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    第7章 世界中の水産プロジェクトに真剣に取り組む

    第3節 チュニジア漁業訓練センタープロジェクトから多くの教訓を学ぶ  

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      インドネシアの漁港調査から帰国後すぐさま担当したのは、北アフリカのイスラム教国であるチュニジア共和国での 「漁業訓練センター」というプロジェクトであった。担当してみて徐々に芽ばえてきた印象があった。チュニジアは、 私的には、「課題のデパート」のようなプロジェクトであった。もちろん、最初から先入観をもって臨んだわけではない。 水産室での約3年間にわたるこのプロジェクトの運営業務を通して学んだことは、どのプロジェクトよりも豊富であったことを後々 知ることになった。

         さて、プロジェクトが所在したマディアは首都チュニスから南東200kmほどにある、地中海に面した小さな港町で、沿岸漁業が 盛んであった。チュニジア水産局の肝いりで、そこに国立の漁業訓練センターが設置されていたが、そこでトロール網漁法、巻き網漁法、沿岸漁具漁法 の3つの漁撈技術の全国的な普及や漁業生産能力の向上をめざした。全国からセンターに水産普及員などが集められ、3つの漁撈技術に関し、座学と実習を施して普及員の 技術的ノウハウのレベル向上をめざした。

      日本からのインプットは、3漁法の長期専門家の他に、リーダー、業務調整員、さらには日仏語通訳翻訳業務に当たる計6名の長期 専門家であった。また、マグロ延縄の漁労技術を移転するために、三崎で「マグロ漁の神様」と称されていたベテランの短期専門家など も派遣した。他方、専門家からのノウハウの直接的な受け手であるカウンターパートとして、それぞれの漁法につき一名ずつ指名された。

      彼らは大学を卒業して間もない若者であった。若いカウンターパートは柔軟性があって、ノウハウを伝授するにはいいのだが、 もともと漁労技術のことを専門にはしていなかった。また、漁撈実践豊富とは言い難かった。実は、チュニジアには、日本の場合と異なり、 水産学部漁業学科のような漁業技術を専門に学べる学科はなかった。彼らは、チュニス大学の生物学部などでの教育学的バック グラウンドにもつカウンターパートであった。

      先ず、指導分野ごとに各担当専門家によって、自身のカウンターパートに対して、漁撈技術につき集中的指導が施され、その 漁労技術の修得に時間が割かれた。協業して、指導要領をはじめ、同センターの受講生である水産普及員向けのテキスト類などの 作成に取り組んだ。その習得にほぼ目途がたった頃、今度は指導要領に基づき、カリキュラムに沿って、カウンターパートが受講生の 水産普及員らへ直接に、半年間ほどの座学・実習を通じて、担当する漁撈技術を講義した。もちろん、さらにその先に待ち構える 技術の受け手、即ちエンド・ユーザーは、実際に海で漁業を営む漁民らであった。

      かくして、漁労技術の受け渡しのピラミッド構造は四段階方式となっていた。仮に日仏語通訳の専門家を含めれば、専門家、通訳、カウンター パート、受講生の水産普及員、漁業従事者という、五段階構造であったといえる。その教育プロセスの長さを想うと、ため息が出た。 全国の漁民が学び知り得た漁撈ノウハウを生かして、実際の海での操業において、新たな魚種を漁獲したり、今まで以上の漁獲高を 得られるまでには、長い長い道のりが横たわっている。時間や労力、さらに経費の掛かるノウハウの移転方式であった。

      チュニジアのプロジェクトは、通訳の専門家も介在するという長いプロセスを経るものであったとしても、水産教育にまつわる プロジェクトにおいては、少なくとも四段階構造下での技術移転は、JICAの技術協力では一般的ものであった。それにしても、 「国づくり人づくり」のための技術の受け渡しや種まきに、何かやり切れないもどかしさを感じるものがあった。ただ、技術移転はこの ようなものと初めて知り、またそれを受け入れもした。

      例えば、フランス人によるチュニジア人への直接の専門的技術移転は別格として、ドイツなどが移転する場合でも五十歩百歩である。 理論的には、全世界から漁業技術に長け、しかもフランス語に堪能な専門家を日本政府がリクルートして、カウンターパートや 大勢の受講生に直接移転するという方法もありうる。コスト的には多少は安上がりかもしれない。最大の課題は、経費は日本が負担し、 教育・人材育成は例えばフランス人となり、二国間の協力でありながら「日本の顔」が見えないことになる。例えば、 日本からの拠出金をもって、国際食糧機関(FAO)が水産プロジェクトをチュニジアのために実施するのであれば、あるいは 「バスケット方式」で多国の資金を寄せ集めて実施するのであれば、もともと日本国旗だけの下で援助するものでないから、日本の顔が 見えなくともよい。むしろ見えないのが良い。だが二国間協力であれば、やはり「日本人」専門家による移転でないと困るのである。 日本人の顔をみせてこそ、日本による協力であることを示威することになる。援助の資金と顔とがイコールとなるのである。

