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    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第1節 農業試験栽培事業への投融資に前のめりになる


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     第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
      第1節: 農業投融資と向き合う(その一)/中国での大豆栽培試験
      第2節: 農業投融資と向き合う(その二)/5ヶ国での栽培試験
      第3節: 契約課でパナマ運河代替案調査に関わる
      第4節(作成中): 国際協力最前線で働く職員の健康と福利厚生を支える
      第5節(作成中): 「英語版・海洋白書/年報」の発行にチャレンジする

    第1章 | 第2章 | 第3章 | 第4章 | 第5章



  中国での搾油用大豆栽培を皮切りに、幾つかの試験栽培調査団を組織し、現地を踏査しながら試験栽培事業構想を模索した。その対象とする 地域・国や農作物はさまざまであった。体験したことのうちで印象深かったエピソードを交えながら、5ヶ国における栽培事業の概略を記したい。

  フィリピンにおけるアバカの試験栽培事業。アバカとはバショウ科バショウ属の繊維植物で、外見上バナナの樹に非常によく似ている。 マニラアサ(マニラ麻)とも呼ばれ、その丈夫な繊維はロープなどの原材料となることはよく知られる。アバカ繊維は水に強い特性をもつので、 紙幣・コーヒーの濾過紙・ティーバッグ・コンピューター紙などに利用されたりする。申請した日本法人の本拠地はルソン島南部にある 地方都市レガスピーの郊外にあった。レガスピー近傍には富士山のような均整のとれた円錐形のマヨン火山がそびえることで知られる。 そこにアバカの栽培地を有し、試験栽培を部分的ながらも既に始めていた。また、その企業の現地合弁法人がアバカ繊維加工工場を長年に 渡り稼動させ工業原料生産にいそしんでいた。

  同工場にとっては周辺農家から安定的にアバカ繊維原料の供給を受けることが企業の存続にとって死活的課題であった。そこで計画される事業とは、 周辺農家がアバカを植栽するに当たって最適な品種を選抜すること、その栽培方法を確固たるものにした上で、工場近郊の農家へ栽培を委託 し供給量を増大させるというものであった。繊維の品質の良い原材料の安定的な調達を拡大させ、農民の雇用拡大につなげ、彼らの収入増と 生計向上に資するという事業であった。

  目ぼしい産業のない地方経済にとって、アバカ繊維の供給拡大は経済振興にとっても、大いに期待されるものがあった。他方日本では、 各種用途が約束され、安定した需要が見込まれ、また市場や流通経路が既に確保されて おり、アバカ繊維原料を受け入れる安定的産業基盤があった。アバカの大きな茎から長い繊維だけを引き抜く作業は農民にとって重労働であり、 往々にして職業病を引き起こす懸念があった。同企業はその改善のため簡便で安価な繊維抽出機をJICA融資でもって開発し、農民の労働環境 改善に役に立てたいとの意向であった。

     さて、フィリピン・ミンダナオ島ダバオや南米エクアドルのグアヤキルなどの熱帯ジャングルで長年アバカ栽培などに従事した経験をもつ 団員らを中心に、いかなる試験栽培を行なうのが合理的であるか、団内で検討を重ねた。また経営計画担当の東さんを中心に、長期収支計画 などを作成するために必要な財政・経済関連データを収集した。

  余談だが、私的には全くの不注意にして、まさかの出来事に遭遇した。マニラの日本レストランで東さんと昼食を取った。その後夕刻時に 団員全員で食事を取っていたら、対面に座っていた東さんと私とが事前に申し合わせていたかのように、急に顔を見合わせた。 何となく腹の具合にかすかな異変を感じてのことであった。二人は食事を止め店外で一時休息を取った。昼食内容を比較し合って、辿り着いた 結論は、日本レストランで共通して食した野菜サラダに食あたりしたことを、二人は確信した。

  彼は青年海外協力隊員時代にインドのど田舎での苦い経験があるためか、何故か抗生物質を持参していて、その晩服薬し 翌朝には回復した、と後で聞かされた。こちらは正露丸しか手持ちがなく、全く効かなかった。水鉄砲のような猛烈な下痢が続き、 脱水症状がひどく、ふらふらであった。翌日は土曜日でレガスピーへの移動日であった。とにかく抱えられながらも飛行機で移動した。 レガスピーですぐに地元の病院へ駆けつけ、点滴を受け始めた。診てくれた女医から一体どんな検査をどの程度受けたのか記憶にないが、 症状は変わらず、ひどい下痢が続いていた。午後になって女医から大粒の抗生物質一錠を渡された。半分に割って飲んだ方がよさそう という思いがよぎったが、一錠丸ごと飲んだ。腸チフス、ノロウイルス、何がどうなのか、女医も何となく病名を確定しかねている 様子に見えた。

