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    第7章 世界の水産プロジェクトと向き合う

    第6節 アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトと向き合う(その一)/憧れのブエノスアイレスに降り立つ  

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      「独り言」を漏らした結果、水産室で机を並べていた先輩職員が譲ってくれたもう一つのプロジェクトは、アルゼンチンの 「国立漁業学校プロジェクト」であった。譲ってくれた先輩はプロジェクトの合意形成の難しさをしみじみと吐露した。 そして、「アルゼンチンの技術レベルは漁業のそれも含めて高く、また関係者のプライドも相当髙い。技術協力プ ロジェクトを合意形成するまでの道のりは長く、ハードルも高いので、いろいろ苦労も多かろう」と言いつつ、案件ファイルを手渡 してくれた。プロジェクトを打ち立てる上で立ちはだかるハードルとはアルゼンチン関係者の髙いプライドであることを肝に銘じた。 いずれにせよ、独り言も時には漏らしてみるものだ、と内心喜んだ。その独り言がその後の人生行路の運命的分水嶺になり、 劇的なドラマを紡ぐことになろうとは思いもよらなかった。

      ところがである、そうこうしているうちに、1982年3月頃アルゼンチンが、パタゴニア沖に浮かぶフォークランド諸島(スペイン語名は マルビーナス諸島)に軍部隊を上陸させたことから、英国と戦争に突入してしまった。そのため、漁業学校幹部の日本への招聘計画 も、その後の現地への調査団の派遣計画も見合わせざるをえなくなり、事は大幅に狂ってしまった。 戦争は意外と早く決着をみて、同年6月にアルゼンチンの敗北をもって終結した。だが、当時の軍事政権への国民の批判の高まりなど 国内情勢が不安定であったため、すぐには調査団を派遣できる状態ではなかった。

      「ア」の国内情勢がようやく安定したところ、学校関係者の日本招聘を実行することになった。先ず招聘したのは漁業学校の オルティス校長(海軍退役大佐)と航海学担当のコランジェロ教授(海軍退役中佐)の幹部2名を招聘であった。その意図するところは、 日本の漁業教育事情やレベルについて理解を深めてもらい、少しでも交渉のハードルを低くするためであった。要するに、 良い意味で彼らを「洗脳」する作戦を取ることになった。

      来日早々、水産庁国際協力室を窓口に同庁幹部への表敬訪問を行ない、日本の水産行政や漁業政策・事情一般を説明し、それらの 理解を深めてもらうことから始まった。都内では、東京水産大学を視察、また近郊では三崎の神奈川県立水産高校の教育施設・実習機材、 を案内した。また、JICA神奈川国際水産研修センターの沿岸漁業などの研修施設 (管理棟、各種実習施設、研修員のための食堂・宿泊施設など を含む) や小型漁撈訓練船などを案内し、また漁業研修の概要などの説明を提供した。

      また別日に、新幹線にて下関方面に向かった。水産庁所管の水産大学校では、航海・漁撈関連の各種実習施設や機器の視察と 各種AV教材を用いた漁業教育法などについての説明を受けた。また、漁網製造会社を訪問し、オッタートロール網などの 大型曳網実験装置付き水槽での実際のデモンストレーションを見学した。今度は門司に移動し、大手民間水産会社の自前の漁船員養成学校などの教育施設 や実習機材を視察し、水産教育事情全般について学んでもらった。私はそれらの視察の全行程に同行し、道すがら通訳を介しながら、 日本のいろいろな社会文化事情について丁寧に説明した。彼らの知的好奇心から発せられる多くの質問に答えながら、良好なコミュニケーション に心掛け、互いの距離感覚を縮め、信頼を醸成できるよう努めた。かくして、日本の漁業教育の概要、環境、レベルについて多少はインプット することができ、大まかなにせよ理解を深めてもらうことができた。