      さて、3年にわたってこのプロジェクトの運営を担当することができた。そして、その間プロジェクトの運営管理に関する いろいろな実用的な知恵を授かった。先ず一方で、漁撈技術の伝授と普及、水産教育レベルの向上、漁撈における労働生産性の向上など をめざし、両国の関係者は自身のベストを尽くす努力をした。他方では、その過程で乗り越えねばならない幾つもの高い壁にぶちあたった。 乗り越えるのに想定外の時間と労力を要しながら乗り越えた壁も多かったが、他方では乗り越えられず手痛い教訓だけを残すことになった 壁もあった。

      プロジェクト実施において往々にして直面する幾つかの共通的な壁や障害がある。事例を挙げて見たい。カウンターパートの定着の問題である。 チュニジア・プロジェクトの成否を左右する最も深刻な問題であった。カウンターパートは専門家から直接の、かつ最初のノウハウ の受け手である。一年ほどかかってノウハウの受け手として育って来たカウンターパートが、道半ばにして交替を余儀なくされる ことがあった。プロジェクトの使命を完遂する上での最大の痛手となった。チュニジア側には止むを得ない事情があるとしても、 日本側関係者にとってはお先真っ暗となり、余りのショックに茫然失意となる。

      チュニジア側には、せめて交代者をリクルートしてもらう他なかった。新規に着任するまで半年以上掛かることもあった。欠員補充 が長引くことはそれだけ大きな痛手となる。全く新たに最初からカウンターパートへノウハウの伝授を始める必要があった。 いわゆるカウンターパートの定着率は、プロジェクトの進捗と成果に最も重大な影響をもたらすことになる。プロジェクトを5年間も 実施すると、その途上でそのような受け手の断絶が起こらないとは言い切れない。日本側、そしてチュニジア側であっても、それらの 意志とはかかわりなく、カウンターパートの個人的都合で避けがたくして起こりうることであった。プロジェクトからのカウンターパートの離脱は 、プロジェクトにとって最大の不幸な出来事であり、完全には克服しがたい難事中の難事である。

      第二に、言葉の壁がある。専門家とカウンターパートとの仏語コミュニケーションの壁は当初からつきまとった。 基本的には、ノウハウの効率的な移転は、十分な仏語の語学能力とコミュニケーション能力があって初めて遂行される。 確かに建前としては、コミュニケーションは英語を介して行われるとか、専門家もカウンターパートも英語能力を十分に有し、 技術移転は可能と言う前提に立っていた。だがしかし、実際は専門家もカウンターパートも英語が堪能であるとはとは限らない。 カウンターパートの英語能力、専門家の仏語能力のレベルは、ノウハウの受け渡しには死活的に重要である。プロジェクトの成果 如何は、専門家の豊富なノウハウと経験が前提になるが、まずは専門家とカウンターパートの語学能力とコミュニケーション 能力に最も左右された。

      プロジェクトの2年目の早い段階から、この語学の壁を乗り越えるべく努力を払った。日仏語通訳・翻訳を専門にこなす長期専門 家を特別に追加投入して、その語学上の困難性を大幅に軽減する措置を執った。座学として漁業理論を教え、漁労テキスト類を共同 作成し、また実習を指導するにも、コミュニケーションが必須である。語学能力が不足すれば、技術指導もそれだけ効果や効率を 発揮することはやはり難しくなってしまう。そこを語学堪能の専門家を介して補った。指導には時間を倍以上要することになったが、 ノウハウの移転は着実に進捗することになった。

      プロジェクト開始当初から、両国間で取り交わした「討議録」という合意文書において、トロール網や巻き網などの操業実習のための訓練船 については、チュニジア側が準備するという取り決めになっていた。センターに150トンほどの「サラクタ号」という 訓練船が手当てされていた。だがしかし、同船は船尾トロール船であり、やはり巻き網(旋網)の漁撈実習には、装備と構造的にみて 不向きであった。そのため、巻き網実習は大幅にずれ込んでいた。何度もチュニジア側に訓練用に民間の巻き網船の手当てを申し入れていた。 だが、手当てできない空白期間がかなり長期間続いた。これが実習訓練が積み残しになった最大の要因であった。

      さて、プロジェクト4年目に評価調査団を派遣し、各分野ごとに指導期間をどう按配するか、両関係者で検討することになった。その 評価の結論として、実習訓練が当初から未実施となっていた巻き網分野については、実習船の手当てを条件に5年目以降半年間延長することになった。 また日本側の事情で、当初から長期専門家の派遣が遅れ遅れとなり、カウンターパートへの技術指導はもとより、水産普及員への 十分な技術移転を実施できなかった沿岸漁法分野については、ほぼ一年ほど延長せざるをえなかった。トロール漁法分野だけは、座学も実習も 当初計画通り進捗したことから、5年間で協力を終了することで双方合意した。

