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    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第5節 英語版「海洋白書/年報」と「海洋語彙集」づくりに前のめる


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     第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
      第1節: 農業投融資と向き合う(その一)/中国での大豆栽培試験
      第2節: 農業投融資と向き合う(その二)/5ヶ国での栽培試験
      第3節: 契約課でパナマ運河代替案調査に関わる
      第4節: 職員課のどの仕事も喜ばれる
      第5節: 英語版「海洋白書/年報」と「海洋語彙集」づくりに前のめる

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     JICA本部の水産室に4年、アルゼンチン漁業学校プロジェクトに3年、合計7年も水産分野に思いの他しっかりと身を置き続けることができた。 だが、「ア」国から帰国後は、間接的にせよ海洋や水産に関わる部署に就くことは最早望むべきもなかった。海洋や水産法制に関する 自身の専門性と少しでも関わり、国連海洋法務官への奉職に向けてのキャリアアップに半歩で繋がるがるような部署は、 本部水産室の他には神奈川県三崎にある国際水産研修センターくらいなものであった。だが、水産研修センターには 自身のキャリアや年齢からして、しっくりおさまるような席はなかった。 故に、帰国後の職務においては自ずと海から疎遠になるというのは仕方のないことであった。

  自身が専門領域としてきこととは「対極」にあると言える 農業投融資事業や、契約課でのコンサルタント選定業務、さらには職員課という官房部門に就労することになったのは、全く驚くことでは なかった。海などとは関わりのない三つの職域に釘づけとなり、海から遠ざかってきた。今後も海とはますます疎遠となるばかりと 言うのはほとんど間違いなかった。だが、海からかけ離れた部署に配属されようとも、何も気のめいることではなかった。何の焦りも なかった。三つの部署について言えば、心機一転して、新鮮味溢れる未経験の仕事に携わり、時の経過とともにそれらの 職務に興味を引かれ、前のめりになって行った。そして、仕事の内容はそれぞれ異なったが、それだけ幅広く職務経験を積むことができ、 職員としてそれなりに成長できたのではないかと思えるようになった。

  かくして、自助努力をもって、海とは自主的に繋がる他に道はなかった。海についての自主研究という形で、海とのつながりや接点を 見い出す努力を続ける他なかった。幸いにして、私的には、海が大好きであることには、時空を越えて変わることも、色あせること もなかった。好きに勝るものはなかった。また、海と関わることの楽しさに勝るものはなかった。日本の海洋法制・政策や海洋開発の 最近動向などについて、いつもあれこれと好奇心を全開させ、自身の自主的「海洋研究」という位置づけで、時間をみつけては独習し続けた。 そのことは、私にとっては、いろいろな意味で、情熱をもって生きていくためのもう一つの エネルギーを自身に補給し続けることにもなった。それは、自らの専門性を深化させ続ける方途でもあった。

  さて、アルゼンチンから帰国後継続してやるべき重要なことに海の語彙拾いと語彙集づくりがあった。帰国以来、投げ出すことなく海の語彙を 拾い続け、その語彙集の基礎的原型づくりに汗を流し続けた。帰国後暫くして、その作業用にIBMのデスクトップ型パソコンを購入し、 心新たに語彙集づくりを継続した。「ア」国漁業学校プロジェクトでのパソコンはOKI製の機種であったが、互換性を何も意識することなく、 IBMのそれを買い込んだ。何年も後にそのことが、あやうく後悔の大きな種となるところであったが、運よく難を逃れ胸をなで下ろした。 そのことは後に触れるとして、アルゼンチンで作成していたのは主にスペイン語・日本語の海洋語彙集であった。 「ア」国から持ち帰ったその20枚ほどの記憶媒体のフロッピーディスクはそのまま引き出しに入れたままにして、英語・日本語の海洋語彙集 づくりに集中的に取り組み始めた。情報技術は日進月歩で、記憶媒体としては別のそれを使った。

  とにかく、毎日数10分でも1時間でも、語彙拾いとパソコン入力を続けた。毎日のルーティンワークそのもので、帰宅すれば、寸暇を 惜しんで入力したり、語彙を調べたりして、海との関わりを喜々として持ち続けた。余暇時間において このような方法で海のこととわずかに繋がるだけでも、私的にはその日の雑念やストレスを払拭できた。精神的に一服の清涼剤になり、 心は落ち着くことになった。だがしかし、語彙集づくりを続けるその先において、どうなるのか、どうするのかというアイデアは何一つ 持ち合わせていなかった。先々に何があるのか、心に見えるものは何もなかった。とは言え、海にまつわる自主研究と平行して、 語彙拾いや語彙集づくりにも真剣に向き合った。その思いは、「中途で止めれば、そこで全てが終わる。だから止める訳にいかない」 ということだけであった。

