海事関連略年史 ( I ) Ocean-related Affairs Chronology (I)
人類のフロンティア海洋における探求の系譜
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* 人類の歴史は探求の歴史でもある。人類は今なおその旅を続けている。
紀元前4000年 人類が初めて小舟を作った時期を特定することは不可能であるが、世界各地に有史以前から存在していた。紀元前4000年頃 メソポタミアに帆掛け舟があったと推定されている。 3000年 エーゲ文明が始まる。クレタ島を中心とするミノス文明。青銅器時代。エーゲ海での航海は多かった。 2000年 フェニキア人による海上交易が繁栄する。ギリシア人のエーゲ海への進出が始まる。 1200年 フェニキア人、地中海を出てイギリスに達する。 1184年 トロイが陥落する。鉄器時代の始まり。 1000年頃 フェニキア人が地中海の交易ルートを開拓する。 916年 ロードス島が繁栄する。世界最初の海商法、共同海損法、投荷法が制定される。 850年 フェニキア人が戦闘用の軍船(ガレー船)を開発する。 753年 ローマ市の建設。 600年 マッシリア港(現在のフランスのマルセイユ)が建設される(世界最古の現存商港である)。 480年 ギリシアがサラミスの海戦でペルシャを破る。 334年 マケドニア王国(キリシア北方)のアレクサンドロス3世(大王)、東方への大遠征を開始する。アケメネス朝ペルシアを滅ぼす。 エジプトからインダス川にいたる地を征服する。大王はBC323年病死する。大王の帝国はギリシア人の後継者たちによって分割された。 東征を機にオリエント各地にギリシア都市が建設され(エジプトのアレキサンドリアはその一)、ギリシア文化とオリエント諸文化が融合する ヘレニズム文化が生まれた。BC30年のローマによる地中海制覇でヘレニズム文化は終焉する。 333年 アレキサンドリア港が開設される。 326~同325年 アレクサンドロス大王の武将ネアルコスが、東征の帰途において、艦隊を率いてインダス川河口からティグリス川河口まで 航海する。
221年 秦の始皇帝、中国を統一する。 100年 インドのアーンドラ朝が香料、綿紗などを西アジア、ローマなどに輸出し、海上貿易により繁栄する。
紀元後 0-900年代(西暦1-10世紀) 0年 ローマ帝国とインドとの間において、エリュトラー海(アラビア海)を横断する航路により交通がなされる。ホルムズ海峡(ペルシア湾= アラビア湾の湾口にある海峡)からの沿岸航路をもって、東南アジアの南海航路につながり、南シナ海、さらに寧波、杭州などに いたる。アラビア海をまたいで中近東とインドとの間を行き来するインド航路の航海者たちは、季節風の存在を知り利用を始める。 紀元後1世紀頃 「ヒッパロスの風」(南西季節風)が発見される。また、「エリュトゥラー海案内記(または航海記)」が書かれる。この頃には、 ローマとインド (サータヴァーハナ朝) との交易が盛んとなる。 115年 ローマ帝国、最大領域に達する。 150年頃 ギリシアの天文地理学者クラウディウス・プトレマイオス Claudius Ptolemaeus(83年頃~168年頃)が、古代ギリシアの地理学を集大成した「地理学」を 刊行する(ラテン語訳は15世紀)。
プトレマイオスが2世紀に著わした「地理書(Geographia)」8巻は、地誌的内容を著述する書ではなく、世界図作成のための書であった。即ち、 球体である地球の球面を平面に描くための投影法の一つである「円錐図法」などの地図の作り方について記述する。 そして、「地理書」は一枚の世界図と26枚の地域図からなる。その世界図は、投影図法による経緯線を用いた世界で最初のものであり、そこには 8,000にのぼる場所について経緯度での位置が示されていた。 何故、プトレマイオスが紀元後2世紀(紀元後150年頃)に製作した世界図(画像1)を現代において見ることができるのか。「地理書」のギリシア語での手書きの写しなるものが、コンス タンチノープル(現イスタンブール)からイタリアへもたらされていたが、その原本なるものが15世紀になって再発見された。 先ず、ルネサンス期のヨーロッパにおいて、数多くの写本を通じて復活することになり、一部の写本には世界図と地域図が付されていた。 さらには、15世紀後半のルネサンス期の地図製作者たちによって、当時新たに開発された印刷術をもって「地理書」が出版された。かくして、 同書の印刷にともない、世界図がルネサンス期に蘇るにいたった。 