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    第7章 世界の水産プロジェクトと向き合う

    第4節 ア首連にて水産増養殖センターの建設を施工監理する  

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      北アフリカの回教国チュニジアでの漁業教育プロジェクトに向き合っていたら、さらにまた、今度は中東アラブの回教国である アラブ首長国連邦(ア首連、UAE)での水産増養殖センター建設プロジェクトなるものと向き合うことになった。水産室に異動して ほぼ半年後のことであった。

      ア首連のプロジェクト運営において決定的な失策をした。事の発端はたった一文字のエラーであった。一つの英単語がとん でもない別物に置き換わっていたことを見逃してしまうという誤ちを犯した。そのために、とんでもない結果を招いてしまった。 しかも、その始末に3年以上も要した。だが、見方を変えれば、その間違いのために、当時の世界的な石油危機の 時代にあって、日本が、産油国の一つであるア首連に協力し、いわば「恩」を売ることになったとも、思えなくもない。 そうだとすれば、それは、当時にあっては、ある意味で「快挙」であったといえるかも知れない。いずれにせよ、水産室で私を 鍛えてくれたもう一つのプロジェクトは、このア首連の案件であった。

      アラブ首長国連邦は、自国を構成する首長国の一つであるウム・アル・カイワインに「水産増養殖センター」の建設を計画し、 その概略設計から施設建設の完工まで支援してほしいと、日本に要請してきた。日本の政府開発援助(ODA)である技術協力を実施する 機関のJICAは、「開発調査」というスキームの下で協力することになった。それも、建設事業の実現可能性を調査するという レベルではなく、いきなり基本設計レベルでの調査を実施することになった。

      他方、ア首連はもう一つの協力を要請していた。隣国のサウジアラビアと同じく、ア首連にとっては水が生命線であった。 地下ダム建設が可能なサイトを特定し、ダムを建設するのに手を貸してほしいというのである。日本には髙い技術力があるとはいえ、 砂漠の中の涸れ沢(ワジ)に地下ダムを建設する具体的な適地を見い出す調査はリスクであった。日本にそんな調査実績をもつ 企業があるとは思えなかった。調査経験のない日本企業がそれを特定するということも難題であったが、その建設を施行監理する ことも重大な責務を背負うことになろう。何故ならは、日本の技術協力の一環で調査し、場所を特定し、設計し、施行監理まで行なって、 結局のところワジの地下に水が溜まらなければ、その責任を問われ、何度も調査のやり直しが求められるという懸念がないとは 言い切れない。さすが、日本はこれについては要請に応じられないとした。

      JICAが実施する技術協力の対象国としては、OECDの援助基準によって規制されていた。ア首連は一大産油国であり、国民の一人 当たりの国内総生産が高く裕福な国なので、OECD基準からすれば、日本などの先進国が行うODAの対象国になるかならないか、 ぎりぎりのところであった。

      従って、JICAが技術協力の一環として開発調査そのものを実施しても、その後の増養殖センターの詳細設計、さらに国際入札図書 一式の作成と入札そのものの実施、建設工事に対する施行監理などにまつわる全ての費用は、ア首連自身の財政負担をもって 実施されるのがしきたりであった。具体的には、ア首連は、先ず自身の代理人となる建設コンサルタントを雇い入れ、それとコン サルティング契約を結び、詳細設計を含めた建設工事の施行監理をしてもらう。更に、施工業者を選定し、それと工事請負契約を 結んで、建設をやり終えることになる。そして、コンサルタントを傭上する経費や建設工事費そのものも、全てア首連が財政負担 することになる。JICAの技術協力はそういう仕切りになっていた。

      私は担当者として、当該開発調査団の派遣手続きを進め、自らもその一員となり、5~6人の団員と共にア首連の首都 アブダビへと足を踏み入れた。1980年3月中旬のことであった。日本大使館で調査方針などを説明した後、砂漠の中を貫通する道を走り抜けドバイを目指した。 先ず、ドバイで、農漁業省のお雇い外国人顧問らと協議をもち、開発調査制度の概要、調査に伴う両政府の権利と義務、開発調査報告書 の作成工程、さらにある最も重要な諸事項を説明した。

