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    第6章 JICAにて国際協力の第一歩を踏み出す

    第2節 研修事業が海と連環することを知り、鼓舞される  

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      研修事業の仕事を通して何がしか海との関わり合いや繋がりをもてることを念じてはいたが、余り期待はしていなかった。 それでも、途上国からの大勢の技術研修員と彼らの異文化と向き合いつつ、心の片隅では、何か接点や連環性はないものかと、 身の周りを見渡し模索していた。 研修第2課2班は、通産省、文部省、科学技術庁が所轄する業務に関係がある研修コースを担当していた。 端的に言えば、第2班は、それらの2省1庁傘下の研究機関、国立大学とその研究所などを受入研修機関とする コースを担当していた。それ以外の省庁に関係があるコースを担当するのは他課他班であった。

      海との関わり合いが深かったのは、農林水産省傘下の水産庁、運輸省傘下の海上保安庁が絡む集団研修コースであった。 セットメニュー型の集団コースは少なくとも200以上はあったと記憶する。私自身が担当したコースではなかったが、例えば、水産庁と繋がりの深い 集団コースとしては、沿岸漁業、養殖、漁業組合運営などがあった。基本的には、それらの漁業関連の研修は、新宿の本部ではなく、 神奈川県三浦半島の先端にある漁業の町・長井にあった「神奈川水産国際研修センター」で主に実施されていた。 座学は勿論だが、各種の沿岸漁業実習がその長井の地先海面で行われていた。本部のコース担当者が任務としていたのは、 外務省技術協力課や水産庁の国際協力室との募集要項のやり取りや、研修員の募集・選定などに関する連絡調整(リエゾン機能)、 その他修了証書の発行など極めて限られたものであった。漁業に関する研修の運営に実質的に携わりたければ、同水産研修センターに勤務 する他なかった。

      さて、海との関わり合いが最も深かったのは、運輸省傘下の海運局、港湾局、海上保安庁が絡む集団研修コースであった。両局や同庁がコアになって、 海運、造船・船舶設計、海上安全・保安・海上防災、船舶交通管制、灯台・航路標識整備、水路測量・海図作成、 港湾管理、コンテナ管理、海上無線通信、マラッカ海峡航路標識整備などに関連する多くの集団研修コースが運営されていた。 コース実施に当たっては、海上保安庁水路部をはじめ、港湾建設技術や船舶安全・設計などに関連する政府の研究機関や公益法人など と密接な連繋を取り合っていた。農水省、水産庁や運輸省関連の研修コース運営は他課他班の仕事であったが、研事部に長くいると、 いろいろサイド情報を得ることができた。研修プログラムの座学や実習の概略などについて、同僚を通して何かと情報に接する 機会があり、それだけでも自身の励みと刺激になった。もちろん、研事部の職場内や図書館などで、研修で使用されるテキスト類、 研修員の修了時報告書や母国での所属機関・任務関連資料、帰国研修員巡回報告書などにも気軽に接することができた。

         休題閑話。私が担当した集団研修コースの中にも海と深く関わりをもつコースがあることを発見し、それに大いに喜び精神的に 救われもした。私的には、担当するコースが海と少しでも繋がりがあるのとないのとでは、張り合いや遣り甲斐が大いに異なっていた。それがあれば、 自然と仕事への心の励みとなった。さて、その最も海と繋がっていたコースは通産省絡みの「沿岸鉱物資源探査」であった。

      同コースのミッションは、沿岸域における各種の海洋資源調査の技術を学ぶことであった。沖合大陸棚の海底地形調査や 海底地質調査の他、大陸棚下部の物理構造について地震探査法をはじめとするいろいろな調査技法とその関連機器を用いて明らかにし、 海底石油ガス資源などを探査する技術を学ぶものである。コアとなる研修実施機関は、当時通産省工業技術院傘下にあった地質調査所(GSJ) である。同所を中核機関にして、数多くの政府系研究機関とそれらに所属する大勢の研究者を巻き込みながら、 充実したカリキュラムやシラバスが長年に渡り積み重ねられていた。