  語彙集づくりでの過去2回の苦い経験は何としても避けたかった。米国留学中での取り組みは「アイデア倒れ」に終わり、留学から帰国 後の「英語版ニュースレター」づくりでの二度目の取り組みは「途中でほとんど腰折れ」であった。そんなこともあって、「ア」国で一歩踏み 出した三度目の語彙集づくりのチャンスを放り出すことなどできなかったし、またしたくもなかった。 何もなかったかのように元の木阿弥に戻る訳には行かなかった。途中で放棄すればデータは事実上自身のPC内に「死蔵」させるだけであった。

     思い起こせば、マル・デル・プラタで、人生3度目のチャンスに巡り会い、ようやく海洋関連語彙集づくりを始めることができた。 そのことを思い起こして、帰国後も自身を鼓舞し奮い立たせた。少なくとも、アルゼンチンが起点となった語彙集づくりを続けて行くことに 大きな意義を感じ、そのことに自負や矜持をもっていた。漁業学校におけるような語彙集づくりのベストな環境は帰国によって一挙に失われてし まったが、帰国したからといって、諦めるという選択肢は全くなかった。最初に足を一歩前に踏み出した限りにおいて、その努力が結局 どこにも辿りつけずに終わるということは忍びなかった。とは言え、何処を最終ゴールにして取り組むのか。語彙集づくりの終わりは 見えず、最終着地点について何も見通せなかったのだが、継続することだけは決意した。

  帰国後向き合わねばならないもう一つの重要な課題があった。「ア」国赴任前に浅野先生と創始した任意研究団体「海洋法研究所」 の活動という二足のわらじをどう履き続けるかであった。 「ア」国赴任前は英語・日本語での海洋法制・政策や海洋開発動向などにまつわる「ニュースレター」づくりとその発信を研究所の最初の主 な事業としていたが、帰国後その発行をどうするかが悩みであった。その発行は少なくとも赴任中の3年間は休眠状態になっていた。 主宰者の浅野先生ともいろいろ相談した。「ア」国赴任中においては、海洋関連情報の収集や論稿の執筆などの活動は頓挫を余儀なくされていた。他方、 3年間のラテンアメリカ社会生活で錆びついたいろいろなものを体から削り落としながら、JICAの職務に復帰すべく、新部署で悪戦苦闘をしていた。

  矢張り「ア」国での3年間のブランクは大きかった。3年間ブランクを空けたままにもかかわらず、突如再開の段になっていきなり 研究所の会費納入をお願いするなどというのは、とても言い出せない話であった。そもそも元会員の再加入のことからお願いする話に ならざるを得なかった。だがしかし、何の情報発信や提供できる印刷物もなく、会員としての加入・再加入や会費納入のお願いなど到底できない 話しであり、大きな悩みどころであった。たかだか「英語版ニュースレター」かもしれないが、その再刊は相当のエネルギーを要する 事柄であった。その「ニュースレター」の発刊は赴任前の時点では第8号まで発刊していたものの、発刊は当初から何かと 滞りがちであった。再刊の可否に大いに悩み、最終的には休刊続行、いわば事実上の廃刊を決断し、他のことにエネルギーを注ぐことになった。

  浅野先生と相談しながら、「海洋法研究所」事業の方向性を探った。結果、研究所の休眠状態からの覚醒を目指す方途として、 当初から中核的事業としたかった「英語版・海洋白書/年報」づくりに真剣真摯に取 り組むことになった。そのことは、研究所の活動を再開させる意欲、情熱、エネルギーを大いに取り戻すことになった。 「英語版・海洋白書/年報」づくりを「再起動」させるための研究所の事業の中核に位置づけた。その発刊による世界への情報発信こそ研究所 の存在理由であり、またアイデンティティそのものであった。発刊の意欲は大いに掻き立てられた。

  研究所発足当初から、その中核的事業と位置づけながらも、事実上ほとんど実現できていなかった英語版の「海洋白書/年報」 のような形式の研究書・ブックレットづくりに早速本気で着手した。その発刊は、それまでの研究所の事業とはしがらみがなかった。 「数年音沙汰のなかった研究所は海洋白書/年報なるものの編纂に新たに取り組み出したのか」と、休眠状態であったことを少しは納得して もらえるものと期待して、そのようなブックレットの編纂・発行に挑戦する決意を新たにした。全く新鮮な目で取り組むことができそうであった。 勿論、「海洋白書/年報」なるものは、日本の海洋法制・政策や最近の海洋開発動向などについての調査分析結果を取りまとめ、 定期的にアップデートしつつ増補を積み重ねるものとして捉えた。かくして、自身を鼓舞しつつ、研究所創建当初からの念願であった 英語版「海洋白書/年報」の類いの作成に向けて新たな第一歩を踏み出した。

  最初の第一版は数10ページのブックレットを目指し、過大な作成計画を立てないようにした。JICAという本来の仕事に差し障りのないよう、 控えめでリラックスしての船出であった。少しずつアップデートと増補を重ねつつ内容の充実を図る(updated, revised, and enlarged) ことにした。途中で腰折れしてしまうのを避けたかったからである。