      私自身にとっても、彼らへの同行は大いに有益なものとなった。普通の見学であればそんな内部まで足を踏み込めないような 漁業教育施設の内部にまで深く立ち入り、各種実習機材・機器や訓練船などを見学することができ、水産教育に関する知見を 深める絶好の機会となった。水産大学校ではチュニジア漁業訓練センタープロジェクトの運営でお世話になった漁具漁法担当の前田弘 教授に中の中まで案内してもらった。また、JICA国際水産研修センターでは、同チュニジア・プロジェクトで調査団長を三度も引き 受けてもらい現地へご一緒した森敬四郎氏が、奇遇にも水産庁からJICAへ出向し同センターの所長を務められていた。

      余談だが、水産研修センターの食堂で昼食と取ることになり、森所長からの特別の配慮として、オルティス校長らに「特大のビフテキ」 を振る舞っていただき、熱烈歓迎の意を表していただいた。だがしかし、校長らはビフテキには全く手を付けなかった。私は、 「所長の厚意による特別なおもてなしです」と一言だけ軽く促したものの、それ以上勧めることはしなかった。その当時、私には 何故なのか全く解せなかった。この半年後に協議のためアルゼンチンに初めて訪れた時、その謎が解けた。校長にその理由を改めて 問うた訳ではない。そのエピソードは次節に譲ることにしたい。

      かくして、1983年3月になって、プロジェクト方式技術協力について協議するためにブエノスアイレスへ向かうことになった。 当時私の水産室勤務は丸3年が経っており、通例ならば人事異動があってもおかしくはない時期にあった。だが、どういう訳か4年目に 入ってもそのままずっと水産室で業務を続けることができた。何故かそんな人事のお陰で、同年中に何と3回もアルゼンチンを往復し、 ついに協議を取りまとめ、プロジェクト成立に漕ぎ着けることができた。詳細は後に述べることとして、初めてのアルゼンチン への出張は感動と感激の連続であった。

      面識のあるオルティス校長らが待ち受けると思うと少し気が楽であった。それに入団同期の河合恒二君がJICA事務所に勤務して おり、内心大いに当てにしていた。生まれて初めて南米大陸へ足を踏み入れ、憧れのブエノスに降り立った。ブエノスは青少年時代 から憧れていた都会であった。若かりし頃、南米航路の船乗りになって、パナマ運河を経て南下しリオ・デ・ジャネイロを経由し、 ブエノス港に錨を降ろすことや、南米文化に浸ることを長く夢見ていた。1960年代に南米航路に就航していた「あるぜんちな丸」や その姉妹船「ぶらじる丸」の終着港であった。バリグ航空にてロサンゼルス、リマを経由してサンパウロへ、そこで同航空の別便 に乗り換え、ブエノスに到着した。35時間以上の長旅であった。かくして、青少年時代からして20数年の歳月を経て、ついにブエノス の地に足を踏み入れることができた。感涙、また感涙であった。

      調査団を乗せた車は、幅100メートルもあるという市街中心部を貫く「ヌエベ・デ・フリオ(7月9日)大通り」をゆっくりと走り抜けた。 そして、サンマルティン広場に面する「クリジョン・ホテル」という、名前こそ立派なホテルに投宿した。クリジョン・ホテル や広場界隈に建ち並ぶ、「南米のパリ」のような風景をしみじみと見渡して鳥肌が立った。興奮冷めやらず、万感の思いがこみ上げてきた。 「とうとうブエノスに来ることができた!」。これがその界隈にたたずんだ私に去来した偽らざる心境であった。感無量であった。

      別日に、サンマルティン広場から始まる、ブエノスきっての歩行者天国「フロリダ通り」に団員らで足を踏み入れてそぞろ歩きをした。 ブエノスを象徴する華やかなフロリダ通りに、心は跳ね躍り高揚しぱなっしであった。 特にクリジョン・ホテル界隈は華やかなパリ風情を漂わせていた。そして、ブエノスに暫く滞在し、目が少しずつ 慣れてくると、ブエノスの街風景に同化して行いったが、感動感激の思いは冷めるどころかさらに増幅した。