  指示されるままに服薬したが、その1,2時間後猛烈な悪寒と震えが始まり、体温と血圧の低下でベッドの上で暴れ回った。また、激しく おう吐した。女医はそのショックを見て、実習中らしい若い女性看護師4,5人に湯たんぽを大至急用意するよう指示した。 暫くして、彼らは湯たんぽを私の体中に置いて、暴れる私に上から乗りかかるように押さえ込んだ。そこに、たまたま見舞いのため病室に入って来た 団員がそれを目にして、びっくり仰天した。今日にでも退院できるものと思い込んでいた彼らは、とんでもない事態に遭遇したようだった。 相当心配して、すぐにJICA事務所に連絡すべきと話し合ったらしい。

  その後、運よくというか、それとも女医の判断通りなのか、湯たんぽの効果が出てきた。10分ほどで身体が暖かくなり出し、震えは治まり、 湯たんぽがやたらと熱く感じ、火傷でもしそうなくらいであった。「死なずに済んだ」というのが正直な 思いであった。ショック状態で、体全体をガタガタと震わし暴れている時は、自身でもこれは相当やばい状態であり、生死を彷徨っているの ではないかという恐怖を抱いた。「自分はフィリピンのレガスピーのこんな病院で、生野菜に当たって、一錠の薬で死ぬ運命なのか」との 思いがよぎった。

  フィリピンでは飲料水の水質が良くなくて下痢に罹患する患者も多く、症例は山ほどあり、医者も医療上の処置を十分心得ているものと、安心しきって 病院にお世話になったつもりであった。ところが、どうもそうではなかった。病院で一夜を明かす気持ちには到底なれず、自宅療養するとか 何かの理由をつけたのか、つけなかったのか定かでないが、恐ろしくなって、夕刻までに夜逃げならず「昼逃げ」をした。

  退院後は、本案件の申請企業の事務所などでしばらくお世話になってソファーをベッド代わりに休息を取らせてもらった。そして、梅干しとおかゆを頂いた。翌日にはかなり回復し、 ふらつきも治まる気配となり、翌々日には普通に業務に復帰することができた。マニラに戻った後レストランのマネージャー(日本人) にそのことを伝えたところ、彼曰く「実は私自身もあの時に下痢をしていた」という。全く笑えない話である。やはり海外では 生ものには十分注意すべきことを胆に命じた。特に現地に到着して1週間以上は一切火を通していないものを口にしないことを徹底した。

  休題閑話。ヨルダン南部の港町アカバの市街地はともかく、1,2㎞離れた郊外は見渡す限り岩山と砂漠の広がる荒涼とした大地である。 栽培候補地はアカバから北東数10kmの距離にある砂漠地にあった。そのまま国道を一時間も走ればサウジアラビアとの国境である。 そんな砂漠地のど真ん中で井戸掘削を行ない、センターピボット方式などの灌水方法をもって小麦を試験栽培するという事業であった。 砂漠であっても、小麦は水と肥料さえあれば立派に生育する。

  日本の某商社が、ヨルダン政府の元農業大臣が経営する現地法人とタッグを組んで 小麦生産事業にチャレンジしようとしていた。砂漠で化石水を掘削し地下水を汲み上げた上で、小麦栽培に供する最適品種の選抜、施肥や灌水 の方法(センターピボット方式、点滴方式)などの諸条件を変えながら栽培試験を行ない、最大収量を得られる栽培方法を確立し、 持続的採算性の取れるビジネスを目指すというものであった。近場にはそんな開発事例が幾つか見られた。砂漠の地中下に存する化石水は 天然の雨水で補充されることは殆どなく、一度全て汲み上げてしまうと枯渇に至るという。