      全体的にみて、プロジェクトの進捗は、専門家の派遣の遅延も響いていたが、日本からの漁労実習用資機材の現地への接到がかなり 遅れていたために、実習部分が軒並み全般的にずれ込むというマイナスの影響をもたらしていた。巻き網は実習船がなかったので、 日本からの漁網資材供与が遅れても余り問題が表面化しなかった。しかし、専門家の派遣もスムーズでなかった沿岸漁業の資機材の 日本での調達、現地への輸送がプロジェクト当初から遅れがちとなり、その実習指導にかなり支障をきたすこともあった。結局、プロジェクト が始まって最初の資機材が送り届けられたのは、開始から1年半以上も後のことであった。何故、資機材の購送に1年半以上もかかるのか、 その複合的な近因と遠因とが徐々に見えてきた。

         資機材の遅延はいろいろな要因の積み重なりであった。専門家が現地に赴任後、住居を見つけ賃貸契約し日常生活を落ち着かせるのに 数ヶ月はかかる。その翌年に利活用することになる実習用資機材をカウンターパート と協力して検討し、その詳細な仕様書(技術的スペック)を作成することになる。トロール網や巻き網のような大がかりな資機材であると、 設計図面の作成などに何カ月かかかろう。年間4~6千万円にも上る資機材全ての仕様書の作成を終えるのに、数ヶ月はかかろう。その後、 A4フォームと言う、チュニジア政府からの正式の機材要請書案を作成し、政府内手続きを経て外交ルートでJICA担当者に届けられるまで また何ヶ月も要することになる。

      要請書を待っていてはとてもらちが明かないので、担当者の私は、別途航空便で送付されてきた仕様書の写しをもって、内容を精査し、 調達部機材課に購入と空送の手続き開始を依頼をすした。仕様書に不明な箇所があると、現地との確認作業に相当の期間を要する。 ファックスもインネットもない時代である。へたすると、照会のため何度も国際郵便を往復させた。それでなくとも、 商社入札においては、複数社間での競争が成り立つ様に、技術スペックが作成される必要があり、これに多くの労力、時間と知恵が 必要とされた。機材課は世界中の何百もの案件が第二~三四半期に集中し、目詰まりを起こしがちで、時間だけがどんどん消費される。

         入札後商社が決定されても、製造に何カ月もかかった。納入後、船便で送付するとまた数ヶ月かかる。コストは髙いが、やむなく 空送とするとかなり時間短縮される。チュニジア国内での通関、国内輸送などの期間を考慮すると、専門家が赴任して資機材が現地に 届けられるのは、順調であっても1年を下らない。2年目の期初からこれらの資機材をもって実習できるのは すべてのプロセスが順調に進捗した場合のみである。専門家による資機材の検討開始から現地に接到するまでの全ての工程において、 処理時間が少しずつずれて行くだけで、1年半は覚悟しなければならない。チュニジアのプロジェクトでは、後者のケースとなって しまっていた。私の前任者からこのチュニジア案件を引き継いだが、不幸にもインドネシアへ漁港案件で出張し、私の不慣れも手伝って、 工程が後ろにずれ込んで行った。

      当時、全てがアナログの時代であった。あるのは航空郵便だけで、国際電話は基本的に緊急時などの限られた場合のみ頼った。 素早く設計図や書類などを送信する手立ては郵送だけであった。書類を日本・チュニジア間を往復させるのに15日から20日を要する、 実にスローな時代であった。遅れの理由となる工程は山ほどあった。自身でコントロールできない工程も多かった。 専門家自身の仕様書作成の不慣れやスペック上の不備の多発、私自身の出張・不在や不慣れ、調達に関するJICA内部 規則と手続きにかかる絶対的時間、機材課での競争に堪えうるスペック完成にかかる時間、メーカーでの機材の製造期間、海送や 空送にかかる時間など、気の遠くなるようなプロセスと時間を経た。

      プロジェクト協力期間の5年間のうち最初の1年以上は、実習訓練の類は何もできない。 これらの教訓は後に大いに生かされることになった。後に詳しく触れたいが、赴任したアルゼンチンでの漁業学校プロジェクトに おいては、例えば、資機材は1年間は届かないことを織り込んだ協力計画を立案するなどして、最初の一年間をさまざまな準備をこなす 期間と明確に合意文書で位置づけた。チュニジアでの教訓が最も生かされた部分である。

      プロジェクトに立ちはだかる髙い壁は日本人チーム内にもあった。JICAによって、語学能力、専門的技術力、人生経験や人生観、個性 など全てが異なる5、6人の長期専門家が、極論すればバラバラにリクルートされ、一夜漬けのチーム編成がなされる。 5年間、チーム一丸となって技術指導に当たり、当初のミッションが円滑に達成されることが理想である。 だがしかし、それは理想である。リーダーやJICAの業務調整員の指導力や専門性、資質、人間性などあらゆることが問われ試される ことになる。