      さて、調査団は先ず海軍本部を表敬訪問した。大河ラ・プラタ川河岸に築造されたブエノス新港にほど近いところにあった。 白亜の大きな建物で、高層階からはラ・プラタ川や港湾施設の全貌を見下ろせる位置にあった。海軍本部前の階段を登り切った正面 入り口付近でオルティス校長は待ち受けていた。調査団が遅れて到着することで、上官に当たる海軍少将を待たせはしないかと、 少し気をもむ風であった。顔の表情からそれを感じ取れた。会議室に通され、現役少将である教育総局長や顧問らを表敬し、 調査団の目的、団員構成、日程予定などを説明し、今後の協議の進め方などを念入りに確認し合った。

      ところで、1976年のJICA入団同期である河合君がJICA事務所に着任してまだ一年も経っていなかった。彼は、日墨百人交流計画により JICAからメキシコへ語学留学する機会に恵まれ、スペイン語が堪能であった。彼が調査団の公式協議にほとんど付き添ってくれたことで、 非常に心強かった。彼とオルティス校長とは、JICAによる訪日招聘やプロジェクトの打ち合わせなどで、日頃から何かと事務所で 接点があり、親しい間柄になっていた。彼と校長に信頼関係が構築されていたことから、プロジェクト協議で壁にぶつかる局面で、 その信頼関係と語学力に大いに頼ることとなった。

      海軍教育局は、国立漁業学校の他に、国立商船学校、潜水艦学校など20以上の海軍教育機関を所轄し、その教育行政を 統轄していた。当時アルゼンチンはなおも軍事政権下にあった。議会は閉鎖され、「フンタ・ミリタール」という軍事評議会が 国家の最高意思決定機関となっていた。フンタが政権を担い、大統領がその評議会議長の職にあった。その下に各省庁の行政機構が あったが、省庁の幹部ポストはほとんどが陸海空軍出身の高級将校たちで占められていた。

      そんな中、アルゼンチン海軍の軍人や関係者は日本に対して親近感があった。それには訳があった。日露戦争に先立っての出来事 であるが、アルゼンチンはイタリアに軍艦の建造を発注していた。他方、日本は日露戦争に備え艦船増強のため、軍艦2隻の 譲渡を要請していた。アルゼンチンはその2隻を日本に融通することに合意した。 かくして、開戦直前に、大日本帝国海軍が1903年に「ア」海軍から買いとり、「日進」、「春日」(いずれも同型で装甲巡洋艦)と名付けた。 「ア」海軍での「日進」の艦名は「モレーノ」といった。

      東郷平八郎提督が率いる旧日本帝国海軍は、日本海海戦当時、2艦は「日進」、「春日」の艦名の下で主力艦として参戦し活躍した。 他方、日本海海戦で連合艦隊旗艦を務めた戦艦「三笠」には東郷平八郎が座乗した。また、アルゼンチン海軍大佐のマヌエル・ ドメック・ガルシアも観戦武官として乗艦しその戦いぶりを観戦をしたという。後で知ったが、ラ・プラタ川のデルタの一角にあって ブエノス近郊でもあるティグレという町に「アルゼンチン海軍博物館」があり、そこに日露戦争関連資料が展示され、その中に ガルシアが帰国後に著わした「日露戦争観戦武官の記録」(全5巻)があるという。オルティス校長からは、「ア」海軍では現在でも、 日本海海戦における戦法について講義しているということを何度か聴かされた。余談だが、校長は招聘訪日時、わざわざ横須賀に ある「三笠」の船舶博物館を訪ねている。日本海海戦では少尉候補生として山本五十六も乗艦していたという。

      暫くして、ブエノスを離れ、漁業学校が所在するマル・デル・プラタに飛行機で移動した。ブエノスの南東約400kmの距離にあった。 大西洋に面する大きな商業港であり漁港でもあった。先ず、市街中心地からほど近くに所在した漁業学校を訪問した。 マッチ箱を縦に立てたような、古ぼけた小さなビルが学校校舎にあてがわれていた。初めて案内された時は、正直なところびっくりした。 3階建てで、教室は3,4室ほどであり、一室20人ほどで一杯になる狭さであった。

