FishTech - Photographs of Fishing Techniques
漁業技術の画像集・FishTech


著作者/水産大学校名誉教授・理学博士 前田弘
Compiled by Emeritus Prof. Hiroshi Maeda, Fisheries College, Shimonoseki, Japan

協力者/水産大学校助教授 深田耕一
in collaboration with Asst. Prof. Koichi Fukada, Fisheries College, Shimonoseki, Japan


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    第 2 部
    15 底曳網
    27 以西底曳網漁船



     第2次大戦直後の日本は、極端な食料不足に陥っていた。この時代のタンパク食糧(特に、大衆を対象とした 底魚と練り製品の原料)を支える漁業の1つが、以西底曳網漁業であった。これは法律的に規程された用語で、 漁法的には2そう底曳網漁業と呼ばなければならない。

     当時の以西底曳網漁業は、300馬力以下の機関を備えた100トン以下の小型で普通の船型をした船が、2隻で組 になって行う底曳網漁業で、東シナ海において活躍し、下関・博多・長崎の漁港を賑わした。当時は、300トン 以上で大手の水産会社が運営するトロール船に対して、以西底曳網漁船は中小の水産会社が運営し、経営的には トロール船と対抗できた。

     当時の日本では、100トン以下の木造船(大手の水産会社では鉄船)で行え、投揚網からワープの巻き込みまで すべて人力でできるこの業種は、時代の背景に適応した漁業であった。主要漁場である東シナ海は近く、浅く、 海底は平坦であったので、磁気コンパス以外の計器のない時代には、このような船に適した漁場だったのだろう。 これらの点は、東シナ海を取巻く諸国にとってかなり後の時代まで魅力的であり、それらの国における漁業の 勃興によって、’60年代には日本の以西底曳網漁船は、東シナ海からの脱出が計らなければならなくなった。

     その1つが北洋の底曳船団の独航船としての転出である。

     大型で高出力の漁船が普通に建造できるようになると、ほぼ同型の2隻の船で曳かなければならないという ことが、発展の妨げになる。

     トロール船において船尾式が普及するに従って、以西底曳網漁船は、船橋を極端に船首に近づけ、左舷がわの 半分だけの幅にし、船尾にスタンランプを設けた型に発展し、先に記した元来の以西底曳船の特徴はなくなった。

     投揚網からワープの処理までを人力で行うことから、すべてを機械力で行うようになり、人力だけでは扱えない ような大きな網を曳くために、北洋における底魚船団の独航船を兼ねる船では、1,500馬力の主機を備える ようになった。

     しかし、東シナ海における漁場は、広さが限られている。その後、漁獲量が減少し、日本では人件費が高騰 したので、東シナ海周辺の国からの追上げによって、大手の水産会社はこの漁業から撤退し、次第に減船され、 現在では長崎において辛うじて残っているだけになった。

    No.1
    [No.1: ft_image_15_27/image001.jpg]

    No.2
    [No.2: ft_image_15_27/image003.jpg]

    No.3
    [No.3: ft_image_15_27/image005.jpg]

     漁船と漁法の写真を撮影することに心掛け始めた1970年には、すでに、従来からある以西底曳網漁船は船尾式 に変わり、元来の船型の船は巾着網漁業の運搬船として面影を留めるだけとなった。No.1とNo.2はそれらの 写真である。

     元来の型の以西底曳網漁船は乾舷が低く、中央に船橋があり、耐波性が優れた普通の型の船である。

     船首楼の下が甲板部員室、甲板は作業場で投揚網作業と漁獲物の選別を行う。その下が魚艙になる。

     甲板には前端にワープの一部を巻き取る大きなドラムと機関室の両側にワーピングエンドがある以外は、 ウインチ・ボラード・ギャロスを含む一切の漁労設備はない。

     船橋が黄色に塗ってあるのは、日本船を意味する。船橋には磁気コンパスと人力によって操舵する大きな 舵輪以外には何もない。終わり頃には一部の船にはレーダと魚探がやっと見られるようになった。

     船橋の下は通信室(主船)か幹部乗組員の居住区(従船)である。その後は機関室で、その上には、 機関開放修理・通風・明かり取り等のために、構造物は何もない。

     その後が食堂で、その下は機関部員室、船尾は作業用の狭い甲板がある。

     No.3は廃船前の船の写真である。当時の船の水線上構造や甲板上に設置されていた漁労設備が分かる。

     ワープはコンビネーションロープである。2隻の組みで3本持つ。投揚網は2隻の船が交互に行う。

     片側のワープを繰出し終わると、船のローリングを利用し、右舷側を越して網を投入する。したがって、 トロール船や以西底曳網漁船はよくローリングをするように作られている。これは、荒天でも航行できること を意味する。無風状態のときよりも、ある程度の風浪があるときの方が作業しやすい。

     網の投入を終わると他方のワープを繰出し、そのワープを他船に渡し、2隻で1統の網を曳く。 したがって、網口を広げるためにオッターボードは使わない。

     所定の時間、網は曳かれる。この間に漁獲物を整理する。2隻の船が等速度で一定間隔で網を曳き、 終わりにはお互いに近づいてワープを渡さなければならないので、絶えず相互の緊密な連絡が必要であるが、 それには無線電話等は使われなかった。

