。荒涼としたステップ状の大地を駆け抜ける20日間ほどの長旅である。乳飲み子も1歳半になり 昨年に比べれば不安材料はずっと少なくなったが、旅の期間や未舗装の砂利道のことを思うと不安はゼロではなかったが、細心の注意を 払えば何とかなるだろうと楽天的に考えた。長女は6歳半であった。

  私の車はフランス・ルノー社のステーションワゴン(型式は「18GTX」)であった。普通乗用車の後部座席の後方にさらに二人が座れる シートがあった。その座席を前方に倒し畳め込めば、バックドアからたくさんの荷物を押し込むことができた。JICA事務所の河合君 のアドバイスを得て、家族で遠出することを念頭において、このタイプを購入したものであった。そのワゴンを再び本格的に生かせる機会が やってきた。

  昨年と比べてかなりの重装備とならざるを得なかった。今回は生活用品一式を幾つかの段ボール箱に区分けしながら積み込うことにした。先ず、 電気炊飯器や什器一式、簡易ガスコンロ、鍋、フライパン、やかんなどを納めた。お米、味噌、インスタント・ラーメン、おにぎり用の海苔など、 できる限り多くの日本食材を詰め込んだ。醤油、塩、胡椒などの各種調味料。4人用のテント一式、折り畳み式のテーブルと椅子、エアマット、 毛布、アイスボックス、携帯ランプ、衣類一式、子どものための生活用具一式、ベビーカーや粉ミルク、哺乳瓶その他のベビー用品。 万一の野宿に備えて幾つかの特殊用品も整え、ぎゅうぎゅう詰めに押し込んだ。車のルーフにはキャリアをセットし、テーブル・椅子、テントなど を括り付けて、満載状態であった。最後に予備ガソリン20リットル用ポリ容器を押し込んだ。

  マル・デル・プラタからほぼ大西洋岸沿いに一路南下し、500kmほど先のバイア・ブランカ(スペイン語で「白い湾」の意味)を目指した。 ブエノス・アイレスとバイア・ブランカの間には、直径800kmほどの円を描いたような形状と面積をもつ、「パンパ」と呼ばれる大放牧・穀倉 地帯が広がる。バイア・ブランカはその「パンパ」で産み出される穀物類や牛肉などの農牧産品の一大集積・積み出しのための商業港である。バイア・ブランカまで 海岸線とほぼ平行して、いわばパンパの外周縁をなぞるように大平原をひた走った。時に、見渡す限りの緩やかな丘陵地帯に向日葵の大輪で 埋め尽くされた畑が続く。まるで、黄色い絨毯を地平線の果てまで敷き詰めたようであった。夕暮れになると何とも言えない牧歌的田園 風景へと移り変わり、運転中不思議と癒された。

  空には小さな浮き雲が幾つもの縦横列になって広がり、行けども行けども数多の浮き雲が途切れることなく地平線から湧き 上って来た。大陸と大海とが隣り合わせであることのなせる業であろうか。ほぼ海岸線と平行して大空一杯に、魚のうろこを浮かべたかの ように規則正しくどこまでも続く。巨大な陸塊と大海が接する海岸線上の空ともなれば、雲景のスケールもかくも大きくなるものかと思う。 大陸性大地の空を一面に覆う鰯雲、大牧草地と向日葵のイエロー絨毯、まばらな放牧牛、おそらくは日本では北海道でしかお目にかか れないような雄大な田園風景である。我慢して、速度を時速80kmほどに抑えつつドライブを続けた。陽が落ちる頃には、バイア・ブランカの市街 中心部で見つけた安ホテルに投宿た。