      チーム内での専門家同士の人間関係の良し悪しは、プロジェクトの成否に大なり小なり影響をもたらす。関係のこじれは、 プロジェクトに大きな負のインパクトをもたらすことになりかねない。プロジェクトからの公式報告書の他に、リーダーをはじめ 各専門家による意味不明な私的レターが担当者に寄せられ、いろいろ訴え掛けられたりするてくる。バラバラの個人レターは、時に ワンチームになっていない、不協和音が外部に発せられることの証左になってしまう。 専門家のベクトルを同一方向に導き、シンクロナイズさせられることが理想である。だが、実際にはいろいろ悩みを抱え人的摩擦が 充満する日本人集団となることもある。プロジェクト事情だけでなく、専門家のあらゆる要素、指導統率力・専門技術力・英仏語学力・ コミュニケーション能力、人格、資質、社会経験と生きる知恵、人間関係など、ほとんどは目に見えない要素が、複雑にして複合的 に絡み合って、強力なワンチームになれないことも垣間見えた。プロジェクト内部では、専門家同士でぎくしゃくしたり、 時には激しいバトルにいたることもあった。かくして、プロジェクトのさまざまな壁を乗り越え、多様な課題を内に飲み込みながら 終期を迎えたと、総括できる。そして、多くの教訓を学び、また忸怩たる思いを残したことも事実である。

      最も心に引っ掛かったのはプロジェクトの評価のことである。三分野において、カウンターパートへの技術指導書、 水産普及員への座学用テキスト類、実習マニュアルなどの作成、達成度は異なるが訓練船による実習の実施、カウンターパートへの 日本での技術研修の実施、教育・実習用資機材の供与と利活用などは、プロジェクトを延長しながらもやり終えることができた。 だがしかし、それらはプロジェクトとして当然の実施項目を遂行したに過ぎないとも言えよう。

      プロジェクトの真の評価はそれではないとも言える。いろいろ考えさせられた。真の成果や効果の発現は何だったのか。 実はそれは全く見えなかった。終了時全く評価できなかった。では、評価のための手法と基準について、どう制度設計しておくべき であったか。時にそれを振り返ることがある。実施した指導項目やテキストなどの作成項目の羅列ではなく、その指導や作成によって 生み出された成果として、カウンターパートや水産普及員の漁労技術はどれほど向上したのか、さらにエンド・ユーザーである漁民への 技術普及と漁業生産性はどれほど向上したか、それが真の成果であろう。

      日本・チュニジアが協業して漁業センターで播いた種が10年後にどんな成果をどれほど芽を出し成長しているのか、それを 知りたいと思う時がある。その評価には10年後、水産局官吏や主要な漁業基地の水産普及員や漁民にアンケートをする他ないであろう。 貴方はセンターでトロール網、巻き網、沿岸漁具などの講義や実習を受講したか。それらの漁具漁法について、過去10年漁民や関係者 から尋ねられ説明をしたことや、積極的に説明したことがあるか。それらについて講習会で説明したことがあるか。10年間に全部で 100名以下、100-500名、500名以上? 過去10年でそれらのノウハウ向上で漁業生産能力や漁獲量がアップしたと思うか。アップしたのは センターでの漁業教育によるものか、別の要因によるものと思うか。

      真の評価をするには、プロジェクト終了時点では10年早いということになるのかもしれない。成果発現には長い期間が必要である故で ある。だがしかし、水産技術の普及や漁業生産性アップの質的および量的評価を将来なしうるよう、プロジェクト内外で制度設計を 工夫しておくべきであろう。今日までこの解を見い出せないままに来た。あれから30年以上も経ている。チュニジアの漁業はどう 発展してきたであろうか。5年間で概算5億円ほどの予算がプロジェクトにつぎ込まれた。チュニジアの漁業発展に少しでも関心を払い、 その現況を知ることは、担当者の義務であろうと理解する。種は播いたが、それによって何がどれほどまで育ったのか、 その評価手法と基準についてどう制度設計しておけば、プロジェクト評価を10年後に正しくなしえたのか、見える成果が発現しえたと いいうるのか。実は、水産教育の成果を「見える化」することは悩ましい結果を得ることになるかもしれない。 実は「それ以上訊いてくれるな」と言いたくなるような話になりかねないからである。技術協力でもっとも悩む、プロジェクト共通の テーマがここにある。10年後再び4、5百万のコストがかかることは別にしても、真の評価の実現にも悩みがつきまとう。

      最後に一言。このチュニジア・プロジェクトほど運営上の多くの反省点や教訓を生み残してくれた案件はなかった。 プロジェクトに立ちはだかる真の壁は何であるかを理解し、どう克服すべきかの策にあれこれ悩み、その解を求めようともがいた。 後々のことになるが、プロジェクトにおけるさまざまな教訓の学びは、自身の大切な財産になった。後々それに大いに感謝することにな ろうとは、当時想像もしていなかった。水産室で4年間もお世話になった後の異動先は、アルゼンチン海軍傘下の国立漁業学校プロ ジェクトであった。そこでチュニジアの教訓は最も生かされた。チュニジアでの体験から得た教訓なくしては、アルゼンチンでの プロジェクトを完遂することは到底できなかった。結局、プロジェクトの運営に最も重要なのはプロジェクトに相応しい人を得る ことであると悟った。人を得てワンチームとなって、良き人間関係の下で一致団結して使命に立ち向かえるかが、プロジェクトの 成否を左右すると胆に命じた。プロジェクト担当者はプロジェクトがどんな状況に置かれようと、その運営を放り出す訳には行かない。 使命を完遂すべく、最善を尽くして最後まで向き合う必要がある。プロジェクトの現場で奮闘するJICAの業務調整員もまたしかりである。