     曳網を終わると、ワープを受取り、船尾にあるローラを越えて2本のワープを巻込む。(このロ−ラは 短い柱の上にあり、それを牛の角に見立てて、bull trawlerと呼ばれた。)この間にワープを渡した船は離れる。 ワープは、食堂と機関室の壁面上端にあるガイドローラを通って、機関室の横にあるワーピングエンドで 引かれる。網がついたワープを曳く動力は、これしかなかった。ワープの始めの部分は船首楼の下にある ドラムに捲込まれる。この作業のために両舷に沿って甲板は十分な幅が空けられている(No.3)。 このドラムは直径が小さく無動力であったが、後には動力化し、直径は船首楼の下一杯まで大きくなった。

     ワープのそれ以後の部分は、人力によって揚げられる。ワーピングエンドに熟練した乗組員が立ち、 残りの乗組員は甲板に並んで、ワープをコイルする。2隻の船が交互に揚網するが、平均2時間曳網する としても、乗組員は毎日6回ずつこの作業をしなければならない。

     網はワーピングエンドから前檣の上端にある滑車を通るワイヤによって引揚げられる。網は船の ローリングを利用して右舷から甲板に取込まれる。この作業は、船がある程度ローリングする方が進めやすい。 網が海面近くまで揚がってくると、右舷から風を受け、風圧によって船を網に乗上げないようにしながら、 網を揚げる。

     この作業が終わると反対の船が投網を始める。曳網中には、網を揚げた船の乗組員は漁獲物を整理し、 もう1隻の船の乗組員は休憩する。

    No.4
    [No.4: ft_image_15_27/image007.jpg]

    No.5
    [No.5: ft_image_15_27/image009.jpg]



    No.6
    [No.6: ft_image_15_27/image011.jpg]

    No.7
    [No.7: ft_image_15_27/image013.jpg]

    No.8
    [No.8: ft_image_15_27/image015.jpg]

     No.4からNo.8までは、1970年代の、大型で船尾化した以西底曳網漁船の写真である。

     これらは、大手の水産会社が所有し、船首に見られる3本の縦線は、北洋の底魚船団の独航船として使用される ことを意味する。 

       これらの写真が示すように、船橋は著しく前の左舷寄りに片寄る。船尾にはスタンランプが設けられ、 甲板のほぼ全長を利用して大きな網を揚げられるようになった。この変化は、トロール船の船尾化の影響である。 しかし、2隻の小型・小馬力の船を用いて、網を曳き、ほとんど人力によって処理するという、この漁法の 特徴はなくなった。これらの特徴は、第2次大戦後における日本の社会的背景に適応していたが、そのような 背景はこの時代にはすでになくなっていた。

     網を曳く性能だけを考えれば、もっと幅の広い船の方が有利であるが、船体を長くすることによって長い網を 扱える。日本の船では航走性能も考えなければならないので、外国船に比べて船体は長い。

    No.8は北洋に出漁準備中の、以西底曳網漁船の写真である。スケトウダラを狙う網の大きさが分かる。 このような大きな網を曳くために主機は1,500馬力程度になった。これらの変化は主機の高速化や甲板機械の 油圧集中管理化に負うところが大きい。

     

    No.9
    [No.9: ft_image_15_27/image017.jpg]

    No.10
    [No.10: ft_image_15_27/image019.jpg]

    No.11
    [No.11: ft_image_15_27/image021.jpg]

    No.12
    [No.12: ft_image_15_27/image023.jpg]

     No.9からNo.12までは船尾化した以西底曳網漁船のスタンランプと推進機を示す。推進機は曳網力を増す ためにコルトノズルを付けている。技術的にはこのようなものを取入れるまでに進んでいたが、社会情勢の 変化には勝てず、この漁業はほとんど消滅した。

    No.13
    [No.13: ft_image_15_27/image025.jpg]

    No.14
    [No.14: ft_image_15_27/image027.jpg]

    No.15
    [No.15: ft_image_15_27/image029.jpg]

    No.16
    [No.16: ft_image_15_27/image031.jpg]

    No.17
    [No.17: ft_image_15_27/image033.jpg]

    No.18
    [No.18: ft_image_15_27/image035.jpg]

    これらは、長崎港に出入する地元の水産会社が所有する以西底曳網漁船の写真である。

     冷凍スリミの普及に伴い、練製品の原料の需要はほとんどなくなり、漁獲の主な対象は惣菜用の魚に変わった。

     No.4からNo.6に示した船とよく似ているが、それらに比べて小型で、鳥居型マストが2基ある。

     後の鳥居型マストに下がっている黒く長い楕円のものは、空気フェンダーである。漁獲量が減少したので、 航海日数が延び、漁獲物の鮮度低下を防ぐことと、漁獲物の現金化のために、洋上で接舷して漁獲物を転載 することが増えたことを意味する。

     元来の以西底曳網漁船には、その起源から、阿波型と出雲型があった。No.4からNo.8までに示した船は、 大手水産会社が所有し、半年近くを北洋の独航船として稼動する。No.13からNo.18までに示した船は、 周年東シナ海においてこの漁業を続ける。これらの間には多くの点において、大きな違いが生じた。

     いずれにしても、この漁業が盛んであった頃と背景が変わり、従事する漁船は、原型に近い船と全く違った 型に変わった。


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