  周辺の掘削実績からしても化石水が得られる土地は粗方目星がついているが、深さ数百メートル以上の井戸を何本も掘削するのはコストが嵩む。また井戸を 中心に半径50mほどのセンターピボット灌漑システムの導入も高くつく。動力源としての重油燃焼の大型の自家発電装置も要る。何もない砂漠の中で、 さらに農作業機械、農業技術者や作業員らの生活インフラと食料補給システムなどの構築も必要となる。全ての基盤を零から築くのは やはり経費がかかる。

  ヨルダン政府は大量の小麦を輸入し、補助金を出して国民に低価格の小麦を供給している。だから、小麦を国内生産できれば 輸入代替でき、大いに外貨節約となる。しかし、輸入小麦価格は補助金によって低く抑制されており、他方では砂漠での小麦生産は非常に高くつく。 ビジネス事業者からすれば、相当の政府補助金を当てにしない限り、その採算性を持続させられないのは自明である。 果たして、ヨルダン政府・農業省などの農業・食糧政策として、実際の小麦生産価格にいくらの政府補助金を投入して国内での小麦生産を 下支えするつもりであるか、それが大きな焦点となる。また、補助金の変動、その支給期間などの見通しなど、農業省や農業経営団体などに 訪ねいろいろな情報の収集に務めた。でが結局、待てども正式の融資申請はなかった。

  アカバから栽培予定地に行くのにわざわざ土地勘のある地元のヨルダン人運転手兼ガイドを雇った。運転手はショートカットのため、 国道からそれて砂漠の中へと四駆を走らせた。道などどこにもない全くのオフロードであった。一時間ほど走った時点で、団長が一言 漏らした。「だいぶ前に同じ景色を見た。元に戻って来たのでは?」。砂漠風景の中に見覚えのある岩山に気付いたのである。 まさかと思ったが、結局、砂漠の中を大きく周回していたのである。運転手はどうも方角を見誤ったようであった。 信じ切っていた我々は、砂漠と岩山しかない炎天下の大地を行くことの怖ろしさを思い知らされた。やはり多目にペットボトルを積み込んで いて良かった。一旦四駆のエンジンを止め、ガイドを落ち着かせ、向かうべき方角をしっかり自己確認させ、さらに全員飲料水で喉を潤して、十分息を ついたところでリスタートした。

  ところで、アカバ湾をはさんで対面にはイスラエルのエラートの港町が目と鼻の先に見える。アカバは洋画「アラビアのローレンス」でよく 知られる。ヨルダンにとっては、このごく細長いアカバ湾最奥のアカバ港が外洋へ通じる唯一の出入り口であり、そこでの自由で安全な船舶通航 は国家の生命線である。アカバの海辺のデッキチェアに身を横たえながら、そしてまたボートで少し沖に出て錨を降ろす貨物船を眺めながら、 そのことを思い続けていた。

  アカバから首都アンマンまで「キングズ・ハイウェイ」が通じる。距離にして250kmほどである。そのハイウェイこそが、 アカバとアンマンを結ぶ唯一の幹線道路である。アカバは、海との唯一の結節点であり、またアンマンへ通じる陸との唯一の結節点である。 昼夜を問わず爆音をうならせてひっきりなしにコンテナー輸送トラックなどの大型車両が行き交う。ユネスコ世界文化遺産で名高いペトラは かなりアカバ寄りにあり、ハイウェイから西側に少しそれた内陸部にある。

  アンマンから塩湖の「死海」に下った。初めて死海を見ることができると思うと鳥肌がたった。市街地を抜け、ヨルダン渓谷の下方底地に 死海を見下ろすことができる、見晴らしの良い原野を通りかかった。そこにはトーチカがいたるところに設営され、その原野には地雷が埋まっているという。 どんどん谷底に向けて下って行き、マイナス400mという世界で最も低い地へと向かう。そこに死海がある。出がけに水着を忘れて、仕方なく 岩陰に隠れるようにしてパンツ一枚になって死海へそろりと入った。美容にいいとか言われる、ヘドロの様なネズミ色の海底泥に違和感を 感じる。潜って泥をすくいあげる気にもなれなかった。

  平泳ぎでもクロールでも、泳ごうとするも泳げない。泳ごうとすると、出っ張った 腹部だけで体が浮き上がりそうである。上半身と下半身は背り上がり(実際は背り上げっていないが、そう感じる)、エビ固めにあって いるように感じ、背骨が痛くて我慢できなくなる。塩分濃度が濃いことから浮力は極めて大きい。臀部の浮力だでけ浮いているような感覚で、 両手両足は斜め上方に大きく空中に曝け出している。新聞どころか分厚い「広辞苑」でも十分読める。朝出がけに髭を剃った折に顎に擦り傷を作って しまったことを忘れていた。少しは泳いでみようとして海水が顎にびっしゃっとかかったとたん、痛さに飛び上がった。ひりひりする猛烈な痛さで拷問の憂き目に あった。泳ぐどころではなく、すぐに脱出しシャワーを浴びても拷問は続いた。