      地質調査所は、約5か月間のカリキュラムの編成の中心となり、各関係機関のベテラン研究者らに講義を割当て、コース用の独自の テキスト・資料の作成、実習計画の作成とその実施のためのアレンジなど、あらゆる技術的準備を請け負ってくれていた。また、 地方への研修旅行の計画、研修修了時の評価会の司会進行や取り纏め、次年度の研修へのフィードバックなど、コース運営全般にわたり 主体的に担ってくれていた。

      沿岸鉱物資源探査プログラムに関わった協力関係機関としては、当時の公害資源研究所、金属鉱業事業団(MMAJ)、石油公団、海洋科学 技術センター(JAMSTEC)、工技院の工業技術研究所、東京大学の海洋研究所、その他海洋開発会社など多数に上った。毎年、 10数か国から、海洋研究をはじめ、海洋物理・地質学や地球物理学研究を専門とする政府系研究所や大学付属研究機関などから 研究者や技術者が参加していた。米国に1年ほど留学した時は別にして、法学のバックグランドしかもたない私は、日本では海洋自然 科学や工学系に関わる研究機関やその研究者らと交わる経験は一度もなかったので、そんな場に居合わせることすらも新鮮さを感じる ほどであった。

      沿岸鉱物資源探査コースの研修修了に当たっては、全研修員やコースリーダー、主だった講師など、大勢の コース関係者が出席する中、研修員一人ひとりから研修報告書の発表を含む評価会が地質調査所にて開催された。各研修員は研修 プログラムについて思い思いの評価や所感を述べ合った。研修の成果や課題は勿論であるが、学んだ知見の帰国後における活用計画 などについても発表した。全ては来年度の研修プログラムを少しでも良くするために拝聴され、フィードバックがなされる。この 評価会にはコース担当者として、何を差し置いても出席し、評価を共有するよう努めた。海に繋がるこのコースを担当できたことは 大変幸運であり光栄であった。

      米国に留学して初めて、自然科学系の海洋研究機関やそれらの関係者との接点が生まれ、何がしかの海にまつわる学びの体験を することができた。高だかその程度のことであったが、その後に社会人となって初めて、そんな学びの体験の延長線上をわずかながらも 歩むことができた。そして、日本でのそれらの学術領域におけるそうそうたる海洋関連機関や研究者らとの接点をもつことができ、 嬉しい限りであった。研事部に配属された時に多少の期待はあったが、海との繋がりは期待以上のものがあった。

      そんな中で残念なことが一つだけあった。研修受託機関の地質調査所にはしばしば訪れ、業務打ち合わせをしたり、研修員の研修 状況を垣間見たりしたけれども、他の協力機関を訪ねる機会はほとんどなかった。講義はほとんど地質調査所で実施されたためであった。 高名な海洋地質学者や海洋学教授などの講義の末席を汚し、時にじっくり拝聴し、あれこれ思案の糧にしたかった。だが、時間的に みて到底叶うことはなかった。だが、担当者としてコースに携わり、研修員を支えることに大いに誇りと遣り甲斐を感じていた。

      海洋関連の研究機関が身近なものに感じられたことも、もう一つの喜びであった。日本の主要な海洋関連機関がどのような定期刊行物を発行し、 どんな海洋科学論文を掲載しているか、大いに関心をもつようになった。それまではそんな思いつきもなく、刊行物をひも解く 機会もなかった。JICA図書館はそれらの機関から定期刊行物の無償提供を受けていた。バックナンバーをはじめ最新号をいつでも閲覧できた。 図書館にはそれ以外にも、数多の国内外の書籍・資料が揃い、国別研究はもちろんであるが、海にまつわる知的好奇心を満たすことが できた。