      即ち、日本政府の協力は、基本設計レベルの開発調査報告書を提出するところまでである。日本側は、その後の建設工程について は関知できない。ア首連に雇われその代理人となるコンサルタントによる詳細設計、国際入札図書一式の作成、国際入札の告示と その実施、工事請負業者との契約締結、工事着工とその後の施工監理などについては技術協力するものではないことを、 ア首連側に繰り返し説明し、理解を求めた。ア首連は、OECD基準によれば、その協力の受益対象国ではない旨の説明も行なった。 調査の内容や作業工程、開発調査に伴いア首連側が負うことになる義務、その他業務範囲などを定めるスコープ・オブ・ワークス という合意文書案を説明し、後日両者間で同文書に署名した。1980年7月のことである。

      余談であるが、農漁業省で協議した後、事情で街中へ一人買い物にでた。3月下旬であったが、太陽がギラギラと照り付けていた。 そんなに危険とは知らずに灼熱の炎天下10分ほど歩くと、汗が滝の如く噴きだした。それでも用足しをしようとなおも歩いた。 しかし、汗はさらに滝となった。体中の水分がほとんど抜け出るような恐ろしさに襲われた。ついに、生命の危険に気付いて、近くの 銀行に思わず緊急避難した。そこで、骨まで熱せられた体を10分以上冷気に晒して、ようやく正気に戻った。もう少しのところで、 熱中症のためにぶっ倒れ、街中で「遭難」するところであった。その後は、用も足さずホテルへ逃げ帰った。

      ドバイから、プロジェクトサイトのあるウム・アル・カイワインに向けて海岸沿いに車で移動した。その道中で、 珍しい光景に出会った。「シンドバッドの冒険」に出てくるような、あのアラブ独特の木造船ダウ船が海岸近くの土漠上に ぽつんと一隻だけ鎮座していた。車を止めてもらい、車窓から数枚の写真を切り撮ることができた。 生まれて初めて見たダウは、陸上に揚げられていた。写真を後でよく見ると、木造ではなくFRP製の船体 であった。だとしても、「海のラクダ」と称されるダウの本物を見ることができた。「海のラクダ」とはよく言ったものである。 ダウの造船所と言っても、日陰を確保するための掘立小屋がぽつんとあるだけであった。通りすがりのペルシャ湾岸での寸景であった。

      その後、ウム・アル・カイワインに足を踏み入れ、真っ先にその建設サイトに出向いた。掘り込み式のような船の泊地の周りは、 埋立地のようであった。そして、増養殖センターの建設予定地は、その埋立地の一角に敷地が確保されていた。暫くサイトを視察した後、 シャルジャというもう一つの首長国の市街地に戻った。私はドバイへ出立したが、シャルジャに残った他団員は、設計に必要となる 建築や土木関係の法令収集などのために調査を続行した。

      ドバイには奥行きの深そうなクリークといわれる入り江が、砂漠に向けて内陸部に入り込むという地形をしていたことは、 何年も経たのちに自身の眼で見ることができた。そのクリークの入り口近くに設けられた魚市場にも見学した。 ローカルな市場であった。白いタイル造りで、人の腰くらいまである背丈の髙い魚貝類陳列台が何十基か据え付けられていた。 そこにペルシャ湾内で獲れた色とりどりの魚類が、砕氷をまぶして並べられていた。売り買いされる魚種の取引情景や鮮度保持状況 などを知ることができた。魚市場はその調査目的に適っていたので、急ぎ足であったが何とか足を運ぶことができた。だが、その他 の街中を見物し見聞を広めるという余裕はなかった。

         クリークの傍に何やら古い要塞があり、その中はドバイ博物館となっている。その館内に、古いドバイの航空写真が展示されている。 それを見て、クリークがどんな地形をしてどこへ伸びているのかを知り、ドバイはそのクリーク沿いに自然発生的に生まれた 漁村がその発展の起点になっていること、またクリークという地の利を生かして中継貿易の拠点港としても発展してきたことなどを 想像する。また、漁撈ダウ船と潜水者たちによる天然真珠採取のジオラマが館内に展示される。それらを見学して、ドバイの歴史や文化 を学ぶことになったのは、今回の初めての訪問から数えて25年ほど後の事であった。また、クリーク沿いの岸壁には数多のダウ船が縦横列に なって停泊し、積み降ろしに勤しむ風景に接することも、その後の事であった。今回の開発調査時にはドバイの町をほとんど素通りし、 日本大使館への報告のためアブダビへと一人向かった。

