JICA本部の水産室に4年近く、「アルゼンチン漁業学校プロジェクト」に3年、合計7年間もしっかりと海洋水産分野に思いも
よらっず長きに渡り身を置き続けることができた。
だが、「ア」国から帰国後は、間接的にせよわずかでも海洋や水産に関わる部署に就くことは最早望むべきもなかった。海洋や水産法制や
制作に関する自身の専門性と少しでも関わり、国連海洋法務官への奉職に向けてキャリアアップに半歩でも繋がるがるような部署は、
本部水産室の他には神奈川県三崎にある「国際水産研修センター」くらいなものであった。だが、水産研修センターには
自身のキャリアや年齢からして、しっくりおさまるような人事上のポストはなかった。
故に、帰国後の職務においては自ずと海から疎遠になるというのは覚悟していたし、また仕方のないことと認識していた。
自身が専門的領域としてきこととは「対極」にあると言える農業投融資事業や契約課でのコンサルタント選定業務、さらには職員課という官房部門に就労することになったのは、全く驚くことでは
なかった。海などとは関わりのない三つの職域に釘付けとなり、海から遠ざかる一方であった。今後も海とはますます疎遠となるばかりと
言うのはほとんど間違いなかった。だが、海と関係のない部署に配属されようとも、何も気の滅入ることではなかった。また、何の焦りも
なかった。三つの部署について言えば、心機一転して、新鮮味溢れる未経験の仕事に携わることになり、時の経過とともにそれらの
職務にますます興味を引かれ、前のめりになって行った。そして、仕事の内容はそれぞれ異なったが、それだけ幅広く職務経験を積むことができ、
職員としてそれなりに成長できたのではないかと思えるようになった。
かくして、自助努力をもって、海とは意識的かつ自主的に繋がる他に道はなかった。海についての自主研究という形で、海との繋がり
や接点を見い出す努力を続ける他なかった。幸いにして、私的には、海が大好きであることには時空を越えて変わることも、色あせること
もなかった。好きに勝るものはなかった。また、海と関わることの楽しさに勝るものはなかった。日本の海洋法制・政策や海洋開発の
最近動向などについて、いつもあれこれと好奇心を全開に保ち、自身の自主的「海洋研究」という位置づけで、時間をみつけては
独学し続けた。
そのことは、私にとっては、いろいろな意味で、情熱をもって生きていくためのもう一つの
エネルギーを自身に補給し続けることにもなった。それは、自身の専門性を自ら深化させ続ける方途でもあった。
さて、アルゼンチンから帰国後継続してやるべき重要なことに海の語彙拾いと語彙集づくりがあった。帰国以来、投げ出すことなく海の語彙を
拾い続け、その語彙集の基礎的原型づくりに汗を流し続けた。帰国後暫くして、その作業用にIBMのデスクトップ型パソコンを購入し、
心新たに語彙集づくりを継続した。「ア」国漁業学校プロジェクトでのパソコンはOKI製の機種であったが、互換性を何も意識することなく、
IBMのそれを買い込んだ。何年も後にそのことが、プロジェクトで使い慣れたOKIの機種でなくIBM製に乗り換えたこと自体がもう少しで
後悔の大きな種となるところであった。だが、運よく難を逃れ胸をなで下ろした。
そのことは後に触れるとして、アルゼンチンで作成していたのは主にスペイン語・日本語の海洋語彙集であった。
「ア」国から持ち帰ったその20枚ほどの記憶媒体のフロッピーディスクはそのまま引き出しに入れたままにして、英語・日本語の海洋語彙集
づくりに集中的に取り組み始めた。情報技術は日進月歩で、記憶媒体としてはIBM用の別のそれを使った。
とにかく、毎日数10分でも1時間でも、語彙拾いとパソコン入力を続けた。それを止めていたとすれば、それまでのチャレンジは
そこで終止符が打たれていたはずである。毎日のルーティンワークとして、帰宅すれば何はともあれわずかな時間でも語彙を
入力したり、語彙の意味を調べたりして、海との関わりを喜々として持ち続けた。余暇時間において
