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    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第4節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する


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    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
      第1節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む
      第2節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る
      第3節: パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する
      第4節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する
      第5節: プロジェクトのその先を探り、明るい未来を拓く
      第6節: 「さらばマル・デル・プラタ!」、何時の日か再訪あらん
      第7節: エピソード(その一)/笑えない本当の話
      第8節: エピソード(その二)/笑えるウソのような話

    第1章 | 第2章 | 第3章 | 第4章 | 第5章



  リオ・ガジェゴスに到着した翌日のこと、早速市街中心部にある旅行代理店へ出向いたが、全くとんでもない思い違いをしていたことに ショックを受けた。自分としたことが情けなかった。リオ・ガジェゴスからフェリーに乗れば、そのまま大西洋岸沿いに一路南航して そのままアルゼンチン領のフエゴ島に渡れるか、あるいはマゼラン海峡を横断してすぐにフエゴ島の対岸の「ア」国の町に渡れるものと、 何の疑いもなく信じ込んでいた。そもそもリオ・ガジェゴスが大西洋から海峡へ入って回り込んだすぐのところに位置するものとばかり 思い込んでいたのが最大の間違いであった。旅に出る前、フェリーに乗ればすぐに渡れるという友人の言葉をそのまま信じてしまった。 「リオ・ガジェゴスからそんなに簡単にフエゴ島へ渡れるのだ」と、自身で何の詳細情報も得ず地図も確かめもしなかったことが招いた 大失敗であった。それにフエゴ島に渡るフェリーがリオ・ガジェゴス港から一日数便はあろうと思い込んでいた。だが、そんなフェリー運航は 全くなかった。アルゼンチンの国土の大きさを改めて思い知らされた。

   恥ずかしながら、リオ・ガジェゴスからフエゴ島ウシュアイアまでの詳細なルートをずっと後で知った。リオ・ガジェゴスから陸路を一時間ほど 南下した後、チリとの国境を通過しチリ領内に入る。そして、チリが運航するフェリーでマゼラン海峡を渡り、フェゴ島に辿り着く。そこはまだ チリ領内である。再びチリ領内を陸路で150kmほど辿った後、アルゼンチンとの国境を通過して「ア」国領内に入る。2回パスポートコントロールを 受けることになる。その後、フェゴ島最大の町ウシュアイアへと陸路を250kmほど辿ることになる。今でもそれが最も一般的なルートである。 距離にすれば何と東京から大阪ほど離れている。私は、他言するには余りにも恥ずかしいので、この失策を全て心に封印した。 いずれにせよ、JICA事務所からはアルゼンチンからチリへの海外渡航をする許可を得ていなかったので、飛行機で往復するしかなかった。

  車をリオ・ガジェゴスに数日駐車させておいて、飛行機でウシュアイア間を往復する方法も考えた。だが、2~3日前から気になるほどの 強風が吹き荒れていたことに神経質になっていた。そんな中で家族4人全員で搭乗することに正直かなりの恐怖心をもっていた。 結局、渡海を諦めた。いつか出直すことにした。そして、マゼラン海峡を横断するという「夢」を一時封印した。 人生で積み残したこの夢を実現できたのは、何と2011年にJICAから完全離職後さらに5年も経た頃であった。遅くはなったが、夢を果たすこと ができた。ところで、ガジェゴスには超ミニではあるが、「海事博物館」があることを後で知った。ウシュアイアには昔の監獄を利用した大きな海洋博物館が あるのも後で知った。それらを実際に訪れたのは同じく離職して5年後のことであった。ウシュアイアは名高いビーグル海峡に面しており、 いつかは訪れてみたいと心に描いていた。

