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    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する

    第1節 「東京砂漠」で社会人生活の第一歩を踏み出す  

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      帰国後大阪・茨木の田舎にひとまず戻った。そして、暫くして改めて身支度を整え故郷を後に上京した。1975年10月吉日のことである。 渡米する時とは大違いで、東京へほんのわずかな期間私的旅行に出掛けるかのように、軽い気持ちで出立した。だがしかし、 その出立こそが、生ま育った故郷を離れ、その後ずっと生涯にわたって異国のような他県他所で暮らすことにつながった。そうなろうとは 全く思いもしなかった。

      先ず、雨をしのげる住まいを探さねばならなかった。東京都内のどの辺りに居を定めるか、上京の新幹線の車中で思案した。 とはいえ、住まいの地に何の拘りもなく、決めの唯一の手がかりとしたのは単純なことであった。高校三年生の時に慶応大学受験 のため上京した。その入学試験は日吉キャンパスで行なわれた。日吉は東急東横線の沿線上にあり、都内での始発駅は渋谷であった。 受験前日に一泊したのは、同じ東横沿線上の「自由が丘」駅のすぐ近くにあった純和式の安旅館であった。早稲田大学も別日に 受験するため改めて上京したが、山の手線の高田馬場からバスで早大キャンパスまで行っただけで、受験後は徒歩で皇居の縁を 通おりながら東京駅までたどりついた。試験でオーバーヒートした頭をクールダウンさせるためであった。

      結局、土地勘と言えば、山の手線と東横線くらいしかなかった。土地勘とはとても言い難いものであるが、頼るのはそれくらいしか なかった。インターネットやスマホという文明の利器の恩恵を受けられるのは30年ほど後のことで、当時の頼りはやはり街角にある 不動産屋だけであった。渋谷駅から4つ目くらいが遠くなくて良かろうと、「学芸大学」駅前の不動産屋 に飛び込んだ。そして、徒歩15分くらいにあって、家賃が最も安価なアパートを探してもらった。物件を実際に幾つか見て比較検討する こともなく、家賃の安さで即決した。月額15,000円であった。所在地は目黒区緑町で、駅前から商店街を通り抜けた後暫く歩いた先 にあって、周りは閑静な住宅街であった。

      「青雲荘」という名前はよかったが、建物はいかにも古くて老朽化した木造アパートであった。大きな地震が関東を直撃すれば すぐに崩れ落ちそうであった。土砂降りの雨天時には、あちこちで雨漏りでもするのではないかと心配した。アパートを入ると 薄暗い通路があり、その両側に4、5戸ずつ部屋が配されていた。廊下の一方の端には共同トイレがあり、私の部屋はそれと直に隣り 合わせであった。だからその部屋は借り手がつなかったに違いないと勘ぐってしまったほどである。水洗トイレから流れ出る水の音が 聞こえてきそうなほどであった。小さな刷りガラス一枚がはめ込まれたベニヤ板製の扉を開けると、四畳半一間の部屋があった。 押し入れとちっぽけな調理台・シンクだけは付属していた。有り体に言えば、漫画文化の礎を築いた赤塚不二夫、手塚治虫、藤子 不二雄、石ノ森章太郎らの巨匠が青春時代を過ごし活動拠点にしたという木造アパート「トキワ荘」(東京豊島区)そのものであった。

      部屋のガラス窓をガラガラと開けると、雑草地が生えたままのわずかな空き地があり、それをはさんで同じような木造アパート が立ちはだかかっていた。それが日中でも私の部屋を一層薄暗くしていた。昼間でも電灯を灯さないと薄暗くて気分が塞ぐばかりで あった。空気を入れ替えたりするために窓を暫く開けておくことはあっても、普段は窓をほとんど締め切ったままで、万年「開かずの窓」 同然であった。湿り気のある狭い部屋に長く居るのはやはり気が滅入るので、週末などはほとんどの場合外出した。

      さて、賃貸契約を交わすため契約書一通を大家に届けに出向いた折のこと、保証人を求められた。すぐにというのであれば、 東京で頼れる人は就業先の事務所長くらいしかいなかった。一瞬困った顔でもみせたのであろうか、大家は「お勤めはどちらですか」 と尋ねた。「虎の門ですが、、、」と言いかけたところ、すかさず「ああ、要りません」との一言にはびっくりした。「虎ノ門」と いう地名のもつネームバリューの威力と言うか、その信用力に内心「これが東京での常識か」と感嘆するばかりであった。 恐らく霞が関の政府官庁勤めか、大企業勤めに違いないと、勝手な思い込みがなされたのであろう。