      因みに、地質調査所は「地質」という自然科学系の定期刊行物を発行し、東シナ海の大陸棚の地質のことや、太平洋でのマンガン団塊の 調査航海や関連論文などをたまに掲載していた。それはほんの一例であった。図書館はそんな海洋研究機関発行の定期刊行物などを揃え、 身近な知の宝庫となっていた。もちろん、水産関連の政府系研究機関や海外漁業協力財団などの水産公益法人が発行する定期刊行物や研究報告書なども 閲覧することができた。時に複写をしてもらい、後日じっくり熟読することで、新しい知見に触れ刺激を絶やさない機会とすることができた。

        さて、チェコスロバキアの技術者一名を、深海底マンガン団塊の採鉱技術視察のために受け入れることになった。それは海との つながりを最も取りもってくれた個別研修コースであった。通産・文部省、科技庁担当の第2班の私にも、全く思いがけずそのコースを 担当する役目が回って来た。何とラッキーであり、もろ手を上げて「ウェルカム」であった。張り切って、じっくりと真剣に、かつ 楽しみながら、その研修プログラムづくりに取り組んだ。私がそれをプログラミングする最も適任者であろうと、内心で自負したし、 また事実そうであった。ワシントン大学でマンガン団塊の採鉱とその海洋環境影響評価について、一学期間じっくり取り組んだこと があった。その学びの一環として、国連海洋法会議での団塊開発レジームのことについても多少はかじった。当該プログラミングは、 自身の「海への回帰」の延長線上にあって、その回帰をさらに深化させてくれるものであった。そして、それは海への回帰の喜びを最も実感させて くれるものとなった。当該研修要請は、国連工業開発機関(UNIDO)から寄せられたものであった。

      UNIDOからの要請書と研修員の履歴書のA2A3フォームを目を皿のようにして熟読した。要請された研修とは、端的に言えば、日本に おける深海底マンガン団塊の採鉱技術開発に関する現況を視察したいというものであった。日本の技術者との間で議論したい具体的な テーマがある訳ではなかった。採鉱プロセスのうちのある特定技術の開発現況を知りたいとか、当時の国連海洋法会議での議論の 焦点になっていた開発制度やその具体的課題・争点について日本側関係者と意見交換したいとか、フォームにはそんな具体的要望について 特に記載はなかった。

      零からのプログラムの作成に取り組んだ。過去の参照可能な類似的研修プログラムはなかった。わずか10日ほどの短期滞在に よる視察型研修であった。沿岸鉱物資源探査コースを通して繋がりを培ってきた地質調査所に一切のプログラミングを依頼すること もできたが、そうはしなかった。短期の研修であり、日本での団塊採鉱技術の研究機関はごく限られていたので、自身の経験値の向上も兼ねて、 自立的にプログラミングに挑戦した。A2A3の余り明瞭でない記述をいろいろ意訳し、またあれこれ必要以上に忖度もしながら、5~6の 研究機関に、その目的と視察内容の他に、意見交換希望内容などを正式文書にしたため、受け入れを依頼した。もちろん、通産省の国際 協力課に仁義を切った。その後は関係機関窓口の担当者に直接に事前連絡を取って、視察の要点を口頭説明しながら協力を依頼した。 こうして、零からプログラムを組み立てるのに、1~2週間楽しい毎日となった。

      私は、訪問先として、筆頭に地質調査所、次いで公害資源研究所、さらに海洋科学技術センター(JAMSTEC)、 東大海洋研究所、金属鉱業事業団などをコアに据えた。日本は当時ワンチームになって、地質調査所や金属事業団などの諸機関は 協業しながら、「白嶺丸」などの調査船をもって、太平洋ハワイ諸島南東方面海域の、いわゆる「マンガン団塊の銀座」で、団塊探査 航海を繰り返していた。