  前節でも少し綴ったが、ガジェゴスまで後250kmほどの距離にプエルト・サン・フリアンという大西洋岸沿いの小さな漁村がある。マゼランがスペイン からインドネシアのマルク諸島などの香料諸島をめざして世界周航の旅に出たのが1519年のことであった。ウルグアイのモンテビデオに辿り着いた 後、部下にラ・プラタ川を探検させた。マゼランは、それは河川であって、当時「南の海」と呼ばれていた太平洋へ抜け出る海の通路ではないこと を確認した後、それを求めてパタゴニア沖をさらに南下し続けた。だが、時季が悪くなり、ついに越冬することを決意した。 その越冬地がサン・フリアンであった。今回のパタゴニアの旅においては、そのことを知らなかった。故に、国道からそれてすぐの距離にある サン・フリアンに立ち寄ることはできなかった。サン・フリアンを訪れ、マゼランが船隊を陸揚げし船底掃除や休養を行なったというサン・フリアン 湾の浜などをたむろしたのも、同じくJICA離職の5年後のことであった。実は、サン・フリアンの少し南方でマゼラン船隊のうちの一隻が難破した。 そして、たまたまだが、その時立ち寄った町営の郷土博物館にその難破船の木片が展示されているのを目撃したのもその時であった。

  全く見当違いの目論見で、海峡渡海はそんなに簡単ではないことが分かり、家族のことを慮って、フエゴ島行きを諦め、 翌日にはアンデス山脈に向けて北上に転じた。まず200km余先のエル・カラファテを目指した。カラファテはアンデス山中にありながら壮大な氷河を すぐ間近で見られることで世界的によく知られている。「ペリト・モレーノ」という大氷河が、その幅数㎞にわたりアルゼンチン湖に崩れ落 ちる。その自然の光景は圧巻と言う他ない。大氷河はまるで生きているかのように、不気味なうめき声というか軋み音をたてながら、 一日何メートルか、ずり下っているという。崩落するその最先端では氷河がひび割れ、鋭いのこぎりのエッジ状になっている。そして、 そのエッジが重力に堪えかねて、あちこちでドドーンという音と共に湖面へ崩れ落ちる。湖面はそのたびに空中髙く大飛沫を上げ、大波が走る。 飛沫がわが身に降りかかるかのような錯覚に囚われるくらい、氷河のすぐの対岸陸地から間近に巨塊の崩落を目にすることができる。 迫力満点である。鳥肌が鋭く立つ。

  別日には、カラファテの近くのプエルト・バンデーラ港からアルゼンチン湖遊覧船に乗船して「ウプサラ氷河」を見学するツアーに参加した。 大氷河が湖に幅何㎞にも渡り崩落するところを船上から眺められた。湖面には崩落した大小数多の氷河片が浮かび、船はそれらを押し分けて ゆっくりと進みゆく。翌日いよいよ砂利道の超距離走破を目指して出立である。パタゴニアの中の最もパタゴニアらしい区間であった。 少し緊張した面持ちで当日の朝を迎えた。目指すは砂利道が終わる750kmほど北のパソ・リオ・マーヨという田舎町であった。カラファテから70kmほど 北上すると、ビエドマ湖越しにアンデスの名峰、高さ3,400mのフィッツ・ロイ山ののこぎり刃のように連座してそそり立つ岩壁姿を遠くに 望むことができる。パタゴニア南部のアンデスのうちでも名峰中の名峰である。フィッツ・ロイを遠目に観ながら、砂塵を巻き上げ疾走を続けた。

  ガソリン切れで立ち往生にならないか心配なので、20リットルの予備ガソリンを入れたポリ容器を最後尾に積んでいた。さすがにガソリンが 車内に臭った。1~2時間に1台ほど他車とすれ違うが、フロントガラスには対向車の跳ね石でガラスが破損しないよう頑丈な金網を張り付けて いる車もあった。また5~6mはあろうかという無線機用アンテナを髙く伸ばし揺らしながら猛烈な勢いですれ違う車もあった。 途中小さな村を通過した折、念のためガソリン補給のためガソスタを尋ね歩いた。それらしきスタンドがあった。村人専用のようであった。訊けば「今日はあるよ」 という。取敢えず満タンにしてもらった。投宿予定地はまだまだ先こことで、結局予備ガソリンも途中で使いながら、目的地とした田舎町に 何とか辿り着けた。途中で故障車に呼び止められ、次の村で応援車両の派遣を求めるメッセージを託されたりもした。