このような作法で海のこととわずかに繋がるだけでも、私的にはその日の雑念やストレスを払拭できた。精神的に一服の清涼剤になり、
心は落ち着くことになった。だが、語彙集づくりを続けるその先において、どうなるのか、どうするのかというアイデアは何一つ
持ち合わせていなかった。先々に何があるのか、心で透視できるものは何もなかった。とは言え、海にまつわる自主研究と平行して、
語彙拾いや語彙集づくりにも真剣に向き合った。その思いは、「中途で止めれば、そこで全てが終わる。だから止める訳にいかない」
ということであった。
語彙集づくりでの過去2回の苦い経験は何としても避けたかった。米国留学中での取り組みは「アイデア倒れ」に終わり、留学から帰国
後の「英語版ニュースレター」づくりでの二度目の取り組みでは途中で「ほとんど腰折れ」であった。そんなこともあって、「ア」国で一歩踏み
出した三度目の語彙集づくりのチャンスあるいはチャレンジを放り出すことなどできなかったし、またしたくもなかった。
何もなかったかのように元の木阿弥に戻る訳には行かなかった。途中で放棄すればデータは事実上自身のパソコン内で「死蔵」させるだけであった。
思い起こせば、マル・デル・プラタで、人生3度目のチャンスに巡り会い、ようやく海洋関連語彙集づくりを始めることができた。
そのことを思い起こして、帰国後も自身を鼓舞し続けた。少なくとも、アルゼンチンが起点となった語彙集づくりを続けて行くことに
大きな意義を感じ、そのことに自負や矜持をもっていた。漁業学校におけるような語彙集づくりのベストな環境は帰国によって一挙に失われてし
まったが、帰国したからといって諦めるという選択肢は全くなかった。最初に足を一歩前に踏み出した限りにおいて、その努力が結局
何の結実もせずに終わるということは忍びなかった。とは言え、何処を最終ゴールにして取り組むのか。語彙集づくりの最終着地点
について何も見通せなかったが、それでも継続することだけは固く決意した。
帰国後向き合わねばならないもう一つの重要な課題があった。「ア」国赴任前に浅野先生と創始した非営利・任意の研究団体「海洋法研究所」
の活動という二足のわらじをどう履き続けるかであった。
「ア」国赴任前は英語・日本語での海洋法制・政策や海洋開発動向などにまつわる「ニュースレター」づくりとその発信を研究所の最初の主
な事業としていたが、帰国後その発行をどうするかが悩みであった。その発行は少なくとも赴任中の3年間は休眠状態になっていた。
主宰者の浅野先生ともいろいろ相談した。「ア」国赴任中においては、海洋関連情報の収集や論稿の執筆などの活動は頓挫を
余儀なくされていた。他方では、3年間のラテンアメリカ社会生活で錆びついたいろいろなものを自身の体から削り落としながら、
JICAの職務に復帰し業務態勢を再構築すべく、新部署で悪戦苦闘をしていた。
矢張り「ア」国での3年間のブランクは大きかった。3年間ブランクを空けたままにもかかわらず、突如再開の段になっていきなり
同研究所の会費納入をお願いするなどというのは、とても言い出せない話であった。そもそも元会員の再加入のことからお願いする話に
ならざるを得なかった。だがしかし、何の情報提供や発信をしうる印刷物もなく、会員としての加入・再加入や会費納入の
お願いなど到底できない話であり、大きな悩みどころであった。たかだか「英語版ニュースレター」かもしれないが、その再刊は相当のエネルギーを要する
事柄であった。その「ニュースレター」の発刊は赴任前の時点では第8号まで発刊していたものの、発刊は当初から何かと
滞りがちであった。再刊の可否に大いに悩み、最終的には休刊続行、いわば事実上の廃刊を決断し、他のことにエネルギーを
注ぐことを決断した。
浅野先生と相談しながら、「海洋法研究所」の事業の方向性を探った。結果、研究所の休眠状態からの覚醒を目指す方途として、
当初から中核的事業としたかった「英語版・海洋白書/年報」づくりに真剣真摯に取
