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    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事

    第4節 天から舞い降りた新聞広告、運命の分岐点となる  

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      事務所に居たのはたった所長と私だけであったから、二人して胸襟を開き、事務所のビジネスのあり方などを率直に語り合うべき であった。さすれば、何がしかの前向きなアイデアが生み出され、共有され、前を向いて歩むことが できたかもしれない。だが、率直に話し合うことはなかった。何故だったのか。未だに理解できないところである。 二人とも余りに遠慮深かったようである。それとも、話し合っても互いのベクトルを合わせられそうになく、互いに傷つけたままに なりそうで、それ故に、話し合う勇気を奮い立たせられなかったのかもしれない。同じ事務所の屋根の下に居ながら、二人の歩む道は どこかずれたままで、思い思いのことをしていたように思う。

      毎日意気揚々に燃える心をもって事務所に向かいたかったが、沈んだ心で通勤電車の吊り革に手を掛けていることが 多かった。地下鉄・銀座線の渋谷駅を出て虎の門駅に近づくにつれ、足取りはさらに重くなって行くようであった。 事務所での調査研究事業面でも、また経営収支面でも何でも貢献したかったが、何をどうすればいいのか、浮かぶアイデアはいつも 堂々巡りで、確信のもてる企画案を生み出せずにいた。日々焦る心と虚無感を抱きながら、アパートと事務所との間を往復していた。 1976年の桜が咲く頃のことであった。

      4月上旬のある日のこと、事務所に出社した後カバンを置いてすぐに、事務所が定期購読する朝日新聞の三つ折りを手にして、すぐ近所の 喫茶店に出掛けた。事務所が面する路地裏をさらに奥へ進むと行き止まりになっていたが、喫茶店はその袋小路の突き当りにあった。始業にはまだかなりの 時間的余裕があった。今から眺めれば、昭和時代の風情を丸出しにしたような店であった。 モーニングセットが「お得です」という、透明のプラスティック製卓上広告に吸い込まれて、それを即座に注文した。 そして、厚切りでバター味のトーストをかじりながら、時にコーヒーをすすりながら、広げた新聞の見出しなどを追いかけていた。

      新聞誌面のトップには、田中角栄首相が絡むいわゆる「ロッキード贈収賄事件」の記事が踊っていた。政財界は大荒れであった。 それを走り読みしながら、ページをめくりめくりして社会面にたどりついた。社会面の見出しを上から下へ追っていた。その時、何気なく 左下方の小さな四角い太枠が気になって、目をやった。一瞬ハッとその太枠に釘付けとなった。国際協力事業団(JICA)の職員募集 広告であった。政府の開発援助に携わるあの事業団が職員を募集していると一瞬驚き、次に頭上に稲妻が落ちたような衝撃を受けた。 興奮冷めやらないまま、改めて広告をしっかり読んだ。間違いなかった、ODAを実施するあの政府系特殊法人のJICAであった。 しかも、新卒ではなく、社会人を中途採用するというものであった。そのことが興奮を倍加させた。 応募条件や待遇面も付記されていた。よくぞ偶然に目に留まったものだと、鳥肌が立ち身震いもした。

      実のところ、出身地である茨木市は事業団と深い縁があった。市街地から西へ数kmの静かな住宅街の中に、外国人研修員が宿泊し 研修も受講できるという、政府系機関の唯一の施設があった。それがJICAの研修施設であることはよく知っていた。それに、 関大院生の頃、「青年海外協力隊(JOCV)」のボランティア隊員に応募して、海外でボランティアをしたいと真剣に考えていた ことがあった。JOCVはかつてはJICAとは別の独立組織であったが、1976年当時にはJICAへ吸収統合されていた。

      自分には協力隊にどんな職種で応募できるのかを真剣に思い巡らせたことがあった。法学のバックグラウンドをもつ者にとって、応募 するに相応しいボランティア活動の職種は特になかったと記憶する。私が小六の時に親父が他界したが、それ以来渡米する 直前までの12年間、農事にも従事していた。大学生でありながら農協組合員資格をもっていた。それは農業専業者でもあることの証であった。 だから、今から考えれば農業開発や農村生活向上支援なんかの職種であれば、十分応募資格があったのではないかと、思うことがある。 私がその30数年後にニカラグアに赴任した折には、70名余のJOCV隊員が全土で活躍していた。そして、そのうち4,5名はそのような 職種で頑張っていた。

      休題閑話。新聞がまたしても一つの偶然、一つの幸運を呼び寄せたと思った。振り返れば、私の人生の大きな転機には新聞や郵便 ・手紙が直接的に関わってきた。そして、自身の未来に劇的な変動をもたらしてきた。神戸商船大学の小谷信一学長、 国連法務官の曽野和明氏、海洋関連事務所長の麓多禎氏との三つの出会い、 そして今回のJICA職員募集広告との遭遇もまた新聞によるものであった。