      休題閑話。帰国後数週間ほど経った頃のこと、ア首連の農漁業省から在アブダビ日本大使館経由で外務省に、ある連絡が入った。 それによると、先のJICA調査団からは、センターの建設に当たり詳細設計、国際入札実施、施工監理などに関する日本の協力について は供されない、との説明を受けた。それを理解し納得をしてきたところである。だがしかし、 調査団と取り交わした合意文書を精査したところ、日本側は施行監理などにつき協力すると読み取れる記載がある、というのである。

      慌てて合意文書を確認した。ア首連が言うように、そのような解釈に結びつく一つの文言を見つけた。原因は分からないが、 「supervise」という英単語が印字されていた。日本は「supervise」を行わないという意味で、その英単語が使われているのであれば 問題は生じないが、何度読んでもそういう使われ方ではなかった。そもそも「supervise」という単語が記されるような合意文書では ないはずだが、何故か、「supervise」が記載され、しかも意図しない解釈が成り立つような文面になっていた。

      調査団の派遣に当たり、関係省庁である外務省、農水省とで読み合わせを行なった時に最初に提出したドラフトを調べた。何とその 案の起草段階から「supervise」という文言が記されていたのだ。びっくり仰天、ひっくり返ってしまった。文脈からして、本来論理的 に正しい英単語は「suppose」とすべきものであった。だが、ドラフトでも合意文書上でも、何故か全て「supervise」と記されていた。 全く信じられなかった。

      何故、「suppose」とすべきところが「supervise」となっていることを見落としてしまったのか。事前に、ドラフトを外務省・ 農水省・JICAの三者で、それも日を改めて二度までも、一言一句読み合わせを行なったにもかかわらずである。この間違いで、 担当者としての私は、お咎めを受けた訳ではない。二度も一言一句読み合わせをしていたからである。私的にはそれが唯一の救いであった。 だとしても、言い訳できない話であった。今となっては、合意文書の解釈上の問題となった。

      JICA法務室にも相談しながら、JICAの顧問弁護士事務所に出向き、事情を説明書して法解釈につき相談をした。果たして、日本側は 施行監理などへの協力を約束したという解釈が成り立つか否かであった。結論としては、「日本は施行監理に協力を約す」と解釈 されるというものであった。私的にも、同意見と言わざるをえなかった。

      かくして、日本としては施行監理に協力するのか、しないのか、それが問題であった。当時の時代背景として、日本なども深刻な 石油エネルギー危機にさらされていた。原油の安定的供給源の確保は、国益の観点から至上命題であった。当時、産油諸国の外交的 立場は圧倒的に強かった。ましてや、ア首連は、日本へ安定的に原油供給をしてくれていた筆頭の輸出協力国であったし、親日的 友好国でもあった。当時JICAが抱えていたある一つの国内事情を除けば、日本側としては、これを機会に出来うればア首連に全面的に技術協力 を行ない、石油の安定供給を続けてもらう一つの外交カードにすることを考えても、何らおかしくはない状況であった。

      その事情とは、JICA自身の設立を規定する組織法令によって、実施できる技術協力の業務範囲が定められていることと 関係した。「開発調査」というスキームの枠内で基本設計レベルの調査を行なうことについては説明をつけることができても、 JICA自らが、途上国への技術協力として、施設の施行監理を行なう法的権限が認められているかどうかということである。 ここでいう施行監理とは、ア首連が望む養殖施設の詳細設計を行い、国際入札図書一式を作成し、入札を補佐し、工事を請け負う 建設業者を選定し、なおかつア首連政府に代わって建設工事に対する施行監理を行なうという一連の工程の内容をいう。

      かくして、関係者で喧々諤々の議論が展開され、外務省はこの事案を引き取って、ア首連との間で新しい合意文書を取り交わすことと なった。その趣旨は、日本側としては施行監理を行なうつもりはない旨、改めて先方に伝達するものであった。それで一件落着するかと 思いきや、JICAの顧問弁護士事務所によれば、その文書であっても日本が施行監理につき協力をするという意は変わらないというであった。