  砂利道をようやく抜け出したところのパソ・リオ・マーヨという小さな町で投宿先を見つけ落ち着いた。日本で600㎞以上にも及ぶ 砂利道を、予備ガソリン用ポリタンクを携えて走破するようなところは、はるか昔になくなっていることであろう。この日事故や故障なく辿り 着けるか内心心配であったが、手に汗握り息を詰まらせるようなスリリングなドライブは無事終わった。念のためタイヤを点検したら一本がパンク していた。チューブレスであったので何とか持ち堪えたようであった。予備タイヤ一本は必需なので、早速、町のパンク修理屋を探し回り厄介になった。

  翌日からは舗装道路であったし、走行予定距離も3~400kmであったので、少し余裕が出た。少し寄り道をして、地理的にみて パタゴニアの最もど真ん中の地に足を踏み入れた。サルミエントという田舎町から「バージェ・ルナール(Valle Lunar)」という「月の谷」を目指した。 想像上のことだが月の砂漠のような景色を目にすることができるという。地平線の果てまで荒涼とした起伏の多い土漠が続く渓谷の中に、直径1mから1.5mほどの 大木の化石がいたるところに転がっていた。化石化した太古の森(Bosque Petrificado)ということらしい。この渓谷が「月の砂漠」と言われれば、 そうなのであろうと思い込んでしまいそうであった。その後、アンデスの麓に戻り再び北上し、エスケルという割りと大き目の地方都市に到着した。

  翌日エスケルの市街や周辺のアンデスの山々を散策した後、200kmほど先にある「南米のスイス」と称される例のバリローチェを目指して アンデス山麓沿いに北上した。バリローチェの数10㎞手前にある「マスカルディ湖(Lago Mascardi)」からさらに渓谷を奥深く分け入り、 ほどよいキャンプ地でテントを設営した。今回の旅で二度目の大自然の中での野営生活となった。奥深い渓谷や静かに水をたたえる湖、針葉樹林の 森、ニジマスの棲息しそうな渓流、そして万年雪が融解して大きな空洞を見せる雪渓などを散策したりした。

  数日バリローチェ郊外のドイツ系ロッジに投宿し、市街中心部の目抜き通りをそぞろ歩きしながらウインドウショッピングなどを楽しんだ。 昨年も同じように家族で楽しんだことを思い出しながら、これまでの4000kmほどの長旅の疲れを癒した。帰途には、400kmほど先のリオ・ネグロ州 都ネウケンへ移動し、共同プール付きのモーテルに投宿し、未だ日没には余裕があり子どもと水浴びを楽しんだ。 翌日500km先のバイア・ブランカを目指した。昨年同様、ネグロ川とコロラド川との両岸間にある区間(チョエレ・チュエル(Choele Choel)と リオ・コロラドの区間)にさしかかった。まさしく地図上に定規で直線を引いて、その設計通りに100km築道したという他ないほど 真っ直ぐな道路であった。

  行けども行けども地平線から道が湧きあがって来た。見渡す限り低灌木しか生えていないパタゴニアの大地が広がる。 100kmの区間に、川があろうと丘を上ろうと下ろうと、道には何一つ緩やかなカーブすらもなかった。昨年のバリローチェへの旅の往復路で 経験済みの道路であった。故に驚きはしないが、そこをドライブするのは苦痛であり、再び通過したくはなかった。今回の苦痛は倍加どころ ではなかった。「アリス」のCDをセットしボリューム一杯にして、車内にがんがん響かせながら、ひたすら睡魔と闘うしかなかった。 ボリューム一杯でも家族全員すやすや眠り込んでいる。時にブレーキを強く踏込んでイタズラするが、まだまだ夢心地であった。 両手をハンドルに紐で縛りつけておきたかった。アクセルペダルを踏む右足の膝に重石でも置いて、ペダルを押さえ付けておきたい 衝動にも駆られた。結局、距離100kmのドライブにおいてハンドル操作することなく走破し終えた。 何という「運転手殺しの区間」であることか。ドライバーへの嫌がらせのために築道したとしか言いようがない。

