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    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第4節 職員課のどの仕事も喜ばれる


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     第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
      第1節: 農業投融資と向き合う(その一)/中国での大豆栽培試験
      第2節: 農業投融資と向き合う(その二)/5ヶ国での栽培試験
      第3節: 契約課でパナマ運河代替案調査に関わる
      第4節: 職員課のどの仕事も喜ばれる
      第5節(作成中): 英語版「海洋白書」と「海洋語彙集」づくりに前のめる

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  タイ国際航空の旅客機墜落という大惨事が起こったのは1992年7月であった。人事部職員課の職務にすっかり慣れ親しんでいた頃 である。職員課時代に遭遇した出来事のうちで最も悲劇的なことであった。夜9時頃のこと、仕事に区切りをつけてそろそろ帰宅しよう としていた矢先のこと、隣の人事課にネパール事務所から一本の国際電話が入った。「職員らJICA関係者が何人か搭乗する、タイ・バンコク からのタイ国際航空311便が未だカトマンズのトリブバン国際空港に到着しない」との報であった。時に仮眠しながら待てども待てども 飛行機は到着しなかった。カトマンドゥのその日の天候は悪かったという。心配は現実のものとなった。

  翌日から現地では大々的な捜索が開始された。そして、ついに怖れていた悲報がもたらされた。カトマンドゥ北方35㎞ほど、標高3,500m のヒマラヤ山中で、岩山に激突してバラバラとなった機体が発見された。事故を知った職員らは一時騒然となり、身も心もフリーズし凍りつ いた。JICA本部にはそれを境に、重苦しく緊張した空気が漂った。搭乗していたネパール事務所勤務の「N」次長とその家族の4名、赴任 途上の海外青年協力隊員や専門家らが他の乗客と共に、一瞬にして生命を絶たれてしまった。事務所はパニック状態となり、機能不全となっていた。 現地事務所を支援するため、東京本部や近隣国の事務所から現地へ応援に駆けつけた。私も第二次の応援チームの一員として出向き、 他の在外事務所員らと現地で合流した。

  現地で「N」次長が借り上げていた一軒家は、四人がネパールからタイへ出立した直前の状態のままに遺されていた。 家の主とそのご家族全員を一瞬にして失い無人無言となってしまった住居内には、何とも言えない静寂の空気が漂っていた。 顧問契約を交わしてきた社会保険労務士には、労働基準監督署に次長の労災認定を受けるべく、いろいろ尽力してもらった。一年ほどの紆余曲折を経てようやく 労災認定を受けることができた。認定された時には肩の荷が下りたようでほっとした。

  片や、日々楽しくハイ・テンションで仕事ができるような時期もあった。役職員用の保養所を新規に建設するための予算にようやく目途がつき、 その建設候補地選びに本腰を入れ始めた。そして、その選定のための基礎調査を行なうことになった。コンサルタントと契約のうえ、職員課とも 協働しながら、都心からの距離、鉄道・バスなどの交通手段の数や往復交通運賃、アクセスの利便性、天然温泉水の使用権の有無、近隣の史跡やアミューズ メントパークなどの観光・娯楽施設の有無、その他自然景観の質量などをポイント制で評価した。予想通り圧倒的に一位は箱根、 二位は軽井沢の順であった。そして、財務関係者らと箱根・軽井沢の幾つかの有望候補地を見て回りながら、大風呂敷を広げて、あれこれと施設 内容につき構想するのは楽しかった。

  保養施設の概念設計をあれこれと思い巡らせるのは、いわば別荘を建てるような思いであり、その構想を練るのは楽しく テンションの上がることであった。家族部屋の間取り・大きさ・数や二人用部屋の間取りなど、供用のダイニングルームの間取りや広さ、 厨房、管理人兼調理人用の部屋のこと、その他テニスコート、子供用の屋外遊戯施設、カラオケルームなどのスケッチに花が咲いた。