         政府研究機関や大学などの視察をはじめ、当該分野で最先端を走るそうそうたる学者・研究者らとの意見交換が可能となるように 、最善を尽くしプログラムを練り上げた。さらに、可能な限り研修員に同行して、自身も団塊採鉱技術開発の最前線の現場で、それら の研究者らから直接説明を受ける絶好の機会をもつことができた。全てに同行することは無理であったが、地質調査所、公害資源研究所 やJAMSTECなどには同行できた。JAMSTECに同行した折には、海洋エネルギー開発、特に波力発電分野での権威者である益田氏との面談に 立ち会うことができた。

      ワシントン大学で、マンガン団塊を巡る国際開発レジーム、先進国での探査・採鉱の技術開発現況、さらには採鉱にともなう 環境への影響評価などを学んだことが、このプログラミングにおける予備知識として自信をもって大いに役立てることができたと、それなりに秘かに 自負した。

         ところで、マンガン団塊開発レジームについての国連での議論に少しだけ立ち戻りたい。鉱物資源開発に要する技術・資本力 を有する先進諸国は、国連第三次海洋法会議当初から、マンガン団塊をできるだけ自由に開発することを望んでいた。 1973年に同会議の第一会期が開催され、当時始まって間もない頃には、マンガン団塊を人類の共同財産として、 その探査・開発は新設される国際機構による一元的管理に服することを頑なに主張する東欧・発展途上国の「グループ77」と、 より緩やかな管理の下で探査・開発を求める先進諸国とが激しく対峙していた。

      米国、英国、フランスなどの先進諸国の民間開発企業体は、団塊の探査・開発において、国際機構からライセンスを取得し、その対価 として一定の合理的な許認可料あるいはロイヤルティを支払うという「ライセンス方式」を主張していた。だから、国際機構の機能は、 開発企業体間の利害対立回避のための調整を果たすことに限られるべきというものであった。

      これに対して、G77は、国際機構を設けるとともに、同機構の強力かつ一元的な管理権の下で開発が行われるべきことを主張していた。 国際機構が探査・開発・精錬・販売まで行なう主体となることを念頭においていた。だがしかし、 機構そのものは技術・資金力をもてそうになかった。このことから、先進諸国の企業体は、機構自身の事業体とジョイント・ベンチャー 契約を交わし「雇われ操業者」となって探査・開発などの活動に参加するというものであった。 いわば「ライセンス方式」と「直接開発方式」の二方式が、同会議初期段階において、先進国とグループ77間で鋭く対峙していた。 そして、1975年当時はまだ、その対立の行方は混沌とし、レジームにつきいかなる合意形成に落ち着くか、全く見通せる状況にはなかった。

      時はその1年ほど後のことになるが、米国が両者の膠着状況の打開を図るために重要な提案を行なった。即ち、1976年第4春会期 において、米国キッシンジャー国務長官が次のような提案を行なった。国際機構は、その下部に組織される事業体をもって直接開発 することも、あるいはまた国家企業体や私企業体が国際機構と契約して探査・開発することもできる。企業体は、探査契約時において、 同等の商業的価値を有するの二の鉱区を申請し、一方の鉱区において探査が許可され、他方の鉱区においては機構の事業体や途上国 による開発のために留保される、ということが提案された。

      ところで、チェコスロバキアはグループ77に属していた。同グループのコアは発展途上国と東欧諸国であった。 研修員が来日したのは1978年であった。米国務長官の先の提案があって、議論は大いに進展するところがあった。 先進・途上国間の対峙は基本的に、探査・開発に従事する事業主体は誰とするかであり、それが最も際立った 対立点であった。それが打開される方向に進んだとはいえ、開発レジームに関する議論の対立点はそれだけでは済まず、後々幾つもの 重大な争点が浮上していた。