      私の部屋の対面には、夫婦なのか、それとも恋人同士で同棲しているのか分からなかったが、二十歳代半ばの男女が住んでいた。 彼らは夜8、9時頃にはタオル、石鹸、着替えなどを入れたプラスティック製洗面容器を抱えて、二人仲良く銭湯に出かけていた。 私と同じように二人はこんな質素で老朽化したアパートに住んではいるが、二人はつつましく、また睦まじく、幸せそうに暮らして いるようであった。今はたとえ貧しくとも、明るい未来を信じて共働きでもしているのだろうと、勝手な想像を働かせていた。

      正直いって、二人が信じ合って東京砂漠を歩む姿は眩しくもあり、羨ましくもあった。内心では、人知れず二人にエールを送り続けた。 まさしく1970年代前半に活躍していたフォークソンググループ「かぐや姫」のヒット曲「神田川」(南こうせつ作曲)の情景を 彷彿とさせるものであった。詩曰く「二人で行った横町の風呂屋、、、、、小さな石鹸カタカタ鳴った、、、」。私は時間をかなり ずらせて一人銭湯に出かけ、その帰りには大衆食堂で日替わり定食などを済ませた。そんな木造アパートに、1977年7月に結婚する までの1年と9か月ほど暮らした。

      全くの余談であるが、その結婚以来不本意ながらずっと埼玉県人として歩むことになった。新婚時代の1年ほどは埼玉県の所沢 で社宅暮らしをした。その後40数年以上今日2020年の現在に至るまで、同じ埼玉県の鋳物の町・川口で暮らしてきた。 娘二人のふる里は「海なし県」である埼玉県のその川口である。私は故郷の茨木には25歳まで暮らしたが、今では川口市民としての 人生の方が圧倒的に長くなってしまった。これも想像もしなかったことである。押しも押されぬ埼玉県人・川口市民となった。 2019年3月ついに「翔んで埼玉」という「ダサい埼玉」を励ますかのようなコミカルでシニカルな映画が封切された。 JR京浜東北線や埼京線で20分ほどで東京や新宿駅に出られる便利な位置にあり、物価も安く、多様な外国人も多く住む国際的な町 であり、最近の人気は上昇中である。

      さて、毎日、「学芸大学」から渋谷へ、そこで地下鉄銀座線に乗り換えて「虎の門」へと通勤する生活が始まった。 東京の知り合いといえば関西大学大学院出身の二人の先輩がいた。時々会って食事したりカフェしたりして、他愛もない話で気晴らしを していた。東京暮らしの私には未知の世界に居るのと同じで、何を見ても何をしても初めてのことだらけで刺激満載であった。 そして、ほぼ100%赤の他人が右往左往するメガシティでの「砂漠生活」に毎日少しずつ慣れて行く他なかった。

      所長の麓多禎氏は、自らが主宰するその個人経営の海洋事務所を「潮事務所」と名付けていた。その事務所は、 外務省、大蔵省、農水省が面する「桜田通り」と、新橋から虎の門方向にのびる「外堀通り」とが交わる「虎の門交差点」から 徒歩で5分ほどの距離にあった。その交差点には、知る人ぞ知る文部省のレンガ造りの旧い建物が立つ。その文部省の裏手には、日本初 という超高層ビルの「霞が関ビル」が立つ。今でもその交差点風景はほとんど変わっていない。

      事務所の所在を分かりやすく言うとこうである。「外堀通り」と、その南側に平行して走る「烏森通り」との間に一本の通りが ある。ちょうど新橋駅のシンボルである蒸気機関車の前から虎の門・霞が関ビル方向に歩くと、すぐに「日比谷通り」を越える。 日比谷通りは増上寺・御成門へ通じている。さらに進むと、通産省が面する「内堀通り」と交差する。その交差点の100mほど手前 の路地裏を入ったところにあった。路地裏からその表通りに出ると霞が関ビルが高くそびえる。今ではその路地裏周辺は広く再開発 され、当時の面影は全くない。

      所長は旧帝国海軍の元海軍中佐であった。在ソ連日本大使館の駐在武官の任にあったこともある。事務所は木造2階建ての 賃貸用の小さな建物であった。学芸大学で借りたアパートと同じように、事務所も全く老朽化した古い建物であった。 虎の門という場所での最低家賃の物件としてはそれ相応の建物に違いなかった。 板張りの急な階段を昇り切ってすぐに事務所のドアがあった。ドアはベニヤ板製で、目の高さ辺りに小さな刷りガラスがはめ込まれ れていた。開くと15平方メートルほどの部屋があった。部屋の窓は東に面し朝方から太陽の光りが差し込んで明るいのが唯一の 救いであった。