  私の役目は候補地の模索と施設のスケッチで終わったが、その後元箱根地区の土地に正式決定され、10億円くらいの 予算で建設された。そして、職員やその家族らによって、保養目的で大いに利活用された。保養所の利用手続きも職員課の職務であった。 利用料金をそこそこに抑えるために、JICA予算からの助成についても財務当局から承認がえられ、利用職員やその家族らは満面の笑顔を浮かべる 日々であった。夏秋期や五月連休などの行楽シーズンには、利用希望者が殺到するので、事前申し込みを受け付けた上、抽選方式でもって 公正な利用を図ることを第一にした。職員課はその施設の運営管理主体となっていたが、同施設の正式名称には「研修所」の三文字が末尾に 冠されていた。実際に建設された施設では、土地の形状や面積もあって、屋外の娯楽的要素は組み込まれず、施設地下に卓球室とカラオケルームだけが実現された。

  後年の話になるが、1990年代の初め頃にバブル経済がはじけ、日本経済はその後ずっと長く低迷が続いた。そして、それまで野党であった 民主党が2009年になって政権を奪取した。民主党政権は、2010年度国家予算編成の手法として、「行政刷新会議」なるものが立ち上げ、 独立行政法人や一部公益法人の事業の抜本的見直しのために、2010年4~5月に「事業仕分け」を断行した。各官庁や政府系機関などは 「無駄」を省くようマスコミ公開方式でもって厳しく追及された。

  JICAは箱根の「研修所」の他に、マンションタイプの保養所として5戸を箱根、軽井沢、伊東、勝浦、石打(スキー可能)に 保有し自社管理していた。そして、5戸の保養施設だけでなく、箱根研修所も全て売却することになり、「無駄の一掃」となった。 さらには、大阪・茨木の「大阪国際研修センター」も廃止され、売却費は国庫納入されることとなった。バブル崩壊後の経済低迷と事業仕分けや ダウンサイジングの影響は随所に現われ、世は明かりを失ったかのようであった。箱根研修所は築後わずか10年ほどして一般入札され民間業者に 売却されることになった。当時の誰がこのバブル経済の崩壊と、その後の20年以上にわたる「失われた時代」を予測したことであろうか。 日本政府の政府開発援助額も1997年頃をピークに世界第一位の座から滑り落ち、以後下降線の一途を辿って来た。

  ところで、先の契約課でのコンサルタントのリクルート、契約締結・執行業務からの卒業後の人事異動先はこの職員課であった。 またもや海からかけ離れた部署であったが、全く驚くことはなかった。職員課は、技術協力の事業部門ではなく、いわゆる官房部門の中の 正真正銘の官房部門であった。JICAに長年勤務すれば、国内外で技術協力に携わる事業部門の最前線だけでなく、官房部門という部署 (総務、企画、人事、経理など)にも配属されることが多かった。40年ほどの奉職期間にあっては、ほとんどの場合一度や二度は通過せね ばならないと言えた。

  大卒の総合職が特定の部署に7年も8年も長く留まると、職務経験が偏ることになり、バランスよく幅広い経験を積んだ ジェネラリストや管理職人材への成長が見込めないというのが大義名分らしい。あるいは、精神的緩みや不正への誘惑が忍び寄ったり、人事ローテーションが滞留し 組織的に硬直化するということでもあるらしい。そんな理屈はさておき、先の農業投融資や契約部門では、思いがけず職業経験を豊かにする ことができた。それと同じように、新しい職務をもう一つ経験し、一回り大きく成長できることを期待して、1992年4月人事部 職員課という新しい職場に移った。

  職員課に移って暫くして気付いたことがあった。政府開発援助の一部である技術協力という、発展途上国のための対外援助業務は、 国の国際約束、法律、閣議決定、外務省の指示などに基づいて実施される。各事業部における業務の最初の出だしではその通りである。 だが、その後における日々のルーティーン業務は、JICA自身が定めた独自の内部運用規則に従って遂行されることがほとんどである。 いわば、JICA組織内でのみ通用する独自の業務実施規則やその細則に基づいて執行される。翻って言えば、殆どの日常業務は国の法令や 社会制度とはほとんど関わりなく回っているといえる。

  翻って、職員課の職務の多くは、年金・健康・労働などに関する国の法令や社会制度と密接な接点をもち、職員一人ひとりや組織の 権利義務関係を結びつけている。JICAは一法人として、国の関連法令や制度を具体的かつ適切に遵守し執行しなけれなならない。 例えば、重要な国の社会保険制度である厚生年金、その基金、健康保険、失業保険、労災保険などについて、職員の加入・脱退手続きを 迅速に漏れなく行なう必要がある。産業医の配置義務、健康管理室で廃棄される医療廃棄物の合法的処理、 職員への定期健康診断の実施、労働環境規則や所定時間外労働規則の遵守など、適正に執行しないと行政指導や罰則を受けることになる。