      ところで余談が長くなりそうだが、1980年代初め、インターネットもファックスもない時代であった当時、東京・チュニジア間の通信運搬手段は国際航空 郵便だけであった。国際宅急便のフェデックスも当時利用できたという記憶がない。緊急の場合は、国際電話か国際電報による 通信だけが頼りであった。当然、電話も電報も物品は送れなかった。現在の2020年とは全く比較にならない通信事情があった。郵便では 往復に2週間以上もかかり、今からすれば実にのんびりとしたアナログ時代であった。それ故に、当時ならではの予算がプロジェクト に組み込まれていた。毎年一回、日本側関係者がプロジェクトサイトを訪問する予算が支弁された。専門家、カウンターパートの他、 両国のプロジェクト関係者が膝を突き合わせ、プロジェクトの現況や課題、評価、今後の実施計画、課題への対応策などを協議したりして、 プロジェクト情報を共有しながら全関係者のベクトルを合わせて前に進むためであった。当時としては、関係者が一堂に会して 情報共有と意思疎通を図ることは、プロジェクトの円滑な運営にとって大変意義深いことであった。インターネット会議が普及する 現代では、こんな「贅沢な」現地訪問は許されないかもしれない。

      私が担当者として初めてチュニジアへ調査団を派遣したのは1981年3月のことで、その「打ち合わせ調査団」を組織するに当たり、 水産庁国際協力室から団長の推薦を受けたのが、水産庁所轄の「水産工学研究所」の研究室長であった森敬四郎氏であった。 森氏は温厚そのもので、知性に溢れ、懐の深い包容力のある 紳士であった。英国育ちの本物の紳士のような立ち振る舞いで、まさに「ジェントルマン」というニックネームを献上したいくらいであった。 森氏との出会いと、チュニジアでの共通体験がなければ、その後の私の人生はまるで変わったものになっていたに違いない。 森氏を団長にしてチュニジアへの初出張をこなした後、さらに2回も同じプロジェクトのために、団長として毎年御足労をいただいた。 そして、森さんと私は、公私共々色んな場面で波長が重なり合い、いつしか歯車がしっかりと噛み合うようになり、互いの距離を縮めながら 気心を知り合う間柄になって行った。

      森さんとは、後に、アルゼンチンでの国立漁業学校プロジェクトにリーダーとして赴任していただいた。アルゼンチンから帰国後も、 いろいろ行き来することになり、私の人生はさらに豊かなものとなった。初めてのチュニジア出張当時には想像もつかなかったが、 森さんとはその後生涯にわたりお付き合いをいただき、有意義な人生を過ごすことができた。チュニジア初出張での出会いが その起点となったことを、ずっと後で認識することになった。強いて言えば、私的には、森さんは「父親」とも思える存在であった。

      余談が続くが、当時チュニジアに渡航する場合、ヨーロッパのいずれかの都市で一泊することが許された。というのは、 チュニジアはアフリカ大陸に位置するが、同じヨーロッパ圏内にあると見なされ、ヨーロッパのどこを経由地しても、またそこで一泊しても しなくても、正規料金を払う乗客には、航空賃は同額らしかった。ヨーロッパの都市を垣間見る絶好の機会であった。 たとえ数時間の滞在のため駆け足巡りとなっても、一泊してじっくり街を覗き込むにしても、往路・復路それぞれに経由してみたい 都市を一つ、あるいは時に二つを思い巡らし、心の準備を整えるのが楽しみであった。

      ヨーロッパの経由地での宿泊先にチェックイン後すぐさま飛び出して団員らと共に、その街を散策することは最高に 楽しみなことであった。異国の街中に身を置き、行き交う人々や通りすがりの自然風景を目の辺りにし、何かを感じ、脳へ刺激を 与えることにつながる。社会・歴史・文化的な好奇心を全開にして、皆でお上りさんになってそぞろ歩きするのは楽しい。 ましてや、初めて訪れる地であれば、なおさら見るもの聞くものが新鮮で、自ずとテンションが上がる。他団員の希望に配慮しながら、 日本・チュニジア3回の往復で、ヨーロッパの経由地として6都市以上に足を踏み入れ、昼夜の街中に身を置き、社会・文化的 な理解と経験値を高めた。とはいえ、何十年もの過去のことであり、その後に別用で出掛けた出張や個人旅行の記憶がないまぜになり、 何時のことであったかはっきりしないことが多くなってしまった。