      早速、履歴書用紙を文房具店で買い求め、その日のうちに書き上げ、翌日には履歴書用写真を添付して投函した。一か月後には、 都内の広尾に所在する協力隊の研修施設での筆記試験に臨んだ。受験者は何百人と大勢であった。是が非でも合格したいと願っていたが、 正直自信のほどは余りなかった。確率でいえば五分五分くらいで、運が良ければ合格できるかもしれないと、秘かに希望を繫いでいた。 試験のレベルは国家公務員中級試験程度と言われていた。

      さて、誠に嬉しいことに、めでたく一次試験に合格した。出勤直前に、そのことを知らせる電報をアパートで受け取った。 西新宿の超高層ビルのうちの一つである新宿三井ビルでの面接試験に臨んだ。5、6人の面接官が居並ぶ前での面接であった。 受け応えに窮するような難しい質問はほとんどなく、それに面接時間はさほど長くはなく10分程度と記憶する。 その後一週間ほど経った8月のある日、人事課担当者から内々の採用を知らせる電話を受けた。 受験者のほとんどは当時勤めをもっていたので、その職場を円満退職するための時間的余裕が必要であった。それ故に、何月から 勤務できるかという照会電話でもあった。1976年11月1日から出社することにした。留学から帰国して1年余後のことであった。

      新聞紙上でのJICA職員募集広告との偶然の運命的出会いと、社会人中途採用試験合格がなければ、現在の自分はなかった。 何という人生航路の劇的な転機となったことか。事務所では海洋法制や海洋政策課題との関わり合いを持ち続けられたことは 喜ぶべきことであったが、将来展望をなかなかもてない不安定で不安な立ち位置であった。そんな立ち位置からの運命的で劇的な 転機となった。私的には、JICAは人生行路におけるいわば救世主のような存在であった言える。

      さて、余談であるが、それまでの焦燥感や虚無感がまるで嘘であったかのように心が晴れて、どこかへ旅に出たいという気分が 湧いてきた。そこで、三陸のリアス式海岸の絶景を一度は見たいと、10月中旬、行き当たりばったりで東北・盛岡へと向かった。 宮古で海べりをそぞろ歩きし、小船で仏が浦という奇岩の多い風光明媚な海岸を散策し、その後は田老という漁村へ向かった。 初めて見る田老の漁村風景に驚いた。山が迫り少しの平地に家屋が密集していた。 その市街地から海岸に出ようとした時のこと、分厚いコンクリートの防壁が立ちはだかった。海岸線に沿って街全体が高さ5、6mも あるような、そびえ立つ防壁で囲まれていた。そして、海に出るには鋼製で堅牢な大扉を通る必要があった。津波から街と人を 守るためであった。防壁が伸びる先には岩がそびえ立ち、その岩壁には大津波がかつてこの高さまで来襲したという痕跡が示され ていた。ところで、40数年後の2011年3月11日、「東日本大震災」で来襲した巨大津波がその防壁を乗り越え漁村を一呑みにする大惨事に 襲われた。

      東北3県をはじめ東日本の太平洋岸を襲った大災害、大悲劇であった。東電の福島第一原子力発電所のメルトダウンはもう一つの 大惨事をもたらした。地震発生時私は渋谷の道玄坂のあるビル内に居た。ビル内ではさほど揺れなかったが、通りに出て見てただならぬ 巨大地震と直感した。眼前の全てのビルが上下左右の激震に飛び跳ね揺れていた。互いにぶつかり合って今にも通行人めがけて崩れ落 ちて来そうであった。その後、25㎞ほどの道のりを7、8時間かけて徒歩で帰宅した。明治通りなどどこもかしこも歩いて帰宅する 人々や渋滞で全く動きようもない車両で溢れていた。 途中ショーウインドの中につけっ放しされていたテレビの画像に釘づけとなった。仙台空港の滑走路を津波がまさに呑みこもうとする ところを生放映していた。心臓が凍りつき、息するのも忘れるくらいであった。

      私は11月1日新宿本部での入団式に出席し、その日から4,5日間のオリエンテーションを受けた。同期となる入団者は20名ほどで あった。その後、研修事業部の研修第2課という部署に配属された。先輩諸氏の手ほどきを受けながら実務をこなした。数週間そこ そこにして最初の給料日が来て、はじめての給料袋を受け取った。 当時はまだ銀行口座振込みではなく、現金が給与明細書と共に茶封筒に入れられていた。 生まれて此の方一度もまともに給料袋なるものをもらったことがなかった。明細書と共にほんの少しだけ束になった一万円札の入った 給与袋を背広の内ポケットに入れて家路に就いた。時折、左胸に手を押し当て袋があることを確かめながら帰宅したことをよく覚えている。