  かくして、職員の福利厚生面での安定的維持につながるよう、国のさまざまな社会的法制を知り、それを適格に運用することが求められる。 組織としても、また職員一人一人としても、国が定める数々の社会法制のルールに従う必要があり、それはまた裨益するためでもある。 職員課で初めて世の社会的仕組みと真剣に向き合うことが多かった。職員課の職域がどれほど広範囲であるとは思いも及ばず、全てが学び であった。そこには目からウロコの世界が広がっていた。

  ざっくりと言えば、当時、職員課では1,200名ほどの職員の福利厚生に関わるあらゆる職務を預かっていた。最も重要なものの一つは、法律で 定められた全ての社会保険制度の加入・脱退の手続き、その都度の保険制度事案において必要な実務を遂行することであった。 厚生年金やその基金に関する手続き上の不作為や間違いは、当該職員の将来の年金受給に大きな影響をもたらすことになる。慎重にして 的確な実務と定期的な棚卸しが求められた。職員課では全職員の年金手帳を預かっていた。1,200名のうち、200名ほどが海外勤務、200名ほどが 地方勤務であった。通常3年ごとに人事ローテーションがなされるので、紛失を避けるために職員課で厳重に保管していた。

  45歳や55歳の節目においてのみならず、35歳を迎えた職員に対して、外部コンサルタントの協力を得ながら「生活設計セミナー」 を実施した。定年退職に備えて、退職後における生活設計を考える機会を提供するものであった。当時の社会保険庁担当課にお願いして、 5年後に退職を迎える職員の年金支給見込み額を概算してもらい、セミナー時に全員に提供した。退職後の人生において大きな出費となる 行事や出来事がある。子息の結婚などの冠婚葬祭、住まいの修繕・リフォーム・建て替え、自家用車の買い替えの他、海外旅行計画などなど。 持ち家であっても住宅ローンが退職までに完済されているか否かは、退職後の生活の財務状況と生活の質を大きく左右することになる。 退職金のほとんどをそのローン返済にあてがうことになるか、退職金の資産運用による年金受給額への月々の上乗せ見込みなど、真剣に シュミレーションと向き合い汗をかいてもらった。

  私自身が45歳セミナーの対象者でもあったが、主催する側であったので、そのセミナー準備を行なう過程において、自身の生活設計に自身で 悩みつつも、それを描くきっかけを得た。初めて想定することばかりで、「ウーン」と頭を抱え、答えを出せないことも多かった。 とはいえ、当時は空前のバブル経済にあり、それがはじける前段階にあったので、甘い設計の下でゆとりある財務シュミレーションをしていた。 退職までに住宅ローンは完済する想定に立ち、また退職金を満額定期預金し、月々の利息4~5万円でも平均的年金に上乗せし、そこそこのゆとりある生活ができるものと、 皮算用していた。

  だがしかし、バブル経済が1990年代初め頃にはじけて、とんでもない世に変貌してしまった。その後の「平成」時代の殆どは 「失われた20年」とか30年とか言われる時代を辿ることになってしまった。結果、バブル経済状況下でシュミレーションした生活設計や 皮算用は見事に吹き飛んでしまった。描いた設計は完璧に狂い、退職後に悠々自適に過ごせるという想定などは夢のまた夢であることが 明らかとなって行った。だが、セミナーをきっかけに生活設計につき主体的に学んだお陰で、気を引き締め質素倹約に努め、退職後は 切り詰めながらも何とか人並みの生活を送りたいという希望だけは持ち続けた。雇用保険については、 幸いにも失業せず、保険料を納めただけで、一度も雇用保険の世話にはならなかった。労災にも幸いお世話になることはなかった。

  さて、役職員の健康管理に関する職務もまた最重要なものの一つであった。職員課が所管する職員向けの「健康管理室」では、看護師2名と職員1名が毎日 フルに勤務し、産業医1名がほぼ常駐し、役職員の健康を常々チェックしていた。その他に心療内科医師など3~4名の先生に週一回程度 勤務してもらっていた。役職員は、在外職員も含めていつでも直接か電話で産業医らに健康相談できる体制にあり健康管理室は重宝されていた。