り組むことになった。そのことは、同研究所の活動を再開させる意欲、情熱、エネルギーを大いに取り戻すことになった。
同研究所を「再起動」させるための基幹事業の中の柱に「英語版・海洋白書/年報」づくりを位置づけた。その発刊による世界への
情報発信こそ研究所の存在理由であり、またアイデンティティそのものであった。発刊の意欲は大いに掻き立てられた。
研究所発足当初から、その中核的事業と位置づけながらも、事実上ほとんど実現できていなかった英語版の「海洋白書/年報」
のような類いの研究書・ブックレットづくりに早速本気で着手することにした。その発刊は、それまでの研究所の事業とはしがらみがなかった。
「数年音沙汰のなかった研究所は海洋白書/年報なるものの編纂に新たに取り組み出したのか」と、休眠状態であったことを少しは納得して
もらえるものと期待して、そのような研究書の編纂・発行に挑戦する決意を新たにした。全く新鮮な目で取り組むことができそうであった。
勿論、「海洋白書/年報」なるものは、日本の海洋法制・政策や最近の海洋開発動向などについての調査分析結果を取りまとめ、
定期的にアップデートしつつ増補を積み重ねるものとして捉えた。かくして、自身を鼓舞しつつ、研究所創建当初からの念願であった
「英語版・海洋白書/年報」の類いの作成に向けて新たな第一歩を踏み出した。
最初の第一版(初版)は数10ページのブックレットを目指し、過大な作成計画を立てないようにした。JICAという本来の仕事に差し障りのないよう、
控えめでリラックスしての船出であった。少しずつアップデートや増補を重ねつつ内容の充実を図る(To be updated, revised,
and enlarged)ことにした。途中で腰折れしてしまうのを避けたかったからである。
かくして、新たな挑戦が始まり、私的には、「海洋法研究所」をもう一度気を取り直して「再稼働」させ、二足のわらじを履くことになった。
研究所の中核にしたかった「海洋白書/年報」の類いの研究書づくりに新たに取り組むことに情熱を傾けることになった。そして、ついに
海の語彙拾いや語彙集づくりと、「海洋白書/年報」づくりとが車の両輪のように連接することになった。
そして、ページ数はさほど多くないブックレットを、トライアル版初版から第5版まで少しずつ執筆分量を増やしながら作成した。
「日本のオーシャン・アフェアーズ: 海洋制度、政策、開発/Japan's Ocean Affairs: Ocean Regime, Policy, and Development」と
題するものであった。
因みに、その創刊号は1988年6月の発行で、B5版のわずか59ページのブックレットであった。アルゼンチンから1987年4月に
帰国したが、その一年余りを経た後の発刊であった。その項目建てとしては次の通りであった。
・ 日本と1982年国連海洋法条約、
・ 深海コバルト・リッチのマンガンクラスト開発動向、
・ 沖ノ鳥島の保全に関する緊急措置、
・ 公海自由の原則のフェーディング、
・ 日本の領海の限界や200海里漁業水域の現況、
・ 日本周辺の海峡水域における特別通航制度、
・ 海水揚水発電、
・ 北朝鮮の海洋制度について論述したもの。
そ創刊から数か月後の1988年9月には、若干の増補を施した第4版なるものを発刊した。そして、翌年の1989年1月に第5版として、
216ページからなる増補版を作成し、研究所会員をはじめ多くの海外の海洋研究機関にも配布した。
追補された項目は、
- 日本と漁業: 日ソ漁業関係、200海里水域における相互の操業条件、日本の沿岸水域での開発と管理、日本の国家海洋行政、
- 日本の深海底マンガン団塊の開発動向: 日本の「パイオニア・エリア」、団塊開発の最近の動向、
- 日本の海中考古学的事情: ロシア軍艦の探査、
- その他、幾つかの日本の海洋関連自然条件などについてであった。