      機関部員養成のための機械・電気実習室の機材には見るべきものは無く、錆びついたエンジンとパーツのように見えるものが 床や長テーブルに並べられていた。余りに質素な施設と機材は想像を超えたものであり、仰天して言葉もでなかった。 それでもアルゼンチン側のプライドの高さには、内心さらに仰天するばかりであった。日本人の感覚からすれば、漁船の船長や航海士、 機関長や機関士の船舶運航の国家海技資格を付与するための教育を施すための学校と呼べるような漁業 教育施設には到底見えなかった。日本がここで漁業技術指導を行いレベル向上を目指すのなら、少なくとも日本の水産高校や高等商船 学校のような施設、実習機材、訓練船が必要なことは一目瞭然のように思えた。

      ところで、アルゼンチンでは船舶運航者の国家海技資格の付与は海軍の専権事項ではあったが、その海技免許はまず商船・漁船・ 河船の3つのカテゴリーに分かれていて、海軍管轄下にある個々の船舶職員教育機関(国立商船学校、国立漁業学校など)で養成され 付与される。その3つの船舶類型別に、航海士と機関士の養成に分かれる。それらの船舶職員はさらに等級別に分かれる。 漁船は大きさによってさらに3つのカテゴリー、即ち沿岸漁船、近海漁船、遠洋漁船に分かれている。海技資格はその漁船と等級別に 別れている。漁船を運航し漁撈活動に従事したい船舶職員は、この学校に入学し3類型の漁船の船長や航海士、漁船の機関長や機関士の資格 を取得するのが一般であった。

      さて、プロジェクト調査団は、学校内の小さな会議室で小テーブルを囲み、膝と肘を突き合わせながら打ち合わせをした。 時に環境を変えて気分一新の下で協議するため、市内のホテルの会議室を借り上げて、10数名の関係者が真剣な協議を重ねた。 当方の出席者は、団長の元水産庁次長恩田氏、水産庁国際協力室や文部省職業教育局からの団員、下関の水産大学校の前田教授など総勢 5名、先方はオルティス校長、ジャベドニ副校長(海軍退役中佐)、総務課長(海軍退役少佐)、航海学・漁具漁法・漁獲物処理の担当 教授らであった。

      漁船運航者の海技資格制度について再確認をしながら、資格授与に当たって学生が法令上履修しなくてはならない座学 や実習の詳細、特に単元とそれらの単位数やそれらを定める法令規則などを調査した。また、日本のプロジェクト方式技術協力の プロトタイプの概要として、長期専門家の派遣制度や分野の事例、担当教授らの日本での技術研修制度、協力分野の技術指導に必要とされる 資機材の供与などについて説明した。また「討議録」(Record of Discussions; 通称RD)と呼ばれる、プロジェクトを実施するに当たって 署名される合意文書のひな形を示して、その概略を説明した。その他、通例プロジェクトの協力期間を5年間としていること、専門家に付与されるべき 特権や免除(所得税などの免除、生活のために持ち込まれる物品に対する課税免除など)、供与される資機材に対する消費税(IVA)の免除、 アルゼンチン側が履行すべき専門家の住居や医療保険サービスに関する提供などについても説明した。技術協力プロジェクトとは いかなるものか、「ア」側にイメージが涵養された。

      また、日本の協力の仕組みについても触れた。無償資金協力と技術協力との連環性、一体性についてである。アルゼンチンの一人 当たりの年間国民所得は高ことから、「一般」無償資金協力の対象国ではなかった。だが、水産分野においては特別の予算枠が認め られていた。即ち、「ア」国のような国であっても、「一般」は無理でも「水産」無償資金協力については、供与の対象国として 認められていた。「水産」無償資金協力の年間予算は当時200億円ほどが計上されていたようである。世界中の海に広がる、遠洋漁業国としての 漁業権益を確保するための特別の予算が準備されていたといえる。