  専門の医療法人に委託して、年1回定期健康診断を実施した。産業医が全受診者の診断結果をチェックし、 医療的指導(治療ではない)、あるいは生活習慣改善指導などを一人一人に行なった。特に生活習慣病のリスクの高い中高年の職員に対する指導に重点がおかれて いた。治安状況に加えて医療・衛生事情が良くない発展途上国では、健康管理が行き届かず生活習慣病を悪化させてしまう職員が多くなる。 国内の地方在住の職員についても、健康管理室は、健保組合提携先の医療施設で、組合の負担で健康診断を受診できるよう、 その制度的活用の促進に務めた。産業医は同じくそれらの受診結果をチェックした後必要な指導に務めていた。

  海外への赴任者とその家族は、在外での劣悪な医療・衛生環境下に身を置くことにもなるので、自身の健康をどう自己管理してもらうか、 その指導も重要な任務であった。海外赴任予定者に対する事前の健康チェックが入念になされ、産業医による健康判定「良」を得て赴任できた。 ドクターストップもありえた。赴任中における本人やその家族の医療相談への仕組みには幾つかあり、それを周知してもらって安心につなげた。 一時帰国時には人間ドックを受診することが徹底され、産業医の健康判定を待って再赴任できた。その他、出張時における マラリア、デング熱などの感染症に対する予防対策や服薬処方に関する助言もなされた。

  精神的疾患に悩む職員には、外部の精神科医と契約し、いつでも内密に相談できる体制にあった。エイズ検査を希望する職員には、 秘密保持を確保しながら無料で検査できる体制を検討し運用を始めた。エイズ検査の採血においては産業医のみが採血の検査番号と本人とを照合 できた。血液検査機関から報告される検査結果は産業医のみが受け取り、検査番号と氏名とを照合の上、その判定結果を本人に伝えるという 手法を採用した。

  当時組織としてエイズとどう向き合うか、罹患者が発生した場合いかに対処すべきか、その対処方針について 取り纏めるべく務めた。個人レベルでは差別の発生は皆無とは言えないが、人事異動上や医療上の保護的処遇を期待して組織に告白した罹患者の 秘密を守りながら、組織は、職員の個人的治療をどう促進し、また就労を可能にするか。次々交代する直属の管理職や人事課長・部長などが、 どのようにその秘密を守り得るのか、また彼らの後任者にその秘密情報をどう引き継ぐのか。組織としての秘密保持の仕組みや告白罹患者への 処遇の在り方などについての提案書を悩みに悩みながら取りまとめたりした。体制構築は気の重くなる仕事であったが、その任務に真剣に 向き合った。

  産業医やその他の科別の顧問医との契約に関する実務、定健診断実施の実務、健保組合への加入・脱退の 手続き、健康保険証の手交・回収、各種給付金の健保組合への申請や人間ドック申込みなどに関する相談や指導など、いろいろ対応に当たった。 人事課や給与課と連動する業務も多く、手続きに漏れが生じないよう的確で密な情報伝達は生命線であった。海外赴任者・帰任者、地方への転勤者 や本部への出戻り者、JICAから省庁・他法人への出向者、研修を名目とした他法人からJICAへの勤務者など、人的の出入りは頻繁であり、組織ごとに年金、健保などの 取り扱いや保険料の負担方法は異なり、丁寧な対応が不可欠であった。

  職員の国内での住まいに関するサービスもまた重要な職務であった。JICA所有の社宅として数百戸ほど管理していた。その入居・退居手続きや 鍵の管理、水漏れなどの有事における対応、給与課と連携しての社宅費の自己負担分の徴収など、いろいろな住宅関連実務をこなした。また、 首都圏や地方での任意の一般民間アパートの借り上げによる住宅手当認定につき職員課が窓口になった。地方への転勤職員用の住宅の借り 上げについても、職員課がその申請と住宅認定を担った。

  首都圏・地方・海外での勤務者の間で、福利厚生サービスでの受益性が合理的にいきわたらず不公平とならないようにいろいろと 知恵を絞った。全国リゾート地での宿泊施設やその他さまざまな娯楽サービスを割安で利用可能となる、法人会員向け 福利厚生サービスを受けるための契約を締結し、職員に提供した。悪くないサービスではあったが、職員の勤務地によって利用上の 公平さにばらつきが生じるのは避けられなかった。