      さて、JICAの企画部が間に入って調整に乗り出すことになった。何度か外務省技術協力課と交渉の結果、落としどころとして 外務省からの念書一通をもって、外務省が本件協力に関わる全ての責任を負うという、外務省の決断をもって、JICAも腹を括って 施行監理する運びとなった。

      当時の石油危機と言う時代背景では、日本が国内法令上の縛りや制度的制約を盾に協力しないという判断を下す選択肢は全く なかったであろう。完工するまで何年要するか分からないが、外務省が、予算的措置を含め全責任を取るという、その強い決意の下に、 前例なき施行監理という技術協力に踏み出した。

      だがしかし、JICAには施行監理できる技術者など一人もいなかったし、施行監理中に監理者側のミスなどで何か事故や工事遅延が 発生したとしても責任も負えるものではなかった。そこで、施行監理業務を請け負ってくれるコンサルタントを見つけ契約する 必要があった。いわば監理業務を民間コンサルに委託する訳だが、ア首連にとっては、当該業務を行なう主体はJICAそのものであった。 だとしても、何か手違いが発生した場合には、JICAではなく、コンサルタントに責任を請け負ってもらうように、契約書上縛りを 掛けておかねばならなかった。だがしかし、そんな都合の良いことができるのであろうか。監理を行なうのはJICAであり、コンサルタント はJICAの分身そのもの、一心同体であった。そして、JICAはア首連政府の代理人の立場で施行監理を行なうということでもあった。

      UAEの代理人あるいはコンサルタントの立場になってセンター建設を施行監理しろと、担当者の私に言われても、その経験も ノウハウも全くないのに、何をどうすればいいのか、うろたえるばかりであった。先ずは、JICAの内部手続きを経て、JICAのために 監理業務を請け負ってくれる民間コンサルタントを選定し、瑕疵担保条項を含めて契約を取り交わすことが必要である。 契約後は、センターの詳細設計と平行しながら、ア首連の代理人兼施行監理者という肩書を背負って現地へ赴任してもらい、 国際入札を補佐し、ア首連と建設業者との請負契約後、施行監理に着手してもらうことになる。

      だが、いかなる内部書類を作成し、調達部契約課にコンサルタントをリクルートしてもらうのか、初めての経験であり、全くノウハウは なかった。発注主としてのJICAは、コンサルタントに対していかなる具体的な業務を請け負ってもらうのか、数多くの書面を 作成し、その業務内容を明確にし、契約課にコンサルタント選定を依頼する必要があった。そのデスクワークこそが目の前の最大の 難題であった。予備知識が全くない初心者にとっては、何か事を判断しようにも判断できる知恵をもち合わせないという苦しさが 毎日のようにつきまとった。何をやるにも全て手探りであり、試行錯誤の連続であった。実務が滞り、どんどん追いつめられ、焦るばかりであった。

      全てが初めての実務であり、それも次々とこなさなければならなかった。コンサルタントを選定するのに、業務指示書、施行監理の 業務内容とその範囲、人員の配置計画表と数量、予算計画書、ア首連政府・JICA・コンサルタント・建設請負業者の四者間 の権利義務関係や瑕疵担保条項などを含む契約書案などを準備した。調達部契約課が主催するコンサルタント選定委員会を経て、 その選定手続きなどを進めなければならなかった。実際は、先の開発調査を行なった民間企業が特命随意方式で選定され、それとの間で コンサルタント契約を進める運びとなった。

      一時期、胃に錐を刺したような激痛に襲われた。このままでは確実に胃潰瘍になるという恐怖に囚われ、深刻に悩まされた。 精神的に病み、鬱病になる寸前であった。毎日起きるのが苦痛で、出勤も憂鬱となり、駅ホームからふらふらと転げ落ちるのを 自身でも恐れた。だから、ホーム端を歩いたりせず、ホームの中央に立って電車を待つように、意識を堅固に心掛けた時期もあった。 はじめて鬱病者の心境が分かった。食欲なく、気力なく、何を考えているのかも自身で分からなくなった。

      ア首連での増養殖センターのことで、明日はどう仕事すればいいのか、寝床に就いてもすぐに考えてしまい、 眠れなくなっていた。頭から払拭し一旦眠りにつこうとしても、すぐに明日のことが頭をよぎり眠れなくなった。 何日も続き、自身でも鬱状態だと感じた。仕事を放り出したくなるが、できず悶々としながらも職場に辿り着く毎日。 そんな心の浮き沈みが周期的にやってきたが、なんとかそれに打ち勝とうと一人もがいていた。この頃が最も辛い時期であった。