      連環論や一体論にはさらに補足説明が必要であった。「ア」国の漁業権益を得たいがためだけに、この「水産」無償資金協力予算が使われる ものではなかった。他国の漁業教育の場で日本の水産技術を移転するためには、それに見合うだけの一定レベル以上の教育施設や実習 機材が不可欠であるが、「ア」国のように多少所得が髙い国であっても、それらの施設・機材が整わない場合には、無償供与が許容 されるというロジックであった。逆に言えば、ハード面での整備に無償資金協力するということは、日本によるソフト面での 技術協力の実施が大前提となっていた。無償資金協力と技術協力とは不可分の一体をなし、ワンセットであった。両方の協力を パラレルに押し進め、その相乗効果を高めようという訳である。

      技術協力プロジェクトが長期間実施なされるとなれば、必然的に両国の漁業外交上の接点や窓口が、そのプロジェクトを起点あるいは 基点にして、その実施期間中ずっとキープされることに繋がる。技協プロジェクトを足場にしながら、外交・水産当局と適宜接触し、 コミュニケーションを図りながら、漁業権益などの観点から外交を展開しやすくなる。 1982年当時国際捕鯨委員会(IWC)が商業捕鯨を一時停止(モラトリアム)とした。日本政府はそれ以降ずっとその再開を訴ええてきた。 その間調査捕鯨を実施しながら、反捕鯨国と鋭い意見対立を取り続けてきた。その当時、IWC総会のブエノス開催もいずれ予定されていた。 当然、その時の議長は「ア」国の水産次官などの幹部がなるはずであった。とはいえ、国立漁業学校プロジェクトの「ア」側受益者は 、無償協力も技協もアルゼンチン海軍であった。日本側としては、それでもよしとせざるを得なかった。

    また、当時、第三次国連海洋法会議が大詰めを迎えていた頃であり、海洋法条約が間もなく票決に付される時期であった。200海里 経済水域(EEZ)制度は間違いなく世界の海の秩序として確立されつつあった時機であった。遠洋漁業国・日本はいずれ早晩世界の沿岸海域からフェーズ アウトされることになるという世界的情勢にあった。アルゼンチン沖合の広大な大陸棚を包摂する200EEZにおける日本の漁業権益を 「ア」と交渉し確保する上での一つの外交的接点とカードになるという、日本の期待と思惑が背景にあったことは全く否定できない。 余談ながら、数年後の1984年に日本の総漁獲量は1,200万トンを超え、ピークに達していた。2020年現在ではその3分の1ほどである。 日本は35年間遠洋海域での漁獲量についても減らし続けてきた。今は昔となってしまっているのが現実である。

      さて、討議録のひな形をベースにさらにアルゼンチン側と協議を続けた。そしてオルティス校長から発せられた言葉に我々は ひっくり返った。今回「ア」国が日本に無償資金協力を要請した学校施設はもちろんのこと、実習用機材は「ア」漁業学校の 教授や元海軍技術者らによって十分使いこなし、教育に生かすことができるというのだ。従って、日本人専門家を派遣してもらう 必要ではない。それが校長の答えであった。日本人専門家の手を借りなくとも使いこなせるので、ひな形に言う技術協力プロジェクト のための協力期間は2,3週間で十分であるという。日本側からすれば、事実上プロジェクトは必要はないことを意味していた。 日本に招聘して日本の漁業教育事情などを視察してもらった後における校長の見解に唖然とするばかりであった。

      それにオルティス側がちらりとほのめかしたのは語学力についての懸念であった。私自身も言えたことではなかったが、 スペイン語をほとんど理解できない日本人専門家が来「ア」しても、何をどうやって技術指導できるのか、できるはずがないという 先入観があるようであった。専門家とカウンターパートは意思疎通をどう図るのかと、オルティスは疑問を呈していた。 日本側がプロジェクトの実施を盛んに推奨することに困惑の表情が読み取れた。