  そこで別トラックとして、国内外を問わず、職員とその家族に対し、年間一人当たり一定額を上限にして、家族旅行での宿泊費や交通費、遊園地・ 映画館・コンサート・美術館への入場料、スキーリフト代やレンタカー代などの領収書をもって 実費支払いを行ない、日常的な娯楽に対する補助金支給制度を着想した。勤務地、時期、性別に関係なく、年間を通じて手軽に一律に助成を受けられた。 職員共済会のこの助成金制度は国内外を問わず年間を通して大いに活用され喜ばれた。 職員共済会ではその他、職員へのローン貸し出しや償還事務、冠婚葬祭における各種給付金の支払い、コンサートやプロ野球観戦券などの 購入と提供、その他秋期の大規模なスポーツ大会の開催など、職員課が共済会の実務を側面支援することで職員への福利厚生に厚みを加え ていた。

  JICAの事業費はもちろんであるが、職員への福利厚生に関するサービスも全て予算がなければ何もできないものであった。年間行事として、 時期が来れば、職員課所掌の全ての諸経費につき予算案を作成し、折衝を行なうのも重要職務の一つであった。 顧問医の週単位勤務日数を半日増やすにも、その必要性につき、説得力ある積算根拠を示さねばならなかった。私的には、最も頭の痛い 職務であった。というのも、過去において増額のための予算要求で用いられたはずの細かい積算根拠は時に10年以上前のことであったりするので、 関連資料がどこに保管されているのか分からないことも多かった。

  春闘における組合からの要望書に対する回答書を作成する上で参考になる各種社会経済関連データを年間を通して収集し束ねておくという職務 もあった。回答書は当局が作成するが、その回答の根拠に資するデータが求められた。その他、 組合と当局との所定外超過勤務に関する「36協定書」絡みの職務もあった。管理職が職員に月40時間を超えて超過勤務命令を発する場合、 職員課は組合側から提出される本人の同意書を受理するのが日課であった。ただそれだけであるが、超過勤務の管理は意外と気を 使う職務であった。組合と締結した36協定書の労基署への届け出、全部署の超過勤務管理状況の把握と超勤時間を大幅にオーバーする 管理職へのウォ-ニングなども気にかけた。

  全く話は変わるが、人事部には、数年に一回ほどであったが、海外に赴任する職員の生活環境実態を調査し、その改善に資するという ミッションがあった。何とその調査対象国は、アルゼンチンとパラグアイへであった。私は、その調査のため人事部職員2名と出張した。 「ア」国は第二の故郷であり、いわば里帰りがこんなに早く巡って来るとは思いもよらなかった。 あのパンパをまた見れるかも知れないと、出張話に接した時からテンションは上がり続けていた。他方、パラグアイは初めて訪れる国であった。 パラグアイは「ア」国とは比較にならないほど経済的落差は大きく、当時中南米のなかでも日本の最大の被援助国であった。

  初めての日本人移住者集団が、その昔ブエノス・アイレス港に降り立ち、鉄路で北上しパラグアイとの国境の町ポサーダスまで辿り、 パラナ川を渡り、「パ」国側の町エンカルナシオンへ、さらに鉄路で首都アスンシオンへ一旦立ち入り、そこから南東数10kmの亜熱帯 ジャングルに分け入った。彼らが血と汗を流してジャングルを開墾したという開拓村が「ラ・コルメナ」であった。 今回の調査では、エンカルナシオンにあるJICA支所と支所長宅を訪ね生活環境状況を調査した。

  その後、パラグアイとアルゼンチンとの国境線をなすパラナ川に平行して、ティエラ・ロッサ(赤い土)という赤茶けた土の未舗装 道路をたどり、シウダード・デル・エステへ向かった。シウダードから上流のパラナ川はパラグアイとブラジルの国境線となる。 シウダ―ドからパラナ川の対岸へ橋を渡れば、ブラジルの町フォス・ド・イグアスである。その少し先には 世界三大瀑布の「イグアスの滝」がある。また、パラナ川を堰き止めて、パラグアイ・ブラジル国境線上に建設された世界有数のイタイプ・ダム 発電所がある。シウダードに近い移住地イグアスにはJICA直営の農業試験場があり、そこに職員が3名が赴任し、大豆栽培の 専門家らと共に試験研究にいそしんでいた。敷地内の研究施設、社宅の他、移住地内のスーパーマーケット、診療所、日本人学校などを含む 生活環境をいろいろ調査して回った。