  かくして、新たな挑戦が始まり、私的には、海洋法研究所をもう一度気を取り直して「再稼働」させ、二足のわらじを履くことになった。 研究所の中核にしたかった海洋白書/年報のような研究書づくりに新たに取り組むことに情熱を傾けることになった。そして、ついに 海の語彙拾いや語彙集づくりと、海洋白書/年報づくりとが車の両輪のように連接することになった。 そして、ページ数はさほど多くないブックレットを、初版から第5版まで、少しずつ執筆分量を増やしながら作成した。 「日本のオーシャン・アフェアーズ: 海洋制度、政策、開発/Japan's Ocean Affairs: Ocean Regime, Policy, and Development」と 題するものであった。

  因みに、その創刊号は、1988年6月の発行で、B5版のわずか59ページのブックレットであった。アルゼンチンから1987年4月に 帰国したが、その一年余の後の発刊であった。その項目建てとしては次の通りであった。
・ 日本と1982年国連海洋法条約、
・ 深海コバルト・リッチのマンガンクラスト開発動向、
・ 沖ノ鳥島の保全に関する緊急措置、
・ 公海自由の原則のフェーディング、
・ 日本の領海の限界や200海里漁業水域の現況、
・ 日本周辺の海峡水域における特別通航制度、
・ 海水揚水発電、
・ 北朝鮮の海洋制度について論述したもの。

  その数か月後の1988年9月に、若干の増補をした第4版なるものを発刊した。そして、翌年の1989年1月に、第5版として、 216ページからなる増補版を作成し、研究所会員をはじめ、多くの海外の海洋研究機関に配布した。 追補された項目は、

  1. 日本と漁業: 日ソ漁業関係、200海里水域における相互の操業条件、日本の沿岸水域での開発と管理、日本の国家海洋行政、
  2. 日本の深海底マンガン団塊の開発動向: 日本の「パイオニア・エリア」、団塊開発の最近の動向、
  3. 日本の海中考古学的事情: ロシア軍艦の探査、
  4. その他、幾つかの日本の海洋関連自然条件などについてであった。

  そして、1989年9月に、同じく海洋法研究所名で、その第6版「Japan Ocean Affairs: Ocean Regime, Policy and Development」 として、166ページのブックレットを発行し、国内外の海洋法・政策の研究者・学者や海洋行政・研究機関に送付した。 更に、1989年後半には、第7版として188ページのブックレットを完成した。

  さて、1989年12月31日になって、264ページの第8版を編纂・発行した。巻末には付属書として「日英語・海洋関連用語辞典 Japanese-English Ocean Affairs Dictionary, 2nd Edition, December 1989」(41ページ)を合体した。第8版は、「大陸棚開発と管理: 日本の大陸棚の境界、 オーシャン・アフェアーズでの最近のファクトと動向」を第5版に増補したものであった。その巻頭には、小田滋・国際司法裁判所(ICJ)判事、ワシントン大学ロースクール・ウイリアム・T・バーク教授、 同大学海洋研究所所長エドワード・マイルズ教授、南カリフォルニア大学アーノルド・パルドー教授、ミハイロフ・ソ連極東大学教授の 特別名誉会員他、少人数だが当時の16名の会員名簿が添付された。

  英和・和英の海の語彙拾いやその語彙集づくりと、「海洋白書/年報」の様な研究書・ブックレット づくりとは互いに重なり合い、補完し合い、相乗的な効果をもたらしてくれた。海洋白書/年報づくりは、その副産物として多くの海の 語彙を拾い上げることに繋がり、語彙集も一歩も二歩も前進することになった。片や、語彙集づくりの前進は白書づくりを前に押し進める ことにもなり、互いに相乗効果をもたらした。 そして、アルゼンチンから帰国後の8年間余にあっては、気長に語彙を拾い入力を続け、その後の「海洋総合辞典」の原型づくりへと 繋がって行った。

  語彙集は当初このようにアナログ形式のブックレットの付録に仕立てられたが、その先の目途は何も立たなかった。とは言え、パソコンや情報通信技術を はじめ、世の科学技術は確実に進歩しつつあった。私的には、超大容量で超高速のコンピューターを基点にして、いろいろな情報、 例えば過去の新聞雑誌記事、図書目録データなどに自宅のパソコンからアクセスできるようになるのではないかという、モヤモヤとした淡い 期待感が頭の片隅にあった。だから、デジタル語彙集をいつしか大型コンピューターを介して世に送り出すことができ、語彙集が いつか陽の目を見るのではないかと、おぼろげながら夢想していたこともあった。そうこうしているうちに、インターネットの時代が超高速でやって来てしまった。 当時そんな時代がすぐそこまでやって来ていたとは全く知らなかった。ずっと後年になるが、ネットサーフィンの実演を見せられネット画面を目の前にした時の 衝撃たるや、体中に電撃的ショックを受けた。

  インターネットを初めて知った時、「これこそが、私の追い求めていた究極のもの」と直感した。まさか自宅のパソコンから語彙集 として世に広く情報発信できるようになるとは、夢のようであった。



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