そして、1989年9月に同じく海洋法研究所名で、その第6版「Japan Ocean Affairs: Ocean Regime, Policy and Development」
として、166ページのブックレットを発刊し、国内外の海洋法・政策の研究者・学者や海洋行政・研究機関に送付した。
更に、1989年後半には第7版として188ページのブックレットを完成した。
さて、1989年12月31日になって、264ページの第8版を編纂・発行した。巻末には付属書として「日英語・海洋関連用語辞典 Japanese-English Ocean
Affairs Dictionary, 2nd Edition, December 1989」(41ページ)を合体した。第8版は、「大陸棚開発と管理: 日本の大陸棚の境界、
オーシャン・アフェアーズでの最近のファクトと動向」を先の第5版に増補したものであった。その巻頭には、小田滋・国際司法裁判所(ICJ)判事、ワシントン大学ロースクール・ウイリアム・T・バーク教授、
同大学海洋研究所所長エドワード・マイルズ教授、南カリフォルニア大学アーノルド・パルドー教授、ミハイロフ・ソ連極東大学教授の
特別名誉会員他、少人数だが当時の16名の会員名簿が添付された。
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海洋法研究所による研究書『Japan Ocean affairs: Ocean Regime, Policy and Development』の発行
(研究書は「海洋年報」または「海洋白書」の類/similar to ocean whitepaper or annual ocean report)
海洋法研究所発行、6th ed.、 1989年9月、 pp.166
海洋法研究所発行、7th ed.、 1989年、 pp.188
海洋法研究所発行、8th ed.、 1989/1990、 264pp.
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英和・和英の海の語彙拾いやその語彙集づくりと、「海洋白書/年報」の類いの研究書・ブックレット
づくりとは互いに重なり合い、補完し合い、相乗的な効果をもたらしてくれた。「海洋白書/年報」づくりは、その副産物として多くの海の
語彙を拾い上げることに繋がり、語彙集も一歩も二歩も前進することになった。片や、語彙集づくりの半歩前進は白書づくりを半歩
前に押し進めることにも繋がり、互いに相乗効果をもたらした。
そして、アルゼンチンから帰国後の8年間余にあっては、気長に語彙を拾い入力を続け、その結果としての「海洋総合辞典」の原型づくりへと
繋がって行った。
語彙集は当初このようなアナログ形式のブックレット巻末にその付属書として添付されたが、その先の目途は何も立たなかった。とは言え、パソコンや情報通信技術を
はじめ、世の科学技術は確実に進歩しつつあった。私的には、超大容量で超高速のコンピューターを基点にして、いろいろな外部の情報、
例えば過去の新聞雑誌記事、図書目録データなどに自宅のパソコンからアクセスできるようになるのではないかという、モヤモヤとした淡い
期待感が頭の片隅にあった。だから、デジタル語彙集をいつしか大型コンピューターを介して世に送り出すことができ、語彙集が
いつか陽の目を見るのではないかと、全くおぼろげながら夢想していたこともあった。そうこうしているうちに、インターネットの時代が超高速でやって来てしまった。
当時そんな時代がすぐそこまでやって来ていたとは全く知らなかった。ずっと後年の1996年頃になるが、ネット画面を目の前にして同僚に
ネットサーフィンの実演を見せられた時の衝撃たるや、体中に電撃的ショックが駆け抜けた。
インターネットを初めて知った時、「これこそが、私の追い求めていた究極のもの」と直感した。まさか自宅のパソコンから語彙集
として世に情報発信できるようになるとは、夢のようであった。