  翌日、バルデス半島の最寄りの町プエルト・マドリンを目指した。バイアから50kmほど南下すると北緯40度線辺りに河口をもつ コロラド川という大河を横切る。千数百km離れたアンデスの山々、それも南米大陸最高峰のアコンカグア山(6,960m)の近くから悠然と流れ下る 大河である。コロラド川を境にしてその辺りからパタゴニアのステップ地帯に入り、自然風景は様相を変え、荒涼としてくる。不毛の大地の始まりである。 さらに40度線を越えて少し南下するとネグロ川の河口にあるビエドマという町に至る。バイアから240kmほどである。 ビエドマからさらに400kmほど走破し、世界自然遺産に登録されるバルデス半島へのゲートウェイである町プエルト・マドリンを目指した。 マドリンはパタゴニア北部の一大漁業基地であり、またアルミニウム製錬の大基地ともなっている港町であった。 だがしかし、折角の機会であるとの思いで、先ずこの辺りでテントで野営をしてみようと、少し手前で国道3号線からそれて半島を目指した。

  バルデス半島はオタリア、トド、イロワケイルカ、クジラ、シャチなどの海洋性哺乳動物やマゼラン・ペンギン、その他陸上 野生生物の楽園である。半島は地形的には、江戸時代の長崎の「出島」のように海に突き出ていて、その付け根はごく狭い地峡と なっている。地峡を過ぎてすぐのところにプンタ・ピラミデという、半島で唯一の小さな集落がある。その集落の近くの砂浜にて、 日が暮れるまでにテントと簡易テーブル・椅子を設営し、何とか夕食も済ませた。家族は初めてのテントでの野営であったが、無事一夜を 明かすことができた。

  時間軸を少し戻すと、私的には、この半島に足を踏み入れたのは二度目であった。1983年に初めてアルゼンチンに初出張した折、 パタゴニアでの漁業事情を視察するために、他の団員とともに、まず空港のあるトレレウ(マドリンから50kmほど)に降りた後、チャーターした車でこのピラミデを訪れた。 野生のミナミセミクジラ(Southern right whale)がボートの真下を悠然と通りゆく姿にぞくぞくと鳥肌が立った。クジラジラミなどからなる 「カロシティ(callosities)」というかなり大きな白い塊を、巨体のあちこちに付着させていた。ミナミセミクジラの大きな特徴らしい。 クジラは6-12月に観察でき、8-9月(晩冬~初秋)がピークという。ピラミデがクジラウオッチングのメッカになっていることとは、当時現地 を訪れて初めて知った。

  バルデス半島に興味を抱いたのはJICAに就職して数年後のことであった。研修事業部で「地熱エネルギー」集団研修コースの巡回指導調査団員として エジプト・トルコ・フィリピンの3か国に出張した。それがきっかけで、陸上においてだけでなく、海洋における自然再生可能エネルギーの 開発にも興味をもち出したことは、すでに述べたとおりである。 その頃紐解いた海洋開発の書物の中で、このバルデス半島地峡での潮流発電所建設構想について知った。まさか、その地を訪れることになろうとは ラッキーであった。半島の縦の南北距離は120kmもあるが、半島の付け根は細く大きくくびれている。そのくびれた地峡部の南北距離はわずか 6㎞ほどである。北側にはサン・ホセ湾、南側はヌエボ湾という奥行きが深い湾がある。半島の付け根部分をスプーンで鋭くえぐったように海が南北方向 から深く湾入している。

  両湾の潮位には相当の落差があるという。付け根の地峡部を開削し、水路や暗渠を造作し、両湾間の 潮位差によって絶えず生じる潮流を利用してタービンを回し電気を起こすという構想を学んだ。 漁業学校の副校長ジャベドニー元中佐に、「ア」海軍での計画立案について尋ねたことがあった。確かに構想されていたとのことだが、 経済採算性の観点からか、あるいは自然環境上の観点からか、それとも彼は詳細を知らなかったのか、その構想の内容について何も語ってくれなかった。