      その後信じられないような有り難い給金をもらった。12月1日に在籍していたということで、給与規則に基づき冬のボーナス までもらった時には、浮かれた気分で飛び跳ねるようにして帰宅した。何はともあれ、毎月定日に給金をもらえることの有り難さを痛いほど噛みしめた。 特に直近の過去一年での経験からすれば、なおさらのことであった。それに、何の後ろめたさも無く給金をもらえることも嬉しかった。

      ところで、JICAは、日本政府の発展途上国向け国際技術協力の実施を担う政府系特殊法人である。JICAへの奉職によって、 国際社会と何がしか関わり、国際社会に少しでも貢献したいという、かねてからの思いが叶ったという思いを抱いていた。 国連予算ではなく日本政府の予算であるという違いはあるが、発展途上国の国づくり人づくりを通じて、 国際社会への社会経済的な貢献につながる仕事をすることの意義としては本質的に同じであった。JICAの業務を通して、数多くの 発展途上国の人々と向き合い、異文化を理解し、少しでもお役に立てることができそうであった。それは長年の夢の実現でもあった。 途上国への何がしかの貢献に関われるということは、まずもって最大の喜びであった。

      私的には、JICAは国際的な業務のキャリアアップを積み上げるうえで申し分のない機関であったが、さらにまた、志願中の国連 海洋法担当法務官ポストの空きを待機する上でも申し分なかった。 JICAの業務を通じて、水産などの海洋領域との関わり合いをどのような部署でどの程度もてるのか未知数であった。 運を天に任すしかなかったが、少しでもそんな領域での業務に従事することができれば、海洋法担当務官のためのキャリアアップ につなげられるものと、多少は期待していた。

      他方、内心では二足のわらじを履くこともできるのではないかと考えていた。 有り体に言えば、麓氏の事務所との関わり合いを保ちながら、何がしかの海洋法制や政策課題に関する調査研究を続けることが できるものと楽観視していた。 商船大学受験を諦め「山の世界」に閉じこもって丸6年間も過ぎたが、その以後折角海に回帰できたにもかかわらず、再び海の世界 から遠く離れ、海洋法・海洋政策などに関する専門性を手放すことなど、到底考えられなかった。 専門性を手放すことなど頭の片隅にもなかった。要は、JICAに奉職してもどのように海との接点を保ち続け、専門性を高めていくかの 主体性の問題であった。専門性を捨てれば、日本や米国での勉学を長く支え続けてくれた家族や指導教授、その他の多くの方々に 本当に申し訳ないという真摯な想いだけはあった。

      将来を総観すれば、JICAへの奉職は、一石四丁、あるいは五丁の有り難い理想的な職場であると思えた。 給金・ボーナスをいただき自身の生活基盤、特に家計が安定すること、自助努力をもってすれば海洋にまつわる調査研究を何とか 続けられる見込みもあること、そして給与という定期収入は調査研究の財政的足元を固めることにつながるからである。また、 JICAでの国際協力業務は間違いなくキャリアアップにつながること、またJICAでの部署と業務によっては、国連海洋法務官ポストの 空きを待機するうえでキャリアアップにもつなげられるかも知れないからである。また、 予算的出処は異なるが、国際社会への貢献につながる業務に身を置くことができるからである。ただ、JICAにあって、海洋との関わりを どう見い出し、繫ぎ留めるかであるが、それにもチャレンジして行こうと決意を新たにしていた。

      JICAへの奉職をもって人生の新たなスタートラインに就いた。奉職後の先々に一体どのような未来が待ち受けるのか 具体的に想像することはできなかったが、明るい希望の光だけは輝いて いるように感じた。己の人生の「海図」に、その向かうべき具体的な針路と航路をどうプロットするのか、遠い先のことはさておいて、 先ずは東京にあるJICAの「港」を出でて、大海に待ち構えるいろいろな実務をこなす航海に乗り出すことになった。

        新聞広告に出会ったのはまたも偶然であったが、しかしこれまでの人生で一度も偶然を当てにしたことはなかった。 夢や希望をいつも思い描き、その思い入れがそれなりに強固であったが故に、自身の眼前をたまたま通り過ぎるものを、たまたま 見逃さずチャンスにできた、ということであろうか。それにしても、閲覧する新聞ページは無数である。そのうちの一つの小さな広告 がたまたま眼前を通り過ぎようとしていた。そして、奇跡的にもそれがチャンスになった。新聞がまたもや偶然に奇跡の幸運を 呼び寄せた。その結果がJICA奉職に繋がった。人生の幸運をそこで全て使い果たしたような、ある種の恐ろしさ感じることもあった。 不安を抱きながらも出口の見えない暗いトンネルを通り抜けた。トンネルの出口を抜けた後の景色は格別で眩しく輝いていた。



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    第6章 国際協力事業団での第一歩を印す
            第1節 研修事業と人づくり心の触れ合い