  死海からヨルダン川に沿って北上すると、いわゆる「ヨルダン西岸地区」が視界に入る。イスラエルの占領地区となっており、多くの パレスチナ集落が点在する。北上の先には、ヨルダン・シリア・イスラエルの三国国境となっている渓谷が眼前に現れる。渓谷のすぐ 向こうの対岸では、イスラエル兵士がパトロールしているのが見える。北方の遠くの先には、1976年の第三次中東戦争でイスラエルが占領したゴラン 高原が小高くそびえている。ゴラン高原の南側にヨルダン、北側にシリアが位置し、ゴラン高原は両国の動きを監視できる絶好の高台である。 イスラエルがずっと戦略的要衝の占領地としてきたことがよく見て取れる。

  三国国境周辺では、あちこちに地雷原マークが立てられている。ヨルダン とシリアの国境をなす渓谷には、かつてオスマントルコが敷設したメッカへ通じるビジャーズ鉄道に架かる橋がそのまま残されている。 また、ヨルダン側の道路際の繁みには何台もの戦車がグリーンネットで覆われ配置されており、緊張感が漂う。途中、ヨルダン川沿いの 農業地帯における作物生産には命綱ともいえる灌漑用水路を訪ねた。

  さて、ヨルダンも初めてであったが、コスタリカも初めての訪問であった。中米地峡の亜熱帯域にあって、高度零メートルから数千メートル の高山地帯まであって、比較的狭い地理的エリアにおいて多種多様な植生を一日にして楽しめる。つまりジャングルの植生から高山植物まで、半径 100km域内で楽しめる。そんなコスタリカでの試験栽培の対象はカカオであった。標高千数百メートルの高原にある首都サン・ホセからコーヒー畑が 延々と続く高原地帯を西方に走り抜け、太平洋岸に近い亜熱帯域平野部にあるカカオ栽培地を視察した。また、あちらこちらのカカオ生産地や その醗酵施設などを精力的に視察し、カカオの試験栽培の在り方を検討した。また太平洋岸に最近建設されたカルデラ港という大型船発着埠頭 などの港湾インフラ事情を視察した。首都では、カカオなどの貿易促進機関などで生産や貿易見通しを聴取したり、農業省関係部局でその振興政策や 助成制度などを訊ねた。申請は某商社であったが、栽培事業主体は自動車販売を手掛ける現地合弁企業であり、カカオ栽培は初めてのチャ レンジであった。結局のところ、最後には後ずさりしてしまい、融資申請はなされなかった。

  ところで、カカオ栽培地から1時間ほど先にある港町プンタレーナスでのこと、団員全員で夕食後ぶらぶらと夕涼みのつもりで海岸通り を散策していた時に、場末のバーを見つけて一杯やろうと立ち寄った。中は薄暗く天井にミラーボールが回っていた。4,5人の女性がいて、 インビテーションすれば一緒に飲んだり駄弁る相手をしてくれそうな、キャバレー的な雰囲気もあった。で、言葉を交わすと、バーの経営者は日本人だというのが分かった。 その後どこからともなく、その青年オーナーが現われてきた。港町のこんなバーで、日本人オーナーと遭遇するとは思いもしなかった。 彼曰く、「店を畳んですぐにでも帰国したい」。「だが借金があって帰国できない」と、見知らぬ我々に身の上話をするのであった。 1988年4月のことである。

  その後、2007-2009年に隣国のニカラグアに赴任していた時のこと、海洋博物館らしき施設などを訪ねるためにプンタレーナスへ出掛けた。 市街の海岸通りを歩いていた時、ある交差点にさしかかった。大型観光クルーズ客船接岸用の一本の長い桟橋から直進して来る道と交差する 四つ角であった。その一角にレストランがあり、たまたまその屋外テラスで食事を取ることにした。