      チュニジアへの初めての往路ではロンドンを経由地に選んだ。最も感涙したのはテムズ川であった。世界にかつて君臨した大英帝国、その首都 ロンドンの市街を流れるテムズ川の水は世界に通ずるといわせしめた、そのテムズ川である。団員皆で完全にお上りさんになって、 寸暇を惜しんで、陽が落ちるまで、一目だけでも見ようと駆けずり回った。バッキンガム宮殿、ビッグベンを擁する国会議事堂、 ロンドン・ブリッジなど、時にロンドン名物のタクシーにも乗車してみた。当時、英国中央銀行の地下 に眠るという、「トラファルガーの海戦」で英国を大勝利に導いたネルソン提督の柩にも出会ったと、曖昧ながら記憶する。グリニッジ の「カティ・サーク号」や「国立海洋博物館」へ足を伸ばす余裕などはなかった。

      ある時はパリを経由した。ドゴール空港からバスで市街地のホテルへ移動した。バスがパリ市街中心地に入り、先ずは車窓からその街風景 を眺めることとなった。その街路風景の華やかさ煌びやかさに、息するのも忘れたように見惚れた。日本の都会風景とはまるで異なる別世界に 舞い下りたようで、「華のパリ」風景に鮮烈な感動を覚えた。今でもその風景に衝撃を受けたことをはっきりと覚えている。

      パリでも、団員揃ってすっかりお上りさんになってしまった。凱旋門からシャンゼリゼ通りをそぞろ歩きをして、コンコルド広場辺りまで下った。 陽が落ちて足元が暗い中、落ち葉で足を取られ滑り転げないように気を付けながら歩いた。モンマルトルの丘にも上り、 画家たちが向き合うキャンバスにそっと遠慮がちに覗き込んだりもした。お上りさんになるのも決して悪くはなかった。はやり、 パリではこれを見たい、あそこに行きたいと、初めてのパリであれば、ガイドブックに載るような代表的風景を見たいというのも 止む得まい。とにもかくにも、パリの洗練された街並みの美しさ華やかさに魅了され、日本の都市風景との余りの落差に衝撃を受けた。 私的には、パリの市街風景に、日本の都市には全く感じられない「美」を観た。

      時に、オランダのアムステルダムを経由した。空港から路線電車で市街地にある中央駅に降り立ち、最初に出会った風景の異趣 に仰天した。私的には、まるでお伽の国に足を踏み入れたような錯覚に襲われた。アムステルダムはまさに運河の都市である。 縦横かつ扇型状に伸びる運河のクルージングを楽しんだ後、運河沿いにそぞろ歩きをした。そして、「飾り窓の女」の館が運河沿い の小道にずらりと軒を連ねる風景に巡り巡って出くわした。女子高校生らしい一団が、その館通りを先生の引率の下、悪びれる風 もなく飾り窓の中の女性を眺めながらわいわいとくったくもなく「社会科見学」をしていた。通りすがりにそんな場面をたまたま目にした 私は、余りの社会文化的ギャップに言葉を失ってしまった。 歩き疲れて運河に架かる橋の袂にあったバールに立ち寄り、ビールジョッキを傾けながら一休みし、東京からのフライトの疲れを暫し癒し、 英気を養った。翌日にチュニスへと向かった。中央駅からそう遠くないところに「国立海洋博物館」があったことをずっと後で知った。 その訪問を成し遂げたのは25年ほど後になってからである。

      ある時はフランクフルト経由もあった。初めてのドイツであった。ドイツは他の欧州諸国とは異趣の風情を漂わせていた。路線電車で 市街中心部に出て、ゲーテ博物館などを訪ねるのが時間的にみて精一杯であった。時にはローマ経由を選び、お上りさんになって、 半日市内観光ツアーバスに便乗し、車窓からコロッセオなどの古代ローマ遺跡などを垣間見た。通りすがりに一瞬でも本物を目にして、瞼の シャッターを開閉して、その奥のスクリーンに焼き付けることが、私的には大事であった。通りすがりの瞬間的焼き付けであろうとも、 その場に居合わせ見て感じることが幸福度アップに繋がると信じていた。何時しか舞い戻ってじっくり散策する機会もありなんと期待する。

      3度目のチュニジア出張の折、ようやくあることに気付いた。経由地でお上りさんになることは善しとして、経由地で何か海や船と 関わりのあるものを訪ねることを思い付いた。何か海・船にまつわる歴史・文化的施設や史跡を見たい、見てやろうという意欲が 芽生えた。チュニジア渡航も最後となれば、経由地とその訪ねたい施設につき、しっかりとターゲットを絞った。デンマークの コペンハーゲンを帰途の経由地に選んだ。そして、目的意識をもってまっしぐらに出向いたのは、その郊外の町ロスキレにある「バイ キング博物館」であった。