プトレマイオスの世界図は、比較的正確に描かれたヨーロッパ部分に比べ、東方の形状は極めて不正確である。また、 アフリカの赤道以南では、その最南端の陸地は東方に向けて地図下辺をはうようにして伸び行き、アジア東端において南方に伸びる陸地と繋がれている。 つまり、インド洋が大きな内海のように取り囲まれるという、想像の世界が描かれている。現在のスリランカに当たるセイロン島は異常に大きく描かれ、 インドは半島の地形をなさない。アジアの東端は知られていなかった。当時のギリシアでは、「北半球に大陸があるなら、南半球でも大陸がある」と 単が得られたため、架空の「南方大陸」が描かれていた。 また、世界図ではヨーロッパと中国との経度差を実際よりも大きく見積もっている。因みに、カナリア諸島から中国までの距離を経度幅180度 にて描いており、50度ほど広く伸長したものとなっている。従って、当時の航海者が、ヨーロッパから西回りで中国へ至るまでの距離を実際 よりもずっと短く解釈することになったのも不思議ではなかった(画像参照)。
少し時を早送りするが、オルテリウスは、1570年に「世界の舞台」と題する地図帳を完成した。大航海時代の探検によって得られた地理的 情報と、印刷技術の発達と相俟って傑出した初の本格的な近代的地図帳であった。 1570年版地図帳の巻頭を飾る世界図には、北方上辺と南方下辺に仮想の大陸が大きく描かれている。同図の両大陸の正体が明らかにされた新世界図が 出現するまでには、更なる多くの探検の成果を待たねばならなかった。 166年 大秦国王安敦(あんとん) (マルクス・アウレリウス・アントニヌス、ローマ皇帝在位161~180年、五賢帝最後の皇帝) の使者と称する者が 日南に来る。 274年 日本・伊豆国で建造された「枯野(かれの)」は我が国の船名の起こり。
395年 ローマ帝国、東西に分裂する。 452年 海運共和国ヴェネツィア(自由港市)が建設される。 470年 西ゴート王国、スペインの大半を征服する。 517年 ベルギー、アントワープ港の港誌文書が作成される。 584年 隋の文帝 (楊堅ようけん; 在位681~604年)、大運河の建設を開始する: 広通渠(こうつうきょ)(584年)、山陽とく(587年)を建設する。 605~610年 隋の煬帝 (ようだい; 在位604~618年)、華北と江南を結ぶ大動脈である大運河を完成する: 黄河と淮河(わいが)とを結ぶ 通済渠(つうさいきょ)(605年)、黄河から北京にいたる永済渠(えいさいきょ)(608年)、朝貢と余杭(よこう)(杭州)を結ぶ江南河(610年)などを 建設した。かくして、江南の経済地域は政治・経済的に首都・大興城(だいこうじょう)(長安)に結びつけられた。運河の建設には数百万人の 農民が酷使され、また特別の重税が課せられた。 607年 第一回遣隋使船にて小野妹子が初めての遣隋使として大陸の隋に派遣される。翌年に答使斐世清と帰国する。 630年 第一回遣唐使船が大陸へ渡る。 650年~1150年 ヴァイキングがしきりにイギリス、ヨーロッパ大陸の海岸に侵入する。 630年 遣唐使始まる。 671~695年 唐の僧・義浄(ぎじょう)、インド旅行を行なう。 700年 8世紀には、ペルシア湾奥のバスラがアラビア人の東方地域(インド、東南アジア、シナ)への航海起点として繁栄する。
711年 北アフリカのモーロ人(イスラム教徒)がスペイン(当時は西ゴート王国)に侵入する (ヘレスの戦い)。西ゴート王国が滅亡する。
714年頃 広州に市船司(しはくし)が置かれる。宋代には各海港都市に置かれる。 756~1031年 後ウマイヤ朝 (首都: イベリア半島コルドバ)。 789年 ヴァイキングの活動が最も盛んになる。ノルマン人が初めてイギリスに侵入する。このため、900年頃にイギリスは海軍を 建設する。 8世紀頃 イスラム世界において方位測定用のアストロラーベが開発される。 800~1000年 ノルマン人、バイキングとして各地に遠征航海を行う。 867年 ノルマン人、アイスランドを発見する。 982年 ノルマン人、グリーンランドを発見する。 894年 菅原道真の進言により遣唐使の派遣が中止される。
1000年代(西暦11世紀) 1000年頃 中国で羅針盤、火薬が発明される。 1000年頃 ヴァイキングの航海者レイフ・エリクソン(リーフ・エリクソン; 赤毛のエーリックの息子)が北米大陸の海岸 まで航海し、上陸する。 1031年 後ウマイヤ朝滅亡する。 1035年 アラゴン王国独立する。
1066年 ノルマンのイギリス征服。 1096~1291年 キリスト教徒が「十字軍」の遠征を行う。