  その昔バーに入ったのは夜のことで、店構えや正確な位置などは、ほとんど覚えていなかった。唯一記憶があったのは、 そのバーの店構えとして、交差点の四つ角に面した部分が、四角いケーキの一角をナイフで縦に切り落としたような形をしていて、そこを 出入り口にしていたことである。テラスで食事をしながら、「例のバーはこの辺だったかもしれないな」と、交差点の対面にある店を見た。 普通どこにでもあるホットドッグ屋のような店がそこにあった。その時、どことなく見覚えのある店構えであることに気付いた。

  外観はすっかり変わっているが、まさしく、入り口付近はケーキカットした構えであることは不変であった。 バーを探そうと前のめりになっていた訳ではないが、そのバーに「再会」してしまった。訊けば、かつてはバーであったとのこと。間違いなかった。あれから20年以上の 歳月が流れていた。昔、通りすがりにたまたま一時間ほど過ごしただけのバーなのに、心のどこかで「再会」できることを期待したのであろうか。 自身でも不思議であった。

  思うに、青少年の頃に、南米などへの海外雄飛に憧れていた時期があった。そして、自身も中南米を放浪の末あの青年のような境遇に なっていたかもしれない、あるいは中南米のどこかで人生の遠回りや道草をしていたかもしれない。同じ中米の国に暮らす者として、その日本 人青年のことが、そしてバーでの情景がずっと気になっていたからかも知れない。そして、彼には当時帰国できないどんな経緯があり、 人生ドラマがあったのか聴いてみたかったのかも知れない。とは言え、今でも帰国できずバーに釘付けになっていたとすれば、どれほど 多くの人生ドラマを聴かされる破目になっていたであろうか。千夜一夜物語のように延々と身の上話が続いたかもしれない。

  さて、南洋のミクロネシア連邦のポナペ島での胡椒の試験栽培事業というのがあった。胡椒の最適品種の選抜、施肥や植栽などの栽培法を確立した後に、一般農家に 委託栽培を普及させる計画であった。胡椒生産によって、ポナペの国家歳入に大きな貢献が見込まれた。 「黒いダイヤ」としての胡椒が本格的に島内で生産され、輸出が本格化し、例えばハワイなどでの観光土産用に販売できれば、ポナペの歳入増に 大いに貢献できるとの期待があった。ブラジルのアマゾン川支流域のトメヤスという日本人移住地で、JICAの前身である海外移住事業団時代に 入植者に胡椒栽培の指導などに携わったことのある胡椒栽培専門家が参加しての調査で、時間をかけて真剣に試験栽培計画が練られた。 ポナペの関係大臣、議会関係者や行政官など、大いに歓迎してくれ協力的であった。

  栽培計画は二人の栽培専門家によって練り上げられた。管理事務所兼作業所の建設費の他、苗木・肥料・支柱などの材料購入費、 植栽管理主任や労働者らの人件費など、支出計画はそれほど複雑ではなかった。融資申請者は一個人で、融資と自己資金をもって栽培事業に チャレンジする手はずであった。試験栽培のための土地の借り上げとその境界線の画定についてはポナペの特殊事情への配慮が必要であった。 行政官庁には土地台帳や境界図などの書面はあるものの、それを画定させるための最終権限はポナペの酋長が握っていた。行政官庁は事実上、 境界線のことにはほとんど口も手も出さない様子であった。

  また、例えば栽培作業者の雇い入れにおいても酋長の了解が不可欠であった。島内住民の儀式のために提供された食べ物などの島民間での 配分や婚姻などに関する酋長の権限は絶対的であるという。島外者には到底想像も及ばない不文律のしきたりや掟があり、酋長は絶対的 不可侵であるという。調査団としても、試験事業が酋長の幾多の局面で協力を得ることで円滑に執行できるように、現地滞在中に、彼の権威に 敬意を表し、また仁義を切るべくできる限りの努力を行なった。

  ところで、ポナペ島の周囲の沿岸部はほとんどマングローブに覆われ、魚類や両生類などの生物に重要な棲息環境を提供している。島を周回してみると、 鉄道の枕木のような立方体の石材が日本の城の石垣のように積み上げられ、マングローブに覆われる「ナンマドール」という遺跡に 出会った。満潮のため遺跡の周りは海水に洗われ、そこをカヌーで散策した。休日のことであった。サンゴ礁の島になぜそんな石材が運び込まれ 組み立てられ、今は廃墟になっているのか。世界の不思議の一つらしい。