      他団員に納得してもらって、市内のホテルから割り勘でタクシーに乗り込みロスキレに向かった。インドネシアに次いで二番目の 海洋博物館の見学となった。埋没していた海底から発掘されたバイキング船の外板を鉄製骨組に丁寧に張り合わせ、 3艘ほど復元されていた。初めてみるバイキング船の実物に皆が魅了された。タクシーで団員を引き回し、一人100ドルも費やし 高くついたが、それだけの価値は十分あったと納得してもらい、内心ほっとした。これを経験値にして、時間の合間 を縫い寸暇を惜しんで何か見学をするのであれば、海や船と関わりをもつ歴史・文化施設などに立ち寄ってみることにした。 見学するのにも時間とエネルギーが必要である。当時はまだまだエネルギッシュであり、時間の合間をくぐり抜けて、動き回るには 十分若い歳頃であった。好奇心が旺盛な団員との組み合わせにも恵まれたことが幸いし、皆して楽しみながら見聞を広めることができた。

      異文化に溢れる街の風景を、通りすがりに見るにせよ、寸暇を惜しんで目的地の何かを真剣に見て回るにせよ、それは海外出張 での楽しみの一つであった。初めての街なら、その街に体と目を慣らすために、そぞろ歩きしながら、時にはベンチに腰掛け、往く 人々を眺め、鳥のさえずりを聴いたするのも、楽しみと潤いをもたらしてくれる。私的には、寸暇を惜しんで貪欲に街をあちこち散策し、 何か絵になる被写体を探し回るのが自己流の楽しみ方であった。ヨーロッパのあちこちの経由地での探索は、総じて人生を彩り濃いもの、 豊かなものにしてくれた。

      さて、チュニジアではプロジェクトサイトだけでなく、水産事情を知るためにいくつかの地方都市の漁業基地をも訪問した。 その道中で思いがけず、古代ローマ時代の遺跡風景に出くわしたりもした。プロジェクトのあったマディアから南下すると チュニジア第二の都市で大漁港を擁するスファックスがある。その時に少し寄り道をして、スファックスから少し内陸部に入った 片田舎の村のマトマタに立ち寄った。マトマタはサハラ砂漠へ通じるほんの入り口にあって、ナツメ椰子などの樹木が生い茂る緑豊かな オアシスである。砂漠ばかりの世界から突如として、人間が暮らす森の世界が現われた。これが書物に言うオアシスかと、自身の目を 通してオアシスの具体的イメージを育むことができた。マトマタには北アフリカ地域に多い先住民のベルベル人が住む。 地下に直径・深さが10~20メートルほどの竪穴を掘り、その穴の側面に横穴を掘り住居にしている。

      チュニジア国内は古代ローマ時代の遺跡遺物の宝庫である。エルジェムという内陸部の地方都市には、古代ローマ時代の大きな コロッセオが遺されている。現在ローマ市内に遺される古代コロッセオと比肩できるもので、世界三大コロッセオの一つとされる。 チュニス近郊では、古代ローマ時代にチュニスへ水道水を引き込むためにレンガで築造された壮大な「水道橋」が何キロにもわたり 天空を貫く姿があった。プロジェクトサイトのマディアからチュニスへ戻る通りすがりに、その歴史的建造物に暫し足を止めた。 それだけのことであるが、チュニジアの歴史文化への好奇心を今後に繫ぐきっかけを紡ぐことができた。   都市にはたいていメディナと呼ばれる城壁に囲まれた旧市街があり、その一角にカスバがある。首都チュニスのメディナに入ると 近代的都市風景から一変してイスラムの文化の香りが充満している。異国情緒な路地裏的風景で圧倒される。狭い路地が迷路のように入り 組んでおり、出口がどちらの方向にあるのか、角を曲がるたびに方向感覚は無くなる。初めて訪れ一人迷い込んでいれば、不安に襲われ ながら彷徨い続けたことであろう。

      地方の田舎道をたどると、たいていある田園風景に出くわす。見渡す限り、濃緑色のカーペットの様なオリーブ畑が広がり、 ロバが引く荷車とそれを操る老農夫や幼い少年らと行き交ったりする。牧歌的風景に何か癒されるものを感じる。時間も止まっている かのようにも感じられる。もう一つのチュニジア風景に出会った。チュニスの北の郊外に有名なカルタゴの遺蹟がある。その近く で、これぞチュニジアを代表する彩りを見た。住宅の外壁はすべて真っ白に塗られている。そんな白亜の住宅に、太陽の明るい光が さんさんと降り注ぐ。どの家の窓の外枠にも扉にも、決まって鮮やかなブルーカラーが塗られている。遠くには二つのブルーが融合する。 地中海のブルーオーシャンとその天空のブルースカイである。窓枠と扉のブルーは地元ではチュニジアン・ブルーと呼ばれる。

      チュニジアに三度足を踏み入れ、時に寄り道をして、また時に大回りをして、いろいろな自然と社会的風景に触れた。 そのような体験は無駄のように見えるかもしれないが、実はそうでない。むしろ、プロジェクトへの愛着や熱意を高める「ビタミン補強剤」 となった。プロジェクトに取り組むためのエネルギーとなった。知的好奇心を全開にしながら、チュニジアの歴史、社会、文化などに理解 を深めれば、プロジェクトもまた愛おしくなり、真剣に向き合うエネルギーをくれた。