1100年代(西暦12世紀) 1100年頃 中国において、航海用の羅針盤が発明される。羅針盤は、12世紀に、中国で、水浮き式と方位盤が一体化したが、その後ヨーロッパでは これが改良されて円盤上に磁針をおくという方式に発展した。 1139年 ポルトガル王国成立する(アルフォンソ)。1143年 ポルトガル王国独立する。 1170年 平清盛、福原で宋と貿易を開始する。 1185年 壇の浦海戦。 1187年 仁和寺の古文書に現われた「坂東丸」は船名に丸のついた最古の記録である。 1194年 イタリアで海上保険制度が行われる。
1200年代(西暦13世紀) 1206年 海運共和国ジェノヴァの勢力が増大する。ヴェネツィアとの勢力対峙が激化する。 1206~27年 チンギス・ハーンがモンゴル帝国を建設し、1242年までには中国から東ヨーロッパまでの地域を支配する。 1223年 北条義時が「廻船式目」を制定する。 1230年 カスティーリャ・レオン両王国、合併する。 1230~1492年 ナスル朝。 1235~51年 グラナダを除くイベリア半島のすべての地域からイスラム勢力を駆逐する。 1241年 北欧の諸自由都市が、主に海賊に対して協働して商船を防御するために、ハンザ同盟を創設する(~1630年)。 1270年 ヨーロッパの航海者らも羅針盤を使用するようになる。
1271~95年 ヴェネツィア出身のマルコ・ポーロ(出立時17歳)、1271年に父・叔父とともに陸路で東方旅行に出発する。
アジア内陸部をたどりモンゴル帝国へと旅する。同帝国のフビライ汗(カーン)に17年間仕え、泉州から海路で帰途に就いた。帰国後旅行談を
口述筆記したものを基に「東方見聞録」を完成させる。これによって、ヨーロッパの人々は、東洋へのルートの詳細、中国の東方に「黄金の国ジパング」
の存在を知ることになった。 1274年 元寇(げんこう): 元・高麗の連合軍3万余・艦船900隻が、日本・北九州に侵攻する(文永の役)。 1275年 マルコ・ポーロら、大都にいたる。フビライ・ハンに仕える(1275~92年まで)。イル・ハン国に嫁ぐ王女を送り届けるために、 海路帰国の途に着いた。ホルムスから陸路をたどり、1295年ヴェネツィアに帰国する。 帰国後、1299年「世界の記述(東方見聞録)」を著す。 1280年頃 日本の西海の民衆が、中国大陸、朝鮮半島方面に略奪目的で船で出掛け猛威を振るう。「倭寇」として恐れられ、約280年間 続く。 1281年 元寇: 元・高麗軍と旧南宋の江南軍の連合軍14万余・艦船4400隻が、再び日本に侵攻する(弘安の役)。 1294年 マルコ・ポーロ、シナからヴェネツィアへ帰国する。磁気コンパスをヨーロッパに伝える。
このページのトップに戻る/Back to the top of this page 1300年代(西暦14世紀)1300年頃 港・海岸線を示したポルトラノ海図が盛んに作成される。 1300年頃 ヨーロッパで航海用のアストロラーベが開発される。 1300年 「コグ」と呼ばれる船がドイツ諸都市の貿易に活躍を始める。 1325~54年 モロッコのイスラム教徒・旅行家のイブン・バトゥータ、1325年からアフリカ・アジア・ヨーロッパを旅する。 その行程は約12万㎞に及ぶ。1346年、大都にいたる。旅行記「三大陸周遊記」を著す。 1339年 英仏百年戦争が始まる。 1341年 ポルトガル人、カナリア諸島に到達する。 1342年 レヴィベン・ゲルソンによって、クロス・スタフを発明する。(→ 1400年頃) 1356年 イブン・バットゥータ、「イブン・バットゥータ旅行記」を記す。 1394~1460年 ヘンリー航海王子(生誕~死去)。 14世紀前半 マルコ・ポーロ「東方見聞録」を記す。
1400年代(西暦15世紀) 1400年頃から「カラック」が盛んに用いられる。 1400年頃 長棒に短棒を十文字に交差させた十字棒(クロス・タフ cross staff、愛称「ヤコブの杖」)をもって、地平線上の 押しの高度角を測定し、緯度を算定する方法が確立される。(→ 1342年) 15世紀初めからポルトガルは、アフリカ西岸を南下し、インドに到達すべく探検航海を繰り返し、大航海時代が到来する。 15世紀 横帆船と縦帆船とを組み合わせたキャラベルやキャラックといった新型の帆船の開発によって、ポルトガル人のアフリカ 大陸周回航路、コロンブスの大西洋横断航海が可能になった。 15世紀初め 倭寇の切り込みを防ぐために、船の四周を堅い蓋板で、屋根を鉄で覆った亀甲船が考案される。李舜臣(りしゅんしん)は 壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