  こうして、バリローチェから3日掛けてパタゴニアを横断し、無事18日ぶりにマル・デル・プラタに帰投した。パタゴニアを海岸沿い南行、 さらにアンデス沿いに北行、5,000km余を駆けた。生涯においてそんな長距離の走破はそうざらにできるものではない。私と家族のかけがえの ない共通体験となり、その経験値と思い出を大事にしまい込んだ。一人で何とか運転しきった。今更ながら家族全員の若さに感謝。青春 万歳であった。

  さて、パタゴニアへの旅から半年が経ち冬を迎えた。離任する予定にした1987年3月まで実質半年余となっていた。当地では冬休みの時季 であった。そこで、もう少し旅の実体験をしておきたかった。今度は、南ではなく、未だ見ぬ北の大地のアンデス高地、それもボリビア との国境の町を目指した。パタゴニアへ旅した年と同じ1986年の冬のことである。「ア」国は実に広大であった。国土面積の狭い発展途上国 への赴任であったならば、3年も暮らせば休暇旅行はほぼ間違いなく、家族を伴ってどこかの先進国などに健康管理を目途に出かけるか、 一時帰国するのが普通であろう。だが、「ア」国赴任中、一度たりともブラジル、チリ、ウルグアイなどの「海のある隣国」すらも旅することは なかった。私的には「ア」国はそれだけ広大で訪れてみたい土地が多かった。

  車に再び生活用具一式を積み込んで、「ア」国第二の大都市コルドバへ一気に駆け上がった。そして、トゥクマン、サルタ、フフイ3州へと 巡った。またしてもマル・デル・プラタとボリビアとの国境の町ラ・キアカとの往復などで4,500㎞ほどの長旅になってしまった。 3州にはスペイン植民地時代の面影が色濃く残っていた。コロニアル様式の古い荘厳な教会や政府庁舎などの建物やその他伝統様式の一般家屋 が多くみられことによろう。また、我々と同じモンゴロイド系インディヘナが多く暮らす町や村々の風景が異国の情景を醸し出していた。 サルタは1582年にボリビアから南下してきたスペイン人によって建設された植民定住地であり、ボリビアのアンデス山中のポトシにて、1945年頃 開発された鉱山から産出された銀のインゴット、その他アンデス山中産出の鉱物などをブエノス・アイレスへ運ぶ中継地として栄えた地方大都市 である。今もその植民地支配時代における繁栄を垣間見ることができる。

  特に「ウマワカ(Humahuac)」と言う、フフイとラ・キアカとの間にある「ウマワカ渓谷」の中心の町は、インディヘナが多く暮らす 観光地として名高い。ウマワカでのこと、インディヘナの音楽グループが民族衣装を身にまとい、アンデス地方の伝統的なフォルクローレを 聴かせてくれるというレストランを知り、良い機会とそこでランチを取りながら、人生で初めて、チャランゴやケーナなどによる生演奏で 聴くことができた。「花祭り(エル・ウマワケーニョ)」「コンドルは飛んで行く(コンドル・パーサ)」、「カルナバル」など、アルゼンチン のアンデス高地山中のいわばフォルクローレの本場で聴けたのは嬉しかった。たったそれだけのことだが、酔いしれ感激の涙であった。