      さて、寄り道で見た風景の中で、最も興味をそそられた歴史文化的風景は、カルタゴ遺蹟の寸景であった。カルタゴは、現在のレバノン 辺りで繁栄した古代の海洋民族であるフェニキア人によって創建された植民都市であった。それには特別に興味をもっていた。 現地に残される遺跡のほとんどは、古代ローマ時代の遺跡や廃墟である。しかし、それだけでも自身の目で垣間見ることは意義深かった。 最初のチュニジア訪問時に、たまたま週末に立ち寄ることができた。カルタゴは、チュニス郊外の地中海に面する、大統領官邸近くの丘にあった。 カルタゴ時代に築造されたという港や造船所の址があるらしいが、後で書物で知った。それっきり見る機会はなく、ずっと悔いが残っている。 垣間見たのは古代ローマ時代の大浴場の址とその背景に広がる地中海だけであった。

      フェニキア人は紀元前2000年頃、現在のレバノン辺りの地中海沿いの狭い土地に限定されながら居住していた。熟練した船乗りであった 民は、地中海西方に目を向け、船を操り交易活動を活発に行っていた。そして、北アフリカ沿岸、スペイン南部沿岸、その他シチリア島 などの島嶼に植民地を建設して行った。そして、紀元前814年にカルタゴの地に植民地を創建した。古代ローマの建設よりも60年ほど 早いとされる。

      紀元前3世紀中頃から前2世紀前半まで3回にわたり、古代カルタゴは西地中海の覇権を巡ってローマと戦争を繰り広げた。いわゆる 「ポエニ戦争」である。ポエニとは、ローマ人がカルタゴ人のことをそう呼んだ。カルタゴは、現チュニジアにあったフェニキア人の 植民市が発展した商業国家であり、最盛期には50万人以上の人口を擁する大都市であったと言われる。

      さて、第一回ポエニ戦争(前264-前241年)では、ローマが勝利し、その結果ローマはシチリア島を最終的に初めてその属州とした。 第二回ポエニ戦争(前218年~前201年)で、イベリア半島の南岸のカルタヘナに進出していたカルタゴ側のハンニバル将軍が、 スペインから象部隊も引き連れ、果敢にピレネー山脈を越え、さらにはアルプス山脈を越えてローマに迫った。前216年に はカンネーの戦いで勝利した。だがしかし、ローマを直接攻撃するには至らなかった。後に反撃に転じたローマのスキピオ将軍が、 北アフリカに上陸し、前202年にカルタゴ近郊のザマの戦いにおいて、カルタゴ軍を撃破し敗北させた。

      第三回ポエニ戦争(前149年~前146年)では、ローマはカルタゴを完全に滅亡させた。カルタゴおよびその全領土を徹底的に破壊、 壊滅させ、属州アフリカとして支配した。この戦いで、カルタゴは滅亡し、総人口50万人のうち生き残った55,000人のカルタゴ人は 奴隷として売られたという。

      カルタゴの都城は跡形もなくなった。古代都市カルタゴの廃墟はあるようで無く、荒れ果てて土として地中に埋もれ、時に置き 去りにされすっかり死んでいる。現在チュニス郊外に跡を留めるが、浴場跡も含めそのほとんどは古代ローマ時代の遺跡である。 ローマはこの戦争に勝利し、西地中海の覇権とともに、多くの属州を獲得し、大帝国への道を歩み始めた。カルタゴがローマに 勝利していれば「カルタゴ大帝国」となっていたかもしれない。なお、紀元後698年には、ローマの植民市カルタゴは、アラブによって 破壊され、イスラムの世界へと移り変わって行った。チュニス市内の「国立バルドー博物館」には、古代ローマ時代の色彩タイルで描かれた モザイク画のコレクションが展示される。このチュニジア出張を機会に、古代フェニキア、古代ローマ、さらには中世のベネチア、 ジェノバなどの地中海海洋都市国家、ビザンツ帝国、オスマン帝国などによる地中海を巡る対立や交易などに少しずつ関心が向く ようになった。出張はいつも知的興奮を掻き立て、学びへの意欲を高めるきっかけをくれた。


    略史
    ・ チュニジア 国立漁業訓練センタープロジェクト 評価調査団
      技協、JICA、業務調整、現地調査:1981.3.5-3.20.
      プロジェクトの延長期間につきフリーハンド(0~1.5年間)をもって評価・交渉、結果1.5年間延長

    ・ チュニジア 国立漁業訓練センタープロジェクト 計画打ち合わせチーム
      技協、JICA、業務調整、現地調査: 1981.9.29-10.15.
    行き: アンカレッジ→ フランクフルト、ゲーテ博物館など/帰途: アムステルダム経由、運河クルーズ、飾り窓の小道、バール。

    ・ チュニジア 国立漁業訓練センタープロジェクト 評価調査団   技協、JICA、業務調整、現地調査: 1982.11.27-12.10.
      帰途: コペン経由ロスキレ、「バイキング博物館」




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    第7章 世界中の水産プロジェクトに真剣に取り組む
            第4節 ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する