      私的に、それについて予め答えをもっていた。チュニジア・プロジェクトでの経験が生きた。その点については心配には及ばない、 双方のエキスパートは英語でもって意思疎通、技術の受け渡しや協業ができるのではないかと、河合君を介して即座に切り返した。 「ア」側の「教授」と称されるカウンターパートらには英語が堪能であるはずなので、何か問題でしょうかと問い直した。 オルティス校長は、はっと気づいたようで、「カウンターパートは英語を理解できない」ので、コミュニケーションできないとは 到底反論することはできなかった。「英語ができない」と言うにはプライドが邪魔して、口が裂けてもそうとは言えなかった ことであろう。それを見越して、そう説明した。オルティス校長は、そのことについて二度と口にしなかった。だが、私的には内心では、 日本人専門家は果たしてどれだけ英語堪能であることか、そちらを深く心配していた。

      さて、協議のこう着状態から一旦離れ、ヒートアップした頭をクールダウンさせる意味からも、調査団員は漁港周辺の魚卸売市場での 取り引き事情視察も精力的に行った。漁港のすぐ近くの後背地に確保されている学校建設予定の敷地に立ち入ったり、 漁港内の漁船専用泊地に係留されているる色分けされた漁船やそれらの装備などを岸壁から視察した。船体が全体的にオレンジカラー に塗られた数トンの日帰り操業する小型零細漁船、レッドカラーに塗られた一週間操業の中型漁船、その他1カ月以上操業するという 遠洋漁船の三種類型の漁船の他に、魚市場や漁船へ砕氷を供給する製氷施設などを見て回った。その他、漁港の隣接地に シーフード・レストランが集積されるという商業的コンプレックスの建設予定地などにも立ち寄った。

      また、「不毛の大地」と称されるパタゴニアの沖合に広がる大陸棚の上部水域で操業する中型・大型漁船の漁業基地となっている 地方都市プエルト・マドリンへ視察にでかけることになった。先ず大西洋岸沿いに飛行機でトレレウまで飛び、そこから車でマドリンへ。 マドリンはブエノスから南へ1000kmの大西洋岸にある漁業基地であり、またボーキサイト精錬の大基地であった。近海漁船の 操業事情などを視察した。そして、折角の機会であったので、海洋・陸上野生生物の楽園とされるバルデス半島を訪ねた。 アシカ、ミナミセミクジラの生息地として有名である。そこで生まれて初めてホエールウオッチングした。我々の乗るパワーボートの下を 悠然とくぐり抜けた。急に浮上してボートを転覆させるのではないかと恐怖心を抱いたが、杞憂であった。よく見ると体中クジラミ だらけで、その自然の姿に親しみ感じた。

        休題閑話。プエルト・マドリンから帰り、再び校長らと協議を始めた。最大の懸案はプロジェクトの協力期間であった。 校長はその後海軍本部の関係者らと協議したのであろう、ほんの少し譲歩案を提示した。専門家の技術指導を受けるとしても2,3 ヶ月もあれば十分である、との見解であった。日本に招聘し、社会文化や水産教育事情などに関する理解がやはり多少は深まった ことが、オルティス校長らの心情に好影響を及ぼしたと、ポジティブに受け取った。招聘作戦はそれなりに意義があったと思った。 だがしかし、海軍幹部との内輪での協議を踏まえての事であろうが、校長は協力期間についてガードが固かった。

      私は担当者として、河合恒二君の全面的なバックアップに助けられ、時に彼に全面的通訳をしてもらって、オルティス校長と 膝詰談判を繰り返し説得する努力を続けてきた。そして、現地調査が間もなく終了し帰国する間際において、「日本人専門家の協力 を得るとすれば、2,3ヶ月もあれば充分であり、機材の使い方などを十分習熟できる」との回答。当初はゼロ回答 であったところからすれば、大きな譲歩であった。校長は真にこれで妥協をしたかったのであろう。だが、日本側にとっては余り にも短すぎた。彼らの技術的プライドを押し殺して、例え数ヶ月であっても専門家による技術指導を受け入れることは、それなりに 苦渋の選択であったのであろう。海軍教育総局幹部や校長らが長期の技術協力プロジェクトに後ろ向きであったのは、教育現場において 漁業学校の教授らがスペイン語のできない者から指導を受けることに拒絶反応を示していること、英語で十分なコミュニケーションが 取れないことを曝け出すことで彼ら自身のプライドを喪失することになるとの深い憂慮をもっていることがあったのかもしれない。