  さて、テントを畳み、全てを車に詰め込んで、先ずは半島を少し散策することにした。今回はクジラウオッチング はしなかったが、半島の北端まで出かけた。途中の海岸などで巨体をのんびりと横たえている野生のトドを暫し自然観察した。 その後プエルト・マドリンの漁港と市街地に立ち寄った。マドリンの市街地の北のはずれに「海洋自然科学博物館」が当時開館していた かどうかは不明だが、博物館を訪れる機会を得たのは15年も後のことである。

  翌日、大西洋岸沿いに砂利道を走破してプンタ・トンボという、マゼラン・ペンギンの自然の営巣地(ルッカリー)を訪ねた。海岸には 何万という数多のペンギンが群集を作り、骨休めをしていた。そもそもマゼラン・ ペンギンは海岸沿いの土中に小さな巣穴を掘り、そこを生活拠点にしている。交代で卵を抱き、海へ餌の魚獲りに 出掛ける。海と巣穴の間をよちよち歩く姿は愛嬌に溢れ感動ものである。その後、国道3号線に出て、そのまま500kmほど南下し、パタゴニア 中央部にある漁業と石油生産の町コモドロ・リバダビアに向かった。そして、いつもの習慣で、先ずは港に立ち寄った。岸壁に着いて眼中に 飛び込んできたのは、どこか奇異に感じられる光景であった。それが何であるかを理解するのに暫く時間がかかった。

  生まれて初めて潮汐作用が引き起こす大きな自然現象を目の辺りにした。東京湾の富津海岸などで見かける遠浅の海岸で干潮時に潮が引き、 少し沖合まで干潟になるというような光景ではなかった。岸壁に立って初めてそこが、本来海水で満たされているはずの港であることが分かった。 岸壁に立って下を見下ろすと、何と小型漁船が真下にあった。引き潮で着底していたのである。遠目からは岸壁に隠れて見えなかったのである。 港内を180度見渡し改めてよーく目を凝らして見てみると、全ての船は浮かんでいるのではなく、海底に鎮座していた。 遠くの防波堤沿いにそこそこの大きさの漁船が目に映った。だが、すぐにその異様さに気付いた。港内に海水が全くないのである。船は どれも浮かんでいない。生まれてこの方こんな奇異な港内風景を見るのは初めてであった。

  目を凝らしてもう一度観察した。海底がずっと先の防波堤まで日干し状態になっていた。漁船は乾ドックで船底修理を待つ かのように、船体全体を地上にさらけ出していた。リバダビアでは潮位差はゆうに6、7メートルはあるように見えた。 日本では、有明湾で4~5メートルほどの干満差を観察できるようであるが、ここアルゼンチンで比較的大きな潮位差を体験することが できて幸運であった。

  さて、翌日コモドロ・リバダビアを後にして、南米大陸のアルゼンチン最南端の町リオ・ガジェゴスを目指した。700kmほど距離があった。低灌木がところどころ 生い茂る荒涼とした殺風景なパタゴニアを大西洋岸沿いにさらに南下した。大西洋岸沿いと言っても、国道はほとんどの場合かなりの内陸部を 走っている。真に海を見ながらの走破はごくわずかである。さて、沿岸に平行的に貫通する国道は完全舗装され、快適に走行ができたが、 難点が一つあった。道路の中央部が見るからにかなり盛り上がっており、蒲鉾形をしていた。アルゼンチンは右側通行である。 その蒲鉾状の道路を何百kmも運転すると、体がいつも道路右側の路肩方向へと傾くことになる。さらに、車自体が自然と道路右側の路肩方向へと 流されて行く。それを必死に食い止めようとすると、ハンドルの左半分を片手ではなく両手でしっかりと 握りしめていなければならない。毎日7、8時間も、そうやってしがみついていることになる。このスタイルを取り続けると結構疲れるのは必定 である。