  最後に、ブラジルでの椿の試験栽培事業。茶の栽培から椿の栽培に転換して、椿オイルを抽出するという事業であった。候補地はサンパウロから内陸部に 100kmほど入った山深い高地であった。日本で長く椿栽培の経験のある専門家に試験栽培方法を検討してもらった。周辺では盛んに茶の商業的栽培が 行なわれていることから椿栽培の適地でもあろうが、農家に椿栽培へのインセンティブをどれだけ与えられるかが大きな課題と思われた。 椿のエセンシャルオイルは主に化粧品に利用される予定であった。
  さて、1988年9月、今回初めてサンパウロ市街地に入ることができた。サンパウロは治安上の理由で、JICA関係者は 業務目的以外で足を踏み入れることは禁止されていた。今回ようやく市街地に、それも中南米随一の東洋人・日本人街の「リベルタージ地区」 に足を踏み入れることができた。同地区は日本人移民らが長きに渡り築いてきた街であり、ブラジルの全日本人移民のふる里そのものであろう。

  青少年の頃、サンパウロ市街地が華やかに賑わっている写真を見たことがある。いつかは船乗りとしてコーヒー積出港サントスに入港し、 華やかなサンパウロやそのリベルタージ地区を訪れて見たいと思い描いていた。今回サントスに立ち寄ることはなかった。サントス港には 1908年に、初めての日本人集団移民を乗せた「笠戸丸」が、その第14番埠頭に接岸した。移民の多くはコーヒー農園に入り込んで行った。 その労働環境は凄惨なものであったといわれる。リベルタージは、そんな日本人移民とその子孫らが、寄り合い住みつき肩を寄せ合い、 街を形成した。日本人移民のブラジルでのふる里ともいえる同街区に足を踏み入れ、移民たちの歴史の重みに思いを寄せることができ、 ここでも感涙するばかりであった。サントス港の第14番埠頭を訪ねることができたのは、パラグアイに2000年から2003年に赴任していた 時であった。椿栽培調査から10数年後のことである。船乗りになっていれば、移民船「あるぜんちな丸」や「ぶらじる丸」で、移民らを サントス港に送り届けていたかも知れない。

  ところで、椿栽培試験の候補地において茶栽培をする日本人一世らしき老夫婦の顔にはこれまでの長年の労苦がしわに遺憾なく現われていた。 昼食時期に重なり、団員に大きなおにぎりをふるまってもらった。夫婦の暮らす家屋は粗末という他なかった。夫婦の過去の人生ドラマを 知る由もないが、恐らくは聴くも涙語るも涙のストーリーであったことであろう。異国のこんな片田舎における温かいもてなしに、 また感涙であった。残念ながら、椿の試験栽培が彼の地で実施されたという噂は一度も聞いたことはなかった。他方、ブラジリアのJICA事務所 に足を運び調査状況を報告し、またいろいろ情報も得た。市街地の展望塔から360度、大平原を地の果てまで眺めた。眼下にはなおも建設 途上という新生首都ブラジリアが広がっていた。

  余談だが、担当することはなかったが、過去の成功事例として、カリブ海の国ジャマイカにおいて日本企業がJICA融資を得てコーヒーの試験栽培事業に チャレンジした。その後本格的なコーヒー栽培事業が展開された。後に「ブルーマウンテン」という、知る人ぞ知るコーヒー豆・ブランド として定着している。ブルーマウンテンと称するコーヒー豆はある山地の一定高度の土地で栽培された特定コーヒー豆にしか名付けることが許されない という。その経営計画を担当した東さんから聞いた。

  最後の余談であるが、最大のJICA投融資事業として大輪が開いたのは、ブラジルの中央部に位置する「セラード」と称される不毛の大地であった。 「セラード」とはポルトガルやスペイン語で「閉じられた」という意味である。大豆の需要増と貿易上の問題などのために、新しい供給源を 求めざるを得なかった日本は、政府主導でブラジルのその不毛の地で大豆を栽培し開発輸入することになった。