  パラグアイは平坦な放牧地や大豆畑などが広がる農牧国であった。牧歌的な田園風景が印象的であった。「海をもたない内陸国」のパラ グアイにとって、ブエノス・アイレス港に通じる二本の大河パラナ川とパラグアイ川は物流の大動脈である。南米大陸の「へそ」の位置にあり、 最大の輸出産品である大豆をブエノス・アイレス港まで運ぶには主に河川輸送に依存していた。4、5年後にそんな牧歌的な「海なし国」 に赴任することになろうとは、先は分からないものである。

  その後、アスンシオンを後にしてサンパウロ経由でニューヨークへと向かった。翌日朝にNYに着きホテルチェックイン後、五番街で 用足しを終え、当初からの予定であったマンハッタン南端にそびえる「世界貿易センター」ビルへ行こうと地下鉄に乗車した。センタービルの階下にある 地下鉄駅にまもなく到着すると思いきや、その一つ手前の駅で突然乗客全員が強制的に降ろされた。アナウンスによると、センタービル の地下でつい先ほどテロとみられる爆破事件が発生したという。地上に出るとセンタービル辺りからもうもうと黒煙が立ち上っていた。 安全な区域へ立ち去るよう警察官に誘導され、急いでチャイナタウン方面へと歩いて遠ざかった。昨日ブラジルのサンパウロ国際空港で 乗り継ぐ予定であったフライトが数時間も遅れた。その結果NY到着も数時間ほど遅れていた。その遅れがなかったならば、恐らく地下鉄爆破 のあった時間には予定通り貿易センタービルの最上階かその辺りに身を置いていたはずである。

  帰国後、我々の旅程を予め伝えておいた同僚が冗談めかして言い放った。「煤だらけになってセンタービルの階段を歩いて降りて 来るのではないかと、テレビニュースを観ていた」。もう一本早い電車に乗っていれば、間違いなくセンタービル駅構内で大爆破の洗礼を受けていたはずである。 危機一髪の出来事であった。思い出すたびにぞっとする。当時はまだテロ爆破事件が少なく、こんな笑い話で済ませていた。だがしかし、 2001年3月11日に、サウジアラビア人らのテロリストによって同時多発航空機テロ事件が引き起こされ、NY世界貿易センターの双子ビルが 崩れ落ち、世界が震撼した。その事件以来、こんな笑い話ではすまされず、事件遭遇の折にはいつもJICAへの報告の対象となった。仕事であちこち異国を駆け巡るなか、何時どこでどんな出来事 に遭遇するか分からない。何ともぞっとする話が身近に転がっている。事件事故に巻き込まれるのも、またそうでないのも人生であろうが、 エピソードにもならない悲劇的事故に遭遇することもありうる。

  さて、休題閑話。職員課での職務として、どんな福利厚生サービスの提供であれ、何の実務に取り組もうと、多くの職員の喜びに つながると思うと、それなりに遣り甲斐が湧き上がるものであった。また、厚生年金、健康・労災・失業などの社会保険制度をはじめとして、 国の重要な社会的共通ルールや仕組みにつき、身近に向き合う機会を得た。生活力を高めるのに有益な知恵を授かり、感謝すべきこと であった。また、私的には、当時40歳台半ばであったが、人生遅きにならない早目の段階で生活設計の基礎を学ぶことができた。 とにかく、一社会人として、一国民として、生活して行くためのいろいろな知識や知恵を身に付けねばならないと、意識改革させられた。 そしてもう一つ、健康管理の重要性についていつも身近に意識させられるという立ち位置にいたことも大いに有り難いものであった。 その極めつけは、ずっと後の在外勤務中のことになるが、JICAという組織がもつ職員等の関係者のための鉄壁の健康管理体制とネット ワークのお陰で、自身の命を救われるという体験をしたことである。その時に初めて、その体制とネットワークの凄い威力と有り難さを 思い知ることになった。



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