  それにパタゴニアは「風の大地」とも呼ばれ、南緯40度辺りでは通年偏西風が吹いている。道路周辺に生える低灌木を見ると、その多くは その影響であろう、海側へなびくような樹形となり、偏西風に抗い耐え忍んできたことをまざまざと示している。時に東側の大西洋側から 海風が吹くなかを南下すると、さらにハンドルの左半分にしがみつくことになる。日本でも高山に生えるハエマツが強い恒風のために 斜めに生えているように、偏西風に抗う低灌木の樹形はパタゴニアの風物詩そのものである。

  コモドロ・リバダビアの市街地を少し通り過ぎた辺りで見つけ、昨晩から投宿していたモーテルを出発し先を急いだ。目指すリオ・ガジェ ゴスの遠く沖合の大西洋上には、フォークランド諸島(マルビナス諸島)がちょうど同じ緯度に浮かぶ。 アルゼンチンへの赴任がかなりずれ込む原因になったあのフォークランド諸島である。それを思うと、全く自身と関わりのない島嶼とは思えなかった。 昔を辿り平たく言えば、スペインやポルトガルが中南米大陸を植民支配し、一世紀遅れて英国やオランダなど新興諸国が領地を拡張しようした 16世紀頃からの領有地紛争が現代まで続くということであろう。日本周辺海域にも今後何世紀も続くであろう2,3の係争地があることを思い 起こしながらドライブを続けた。いつものことだが、運転中、お腹が減ればその都度おにぎりをぱくつきながら運転を続けた。だが、 ガジェゴスのかなり手前で、すでに夏の太陽ははるか西方のアンデスの大地に既に落ちていた。余談だが、ガジェゴスまで後250kmほど の地にプエルト・サン・フリアンいう小さな町の近くを通った。そこがマゼラン艦隊が16世紀初め頃に越冬した地であったことは当時全く 知らなかった。当時、大航海時代の歴史に余り興味を持っていなかった。

  夜も遅い時刻にリオガジェゴスの町に入った。街はかなりの広がりをもっていて、何処が市街中心部か分かりにくかった。そこで、いつも 旅の習慣として、港のある方向へと向かった。街中での自身の地理的位置を理解するためである。石炭の積み出し施設らしく、大きなベルトコンベヤーが暗闇の中、 けたたましい轟音をたてて石炭を運搬船に流し込んでいるようであった。コンベヤーは独り動いていて、人影が全くなく、道を尋ねることもできなかった。 皆自宅で夕食をとる団欒の時間であった。馬鹿でかい積み出し用鉄骨構造物の下をくぐり抜けたが、暗闇で何がどうなっているのか さっぱり分からなかった。ほとんど明かりがないなか、埠頭沿いにしばらく南下したところで、ようやく「ACA」のでかいシンボルマークを 見つけ安堵した。

     「ACA」とはアルゼンチン自動車連盟の略称で、主要地方都市では大抵それが直営するガソリンスタンド兼宿泊施設があり、会員は割引で 宿泊できたので重宝した。投宿の半分くらいはACAのモーテルとしていた。子ども用の遊戯施設もあり、清潔で安く安心して泊まることが できた。携帯電話もなく、カーナビなどもない時代のこと、目的地に行き着くのに意外と苦労する事が多かった。連盟は日本の 「JAF」と同様に会員への各種ロードサービスを提供していた。「ACA」マークは地方に行けばいくほど安全安心の保証マークであった。 それに、ACAはドライバーに見つけやすいところに立地していて、何かと頼りにできた。

  さて、翌日早速、市街中心部にある旅行代理店を探し出して旅の相談に訪れた。当地の港からティエラ・デ・フエゴ島へ渡海する直行 フェリーの運航時刻の情報を得て、その乗船券を購入するのが目的であった。だが、全くうかつであった。私的には、とんでもない思い込み をしていたこと、さらに予備知識なしであったことを、その代理店で思い知らされ愕然とした。知れば知るほど、自身のバカさ加減に 唖然とするばかりであった。



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      第2節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る
      第3節: パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する
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      第6節: 「さらばマル・デル・プラタ!」、何時の日か再訪あらん
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