  JICAは当時ブラジルの「コチア農業組合」を通じて、その傘下の農民に一人当たり50ヘクタールを開墾するための投融資を行ない、その大地の開墾と栽培 に対する支援を始めた。セラードには一粒の大豆もなかった。大豆のいわば試験栽培に融資を行ない農家を支援した。 現在では「セラード」は年間1000万トン以上もの大豆を生産する大穀倉地帯に変貌した。ブラジルは世界でもトップレベルの大豆生産高を誇る まで成長した。当初はJICA融資制度の活用に始まったが、後に「海外経済協力基金(OECF)」の本格的な巨大融資 による事業展開と融合することになった。私的には、「セラード開発」という歴史的事業に少しも関われなかったが、それに関わった JICAの先輩らは、その開発の起点を作った。

  第3号案件対象の農作物はさまざまであるが、最適品種の選抜・栽培方法などの技術開発が真っ先に必要とされる場合には、JICAの投融資が 最も得意とするところである。JICAが海外現地調査を請け負い、その実現可能性を探求し、試験栽培事業を資金的に支援し、その事業化 を支える。ひいては発展途上国の社会経済的発展に寄与するという優れものである。 試験栽培という技術協力であるとともに、それへの資金協力というダブル支援によって、海外での農業分野における民間ビジネスの種まき 育成をお手伝いし、雇用促進にも貢献できるという夢のあるスキームである。そのポテンシャリティや伸び代には大きいものがあるが、 一般金融市場での金利の大幅低下傾向が続いたために、企業による利用が減退傾向となり、一時期このスキームの廃止という憂き目に あったこともあった。

  私的には、投融資事業を通じて沢山のことを学ぶことに繋がった。また、技術協力プロジェクトと投融資プロジェクトとの違いいろいろ 学んだ。技術協力プロジェクトでは、人的・物的インプットに対して、アウトプット(成果)はどう見積もられることになるか。 例えば、専門家がカウンターパートへの技術移転や指導を目指す場合、その成果を何をもって推し測り、評価することになるか。 経済的収益性・採算性などの指標をもって、移転の成果を評価することは皆無に等しい。種を播いたが、その成果を定量的に、特に経済的価値や 収益性をもって示すことはまずできそうにない。

  投融資プロジェクトの場合、初年度には最も多額のプロジェクト初期投資が必要となり、年度ごとの営農計画に基づき、ありとあらゆる 支出と収入見込みをはじきだし、20年間の収支バランス、損益計算書を作成する。そして、ローン返済計画をシュミレーションしながら、 事業の経済採算性や収益分岐点についてつねに検討を重ねることになる。かくして、投融資プロジェクトの成果の評価基準は明確であった。 収支バランス、採算性、損益分岐点、返済の見込みなどの指標が全てであった。

  投融資業務では、民間企業が進める海外での試験栽培事業や開発輸入事業の一端に関与し、民間ビジネスの視点やセンス、 ビジネスマインドなどに身近に接し学ぶことができるまたとない機会を得たといえる。 JICAの技術協力の中でも、プロジェクトの収支バランスや採算性をつねに視野に入れ、ビジネスマインドをもって業務に当たることが 求められる数少ないものであった。民間ビジネスに関わりつつ、ビジネス的な視野やマインドを大いに刺激され広げられた。 民間企業の試験栽培事業への支援、その先にある大きな開発輸入という夢を共に追いかけるという新鮮な業務であった。 そして、途上国の国づくりに何がしか貢献するという、意義深い業務であった。事業の種を播き、育てる楽しさを知ることのきっかけを 得ることもできた。第3号案件事業には、民間ビジネスの面白さと楽しさ、その先の夢、意義深さが広がっていた。

  最後に、投融資業務では海とのつながりは極めて少なかったが、業務の基本は海外現地調査であった。それ故、世界のいろいろな地において 海や港風景を眺め、散策することができた。また、その土地に所縁のある歴史や文化について興味をもつきかけにもなった。 特に初めて訪れる国の海辺や港風景、そこに働き暮らす人々を眺め、時に言葉を交わし、肌で何かを感じ、脳に刺激を受けることの喜びは またひとしおである。レガスピーの海、アカバの海と港、死海という不思議な海、コスタリカのプンタレーナスで初めて見る太平洋と 海に沈みゆく太陽、新興のカルデラ港、ポナペ島の礁湖、その先の破砕帯で白く砕ける波、マングローブの海と生命の息遣い、ナンマドール の石組み遺跡とカヌーによる散策など、それらはたいてい週末に、いわば通りすがりに目にした海と港風景である。しかし、そこには そこだけの海の色と香りがあった。五感で触れたことだけでも、私的には海への繋がりをもつことができ意義深いことであった。



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