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職務上、海や水産から疎遠になっても焦りがなかったのは、スペイン語・日本語のみならず、英語・日本語の海洋語彙集づくりに取り組む
第3度目の本格的なチャンスに出会っていたからだけでなく、英語版の「海洋白書/年報」づくりに本格的に取り組むことに情熱を燃やして
いたからである。海洋年報と言う具体的な英語版白書の編纂ではさまざまなテーマを扱いたかった。漁業、鉱物資源開発、海洋エネルギー開発、海洋行政、海洋法制など幅広く扱おうとした。それ故に、
編纂のための関連資料の収集や通読などは幅広いものとなり、海の語彙拾いもそれに呼応して自ずと広がりを見せた。これは、帰国後の語彙集
づくりの継続と全く符合する、シンクロナイズ相乗するものであった。
7年間海や水産の領域と直接的に関わっていたので、これからはそれらの専門と自認する
領域から再び遠ざかることのないようにしたかった。それの具体策といえるのが、海の語彙集づくりであり、また英語版「海洋白書/年報」
づくりへの取り組みであった。
さわり程度の取り組み=英語版海洋白書・年報の付録につける。何もしなかった訳ではないが、白書の「副産物」として初めて添付した。しかし、
第3次=アルゼンチンから帰国後再度挑戦、白書チャレンジ再開=1987-89年頃?年報に集中取組?。
JICA業務の責任も重たくなり、多忙であったが、公私共々この時期やり甲斐に溢れていた。
たしかに、JICAでの仕事でいろいろストレスが溜まることがあっても、白書や語彙集づくりという没頭できるものが目の前にぶらさ
がっていたし、海のことと向き合っていたので、大いにストレスの発散と解消することができた。
今度は日本をベースにしながらの英語版海洋白書づくりと並走し、英和・和英語彙集を充実させる試みであった。
アでは主に西和・和西を中心とした海洋語彙集づくりであった。
語彙集づくりの大義名分、動議付も重要であった。
「白書/年報」づくりはこの語彙集づくりをする重要な動議付となり、またづくりに成果をもたらした。一つの理由と刺激モティベーシ
ョンになった。白書づくりと語彙拾い・
作りは相乗効果を生む。英語ニュースレターは徐々に頓挫、中断した。白書づくりにエネルギーを集中した結果であった。語彙集と白書
づくりは両輪であった。戦略であったし、また実利的な相乗効果があった。本気に英語版「海洋白書/年報」づくりに力も注いでいた。
特に「白書」づくりはその副産物として多くの語彙を拾い上げることにもつながった。
海洋法研究所の白書作りで海との繋がり関わり、また海の語彙拾い、語彙集づくりを続けいわば「自作自演」での海との関わりを続ける。
* 最後は「白書」づくりもやめることになった→ オンライン辞典に昇華できる可能性があり、オンラインで発信可能となるから。
アナログ媒体で配布する必要がなくなったから。また、辞典もオンラインで世に発信できることがベストであったから。なぜやめたのか、続けなかったのか? 挫折ではない、→ 1995年以降オンライン
海洋辞典づくりホームページに移行した。アナログ形式の紙媒体の「白書」である必要が徐々になくなり。HP作成後は海洋辞典に吸収できるから。
「海洋辞典」の中に「白書」づくりを考えた、だがしかし辞典づくりに多くのエネルギーをついやし、白書づくりに手が回らなかったのが
実態真相である。
むしろ海洋白書づくりに興味?? 水産室での水産プロジェクトのマネジメントとその後のアルゼンチンでの
プロジェクト執行の頃が最も海洋に深入り回帰していた、その数年は白書づくりもやり、高い関心と意欲もまだあった。しかし、徐々に
海から遠ざかり、さらに人生設計をする年ころ、そんな業務に就くころになって、いろいろ将来のことを考えるようになった。
そういう節目、歳頃となり、また設計する機会となった。
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