      強めの地震に襲われれば、積み木崩しのように瓦解しそうな建物であった。壁際などにスチール製書棚を幾つか置き、シアトル からもち帰った書籍や資料を納めた。実は、書棚の重みの影響を受けて、壁際の床板が見るからにたわみ、歩けばべこべこと 凹んだ。何時の日にか床が抜け落ちて、我々は棚もろとも階下に抜け落ちるのではないかと、恐怖さえ覚えるほどであった。だが、 そんな不吉な想像はしないように意図的に心掛けた。部屋は二人の机・椅子、海図を広げるテーブル、スチール書棚で手詰まり 状態であった。小さなキッチンが付属していたが、客用ソファーを置く余裕はなかった。毎朝事務所に詰めるのは所長と私だけで あったが、兄弟会社のように支え合っていた英企画という翻訳事務所に詰めていたイラストレーターの内田青年が訪ねてきた。そして、 彼はわれわれの海洋関連の各種イラスト資料制作を手際よくサポートしてくれた。

      帰国後一か月ほど経ってからのことであった。東京暮らしに慣れてきた頃、ロースクール大学院から一通の航空郵便物が 届いた。開封してみるとB5サイズくらいの大きさの学位証書が包み込まれていた。帰国直前にバーク教授から、学位授与に関する審査 委員会に諮られることになるとの事情説明を受けていた。事情は既に述べたとおりである。私の平均スコアと学位授与審査のことは 深刻な話であったはずだが、私は何を思い違いしたのか、他人事のように頓着せず聞き流していた。 聞き流したことは赤面の至りである。当時聞き流していなければ、教授と真剣なやり取りをし、納得した上で帰国の途に就いた はずである。だがしかし、聞き流したお陰で、深刻な悩みとして引きずらず、また証書は郵送先の日本で受領できるものと何の疑いも 抱かず、帰国の途に就いた。何故聞き流してしまったのか。今更教授と各教科の試験とスコアを議論する話でもなく、また泣きを 入れる話でもなく、自分にはどうすることもできないと思い込んでいたからであろう。

      いずれにしても、バーク教授が指導教授として、委員会においていろいろ骨折りをしてくれたことは間違いないことと容易に 想像できた。ある教科のマークが「B」であっても、スコアで見れば幅があった。例えば、同じマークBでも実際のスコアは81点か もしれないし、88点かもしれない。マーク「C」でも74点か79点かもしれない。それらのスコアを平均して「B」、80点以上である 必要があり、どうも平均スコア80点を若干下回っていたということらしい。バーク教授にそれを確かめたところで、私自身は何も できない「まな板のコイ」であった。運を天に任せる他なかった。「海洋プログラム」の総括責任者はバーク教授自身であり、 最後のキャスティングボードは彼の手中にあるに違いなかった。そして、委員会において学位授与決定に至るまでのプロセスを推察すれば、 バーク教授へ感謝してし過ぎることはなかった。

      感謝はバーク教授だけでなく、ワシントン大学への応募にあたり推薦状を発出していただいた3名の母校の教授、そして曽野和明 国連法務官にも感謝し過ぎることはなかった。学位取得はさておいたとしても、第一学期でのショッキングな成績に心を折れ、もう少しで ドロップアウトするところであった。何とかそれを乗り越え、学業修了と学位取得を果たすことによって面目を立てることができ、 正直ほっとした。また、1ドル360円の固定相場制の時代において、家族はほぼ1年半にわたり、経済的・精神的に支えてくれた。 それ故に、ここまで長く支えてくれた家族や日本の恩師に報いて行かねばという思いはいつも抱いてきた。もちろん、学業修了だけ でなく、国連法務官の夢を実現することが、恩に報いる道であると信じていた。

      早速、国連奉職を志願するためのアプリケーション・フォームに、個人事務所での就業までの履歴をしたため送付する準備が 整えた。老朽アパートの四畳半の部屋に置いた四脚式簡易ごたつの卓上でフォームを書き上げた。 大学三年次の冬期雪上テントの中で閃いた時から数えて6年目にして、ついに自己納得のいく履歴書を国連へ送付することができ、 一区切りをつけることができた。人生の大きな目標に向けて、その足を一歩前に踏み出すことができた。

      国連では何時に海洋法担当の日本人法務官ポストが空くことになるのか、恐らく何年も先のことと思われた。 第三次海洋法会議はまだまだ佳境の域にあった。特に人類にとって経験したことのない、深海底の人類共有財産である鉱物資源 開発レジームの創設に携わり、しかもG77と先進国とが対峙する情勢にあったので、会議は5、6年は続き、恐らくポストが空席化 するのは見込み薄と推察された。空席化を余りに期待し過ぎると焦燥感がつのるばかりになりかねない。故に、実務的に淡々と NYへ送付するだけにした。1976年の年が明けた頃のことであった。



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    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
            第2節 ビジネス・センスは零、その悩みと焦り