      かくして、契約書を交わし、ようやくコンサルタントを現地に派遣するところまで漕ぎ着け、詳細設計段階に入った。 数か月後には分量のある詳細設計図に加え、国際入札のための図書類がJICAの承認を求めて、順次提出されてきた。設計図や工事 数量表などは絵図と数字であるが、国際入札時に応札者に対して提示される業務指示書や契約書案など、当然すべて英語であった。 それを近々に、外務省において関係者に入札内容や進め方などを説明せねばならない。何をどう説明すべきなのか、読み解いて 理解するには時間も余りなく、針のむしろに座るようで、心穏やかならずで何度も精神的に負い込められた。建設工事の契約書案は、 基本的にフィデック(FIDIC)という国際建設工事契約約款に則して作成されるが、それを理解しておくことも、その案の内容適否を 判断するには欠かせなかった。施主のア首連政府、建設請負業者、そのサブコン、施行監理者(スーパーバイザー)のJICA、JICA から派遣されるコンサルタントの権利義務関係が記され、業者は期限内に施設をア首連側に引き渡さなくてはならず、JICAは分身 のコンサルタントと適正な施行監理義務を果たさなくてはならなかった。

      ついに居直って、英語の書類全部を束にして、着任して間もない新室長の机に置いて、月曜日までの全てに目を通して、国際 入札に「ゴーサイン」を出して問題ないかの指示を求めた。要は判断の丸投げをした。当時、最も鬱に沈んでいた。 室長が通読して管理職としての意地を見せてくれたら、担当者としてもう一度頑張ろうと思った。私的には、 それが追い詰められていた偽らざる心境であった。担当者としての役目を果たす必要があったが、何をどう説明すべきなのか、 見えてこず、悩みがずっと続いていた。翌週、室長が曰く、「一通り読んでみたが、何ページのこことあそこがどうしても理解でき ないので、教えてくれ」と請われた。それを聞いて、気を取戻し、担当としてもう一度監理業務と向き合あい始めた。

      かくして、3、4か月の悪戦苦闘を経て、時に居直り精神に陥りながらも、高い山壁を這い上がり、時に滑り落ちながら、 山のピークを乗り越え、また次のそれを乗り越え、請け負ってくれたコンサルタントと二人三脚で歩み出した。 現場に常駐するコンサルタントには、施行監理者としてのJICAの看板のみならずア首連の代理人としての看板をも背負ってもらって いるので、コンサルタントから常に報告を受け、JICAが節目節目で必要な「指示/ゴーサイン」を送り届けた。まさに、JICAとコンサル タントは一心同体であった。通例は、特に問題が発生しなければ、定期報告書をもって進捗状況を確認し、時に個別の相談を受けつつ 必要な判断を下していった。

         国際入札を執行する段階に入った。現地等の英字新聞に広告を出し、国際的に建設業者を公募する段階となった。応募した英国・ ア首連合弁企業である一業社に関し、応札書類の不備のために失格させることになった。JICAはそれを受け入れた。 その後、幾つかの応募企業の中から、ある社が優先順位第一に浮上し、契約交渉を経て正式に契約締結を進める運びとなった。 だがしかし、ア首連農漁業省は突如、外交ルートを通じて、その審査過程に瑕疵があるとして、入札の遣り直しを求めてきた。 これでは責任もって入札はおろか、またその後の施行監理もできないとして、JICAは監理業務から撤退することも止む得ないと、 遺憾の意思表示をした。

      応札書面不備のため入札有資格者とは認められないと失格にした社が、ア首連にとってどうも本命であったのかもしれない。 だが、そんなことよりも、瑕疵のない正式の審査結果を覆されるようならば、今後責任もって施行監理を続けられないと、JICAは 逆クレームした。また、JICA企画部を介して外務省と協議を重ね、またもや一通の念書をもって、外務省が予算も含め今後の協力の 実施に全ての責任を負うとの落としどころを得て、入札をやり直しすることになった。 その後、再度入札が行われた結果、交渉順位第一位を得たのは、何とその英国・ア首連合弁企業であった。交渉の末、正式に 建設コントラクターとなり、工事着工の運びとなった。だがしかし、その後の工事工程においても、語るも涙聴くも涙の道を辿った。