  最も印象に残るもう一つは、ウマワカ渓谷における、今まで見たこともない山脈風景である。同渓谷は「南米のグランドキャニオン」と呼ばれる らしい。山々の稜線から裾野にかけて地層をむき出しにして連なる。地層は豪快に大きく褶曲し波打つ。各層には異なる鉱物が含まれるようで、 その鉱物特有の色彩を放っている。褶曲した何層にも重なった地層は、虹色のようなグラデーションに彩られる。 そんな大きく褶曲し露出する壮大な地層の自然美に魅了された。生まれてこの方こんな豪快な地層の造形美を見たのは初めてであった。 渓谷にみるアンデスの山々はいかにも荒々しい原野そのもので、その中に巨大なサボテンが点在して生えるという独特の風景を創り出している。 ウマワカ渓谷とその周辺の道筋にはインディヘナの村々が点在し、リャマなどの動物との素朴な暮らしぶりを垣間見ることができる。

  更に北上し、ウマワカからボリビアとの国境の町ラ・キアカに向かった。高度はアップダウンを繰り返しながら4,000mを超える峠を越えた。 ウマワカのガソスタでキャブレーターのガソリン噴射性能の調整を行った。ところで、アンデス高地では、ホテルの部屋は一階から上階へと 順次埋まっていく。日暮れ近くにチェックインしたために最上階の3階の部屋しか空いていなかった。しかも、エレベーターがたまたま故障 中だったので、三階まで家族4人分の身の回り品だけでも、何度も往復して運び上げねばならかった。高山病に罹らないよう、ゆっくり一歩 一歩踏みしめて担ぎ上げた。車で3~4,000m級高地を昇り降りしていたせいなのか、高度にかなり馴致していたのか頭痛を免れほっとした。

  ラ・キアカに辿り着き、国境のゲート前で車を止めた。向こう側にボリビアの町風景が垣間見える。国境を越える予定がなかったので、 JICA事務所の渡航許可証はなかった。しかし、ゲートを前にしてボリビアへ一歩足を踏み入れたくなった。だが遅きに失した。 後に地図を紐解くと、300kmほど北のアンデス山中ににポトシはあった。1545年頃スペイン人がそのポトシで銀山を発見しインディヘナを こき使って開発した。その後の銀産出量は莫大なもので、スペイン王室に富をもたらし続けた。それらの銀のインゴットの多くはペルーのリマへ 運ばれ、船でパナマ・シティへと送られた時期があった。南米の金銀財宝はパナマ・シティからパナマ地峡のジャングルを通る「カミーノ ・レアル」という王の道を経て、カリブ海側のポルトベーリョの港へと運ばれた。

  ポルトベーリョでスペインのガレオン船に積み込まれ、キューバ島のハバナへと移送された。南米大陸北岸のカルタヘナなどの他の港からも 運び込まれた金銀財宝と合わせて、本国から年1回仕立てられてスペイン本国からやって来る船団に積み込まれ、本国セビーリャへやカディス へともち帰った。スペイン王室は長年にわたる銀の採掘によって、王国の財政が支えられ国家の繁栄がもたらされたことは歴史が示すとおりで ある。そんなポトシまではラ・キアカから国境からポトシまでおよそ300kmの距離であった。2日もあれば十分往復できる道のりであるが、 またしても国境を越えることはなかった。14年後に隣国のパラグアイに3年赴任する機会があったが、ポトシへの旅は実現できなかった。 ブラジル、チリ、アルゼンチン、ウルグアイなど「海のある隣国」を旅することに大半の時間と資力を費やしてしまったからである。

  アンデス高地への旅とともに冬期休暇は終わり、業務や生活面のあらゆることが一段と気ぜわしくなり始めた。半年余後の離任を視野に 入れつつ総仕上げのモードに入って行った。そして、年が越えると正に帰国の準備や引き継のそれに追われた。交代の長期専門家を迎える頃には、 マル・デル・プラタを離れる日時が日程に上った。そして、いよいよマル・デル・プラタに別れを告げる日が迫って来た。 アルゼンチンでの仕事や生活を通じてたくさんの大中小のエピソード、驚嘆のありえないエピソードから、それこそがラテン系異文化とエピソード と思えるもの、さらに「へえ! そうなの」という軽めのエピソードまで、たくさんの挿話が生まれた。次節ではその幾つかを紹介したい。 ご興味なければ読み飛ばし次章へとページをお進めいただきたい。



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