      いずれにせよ、オルティス校長が海軍本部幹部から引き出した譲歩案であったが、翻ってみると「5年間」の技術協力などは とても受け入れられないことを暗示していた。校長は討議録のひな形につき大きな異論も示さなかったものの、「5年間」の協力期間 だけは最後の最後まで見解の相違は埋まらず、今後の大きな懸案事項となってしまった。根底にある「ア」側のプライドの高さ、 立ちはだかるハードルの高さを思い知らされ、協力期間に関する見解の大きな隔たりを抱えたまま帰国することになった。 協力期間につき、5年間でなくとも少なくとも数年への歩み寄りがなければ、日本側は無償協力も技術協力も実施に踏み切れないことを意味していた。

      今後この溝を埋めるためにどう説得すればよいのか気にしながら、ブエノスを後にしてニューヨークに向かった。 生まれて初めてのニューヨークであった。ケネディ国際空港から市内に向かった。ハドソン川に近づくにつれて、マンハッタンの 摩天楼が車窓から見えた。だんだんと大きくなって来た。テレビや写真でよく見かけるスカイスクレーパーの風景が車窓に映し出され ていた。ハドソン川に架かるブルックリンの大橋を渡る。青少年の頃、船乗りとしてパナマ運河を横切り北に針路を取り、ニューヨーク の突堤に船を横付けし、下船できた暁にはセントラル・パークや五番街の界隈をそぞろ歩きする、そんな単純な夢を見ていた。 眼下に、マンハッタンのハドソン川沿いに櫛の歯のごとく幾つものの突き出た埠頭が見えた。 今では何も見ることはできないが、大西洋横断の豪華定期客船が摩天楼の周りの埠頭に停泊するシロクロの風景画像を頭の中で 合成していた。「ついにマンハッタンに立つことができるのだ!」と心の中で叫んだ。

      ブルックリンの橋を渡りながら、国連本部のマッチ箱を縦長に立てたようなガラス張りの高層ビルを眺めていた。 「私が国連に送ったあの履歴書はどうなっているのだろうか」と自問した。「日本人の海洋法担当法務官ポストは今頃どうなって いるのだろうか」と思いつつ、橋を渡り終えた。我々団員は、気後れもせずお上りさんになって、エンパイヤーステートビルにも昇り、 鳥の如く空中散歩を楽しんだ。大通りに出て空を見上げた。何とほとんど空は無く、ビルが両側からせりよってきて、後ろにひっくり 返りそうであった。女神像が遠目に見えるマンハッタン最南端の岸辺に辿り着いた。折角だからと、発着場に足を向けフェリーに 乗船しようとしたが、寒波が来襲していたため、体はもはや凍り付いていた。余りの寒さに耐えられなくなり、乗船を諦め、団員皆 すぐ近くのカフェに逃げ込み、身体を温めるのが精一杯であった。

      翌日、ニューヨークを飛び立つと、再びブエノスで積み残した懸案を思い出してしまい、どんな策があるのか思い巡らせた。 フライトの中で一策にありつこうとしたが、ビールとワインがそんな悩みを頭の片隅に追いやってくれた。 大船に乗ったかのように気分が高揚し始め、憧れのブエノスアイレスでの楽しい出来事や美しい風景を想い出していた。 そのうち、懸案などどうでもよくなったが、一つだけ決意を新たにしたことがある。先のホンジュラス水産資源調査で現地に赴いた折 スペイン語の学習に目覚めたが、今回のブエノス出張でその学習への本気度を高め、さらに必死に取り組むことの絶対的必要性を認識した。 そして、スペイン語を実践する機会は意外と早くやって来た。



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    第7章 世界の水産プロジェクトと向き合う
            第8節 アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトと向き合う(その二) /無償協力と技術協力の合わせ技アルゼンチン