      建設工事は延びに延びて、竣工したのは4年後のことであった。施主のア首連政府によるたびたびの設計変更、工事代金の期限ごとの 部分払いの遅延、予備費の使い方を巡る紛議など、あらゆることが遅延の直接・間接の要因となった。建設業者はア首連側の代金不払いや 遅延のために、自身の現場工事労働者に賃金を支払えず、そのために労働者にストライキを起こされたりもした。 止むを得ず、業者は資金を別途調達して労働者に支払い、工事を続行する努力もしていた。

      英・ア首連合弁企業はコントラクターとしていろいろな理不尽な難義を背負いながらも、工事契約の中途破棄をすることなく、 献身的な努力と忍耐力をもって、着工後4年目にして竣工に漕ぎ着けた。当初の計画工期は1年ほどであった。何と、期初の応札書類の 不備で失格者となったあの外資系企業が、最後まで踏ん張ることで、増養殖センターの完成を見た。結果論であるが、再入札によって 「結果オーライ」という結末を生んだ。同社が請け負ったことが、この結果に繋がったと、総括できる。それにしても、 長い道のりであった。中東アラブで仕事をするには、こういう苦難を乗り越えることを最初から覚悟せねばならなかった。私にはその 覚悟が足らなかったといえよう。

      JICAの施行監理予算もついに尽きた。JICA分身のコンサルタント派遣は1名であったが、間接費を含むコンサルタント諸経費は 極めて髙いものであったので、それなりの予算を期初に一括して確保していた。だがしかし、潤沢に確保しておいたはずの予算も、 4年目以降は底を尽きかけ、間接費を含むコンサルタント諸経費を支払えなくなった。間接費なしでの支払いで、 後わずかと思われた監理業務を続行してもらった。直接人件費の所属先補てんという、「技術協力長期専門家の派遣経費の算定方式」 で対応せざるを得なくなった。工事がこれほど遅延し、ついに予算が枯渇する事態に至るとは全く予想外であった。 アラブの世界では、やはり何が起こるか分からない。やはり大学時代の恩師の教えは本当であった。一年余の建設工事が4年目に 延びても、何ら驚くに当たらないという、アラブ世界の「常態的」事情を学ぶことになった。

      総覧してみると、ア首連プロジェクトを通じて幾多の教訓は得た。JICA調査団が交わすプロジェクトの合意文書の作成における 一言一句のもつ重さを肝に銘じた。何のお咎めもなかったが、一文言の過ちやその見落とし、これには何の言い訳もない。 人間をとことん追い詰め、苦悩をもたらすきっかけは、日常的にどこにでも転がっているということ。初めての経験であっても 「なせば成る」と構えるのは大事であるが、追い詰められる前に声を上げることの大切さ。結局は、誠実に事に向き 合うことの大事さなど。月並みかもしれないが、教訓として学んだ。

      ところで、水産室にて担当したプロジェクトのほとんどはイスラム文化圏にある国々であった。チュニジア、ア首連しかり、 そしてインドネシアもそうであった。当時、非イスラム国の案件も担当するにはしたが、ミクロネシアのみであった。 イスラムやアラブ文化にかなり疲れを感じていた頃、周りの先輩諸氏に聞き取れるように「独り言」を洩らした。「他地域の プロジェクトも担当してみたい、誰かプロジェクトを交換してもらえませんか」。その独り言が後の人生に最大級のインパクトを もたらすことになるとは、知る由もなかった。

      優しい二人の先輩職員は気を利かして、アルゼンチンとホンジュラスなどのプロジェクトを譲ってくれた。そしてJICAの出張 において初めて、太平洋を越えた。バーター取引によって、中南米との縁ができた。その偶然発した独り言が、ずっと後に奇跡的な 幸運をもたらすことになった。先輩職員にはいずれのプロジェクトを差し出したかは記憶にない。アルゼンチンのあるプロジェクト を譲り受け、その成立に奔走した。年に3回も日本とアルゼンチンを往復することになった。 で、私は、増養殖センターの竣工を見届けないまま、監理を後任に託し、1984年4月アルゼンチンへ赴任の途に就いた。



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