      全ての争点の妥協と決着を図って条約案採択に漕ぎ着けるためには、その後7年以上もの年月を要した。その大きな要因は、それら の争点の合意形成がはかどらなかったことによるものであった。例えば、重大争点の一つとなったのは、開発したい先進諸国の企業体 に対して、国際機構の事業体への強制的な技術移転を義務付けるかどうかを巡って激しく対立した。特に第三者の技術に絡む移転義務の 有り方に集中した。途上国は、企業体が国際機構と契約を結ぶ際、その企業体が使用する技術につき申告させ、機構の事業体に 無償で使用させるべきことを主張したのである。当然に、先進国はそれに反対で応じた。

      視察に訪れたのはグループ77の構成国であるチェコスロバキアからの研修員であることから、日本の研究諸機関を視察しながら、 その義務的技術移転についてどう考えるか、どうあるべきかという設問を内に秘めながら、その解を探っているのであろうと考えた。 だが、彼に同行した機関の視察中、そんな類いのことは話題にされることはなかった。故意に避けていたのか真意は分からないが、 関心は日本の探査や採鉱技術開発の状況やレベル、課題などの技術論に主眼をおいた視察であったようである。 どうも私の忖度のし過ぎであった。

      深海底マンガン団塊採鉱技術プログラムづくりとその同行案内などに自信をもって、かつ大いに楽しみながら取り組んだ。だが、 このようなプログラムづくりはこれが最初で最後となった。とはいえ、一回だけでもその機会に恵まれたことは、私的には仕事への 大きな励みと刺激となり、自身を鼓舞させてくれた。実に貴重な機会に恵まれた。研事部での仕事は、それだけでも満足度100%であった。

      かくして、研事業部にはほぼ3年(1976年~1979年)勤務したが、沿岸資源探査研修コースの運営や深海底資源開発技術視察の プログラミングに大いなる喜びと遣り甲斐を感じながら、研修員の受入事業全般にわたり楽しく取り組むことができた。 大勢の「異邦人」と正面から向き合い、「人づくり」の一端を担うことができた。将来彼らが「国づくり」に本領を発揮できることを 願いながら、3年間だがそのための「種播き」をも担うことができた。「異邦人」と時に心を通わせ、彼らの異文化や個人的な価値観 を学べる場でもあった。また、国内外の幾つものヒューマン・ネットワークを築く場ともなりえた。国際協力という仕事についての 「経験値」をワンポイント上げることができた。そして、早くも次はどんな部署でどんな仕事に取り組めるのか楽しみにしていた。

      ところで、私的には、「JICAへの奉職」という偶然的で奇跡的な幸運の他に、もう一つの幸運に巡り会った。JICAという職場 における「人生の伴侶との出会い」である。朝日新聞の広告を見たことが、その一年に起こった全ての偶然の始まりであった。 それがJICA奉職に繋がり、さらに運命の伴侶との出会いをもたらした。妻は研修第3課でスペイン語の監理員をしていたが、当時は 監理員採用などの内勤の仕事をしていた。私とは半径5mの円の中に居合わせていた。いわば半径5mの円内の世界を仕事圏にしていた。 余りにも幸運にしてJICAに奉職することができ、その上人生の伴侶にまで巡り合い、私の人生に割り振られた幸運をこれで全ての使い 果たしてしまうのではないか、と内心恐々としていた。「幸運の女神」から一年のうちに二つもの人生最大の贈り物を授かったからである。 研事部に配属されてから9か月後にゴールインした。

      研事部もそろそろ卒業することが視野に入って来た3年目の後半に入って、突如海外出張のお鉢が回って来た。エジプト、 トルコ共和国、フィリピンの3ヶ国への夢のような出張であった。真っ先に古代文明の母なる大河ナイル川と地中海の紺碧の海、 ボスポラス海峡と金角湾に架かるガラタ橋を想像していた。さらに、国際海洋法で定義される「群島水域」に囲まれた数多の島嶼の集合体 であるフィリピンと眩しく銀色に輝く南洋の海のことを想い浮かべていた。  



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    第6章 国際協力事業団での第一歩を踏み出す
            第2節 初めての海外出張に赴く(エジプト、トルコ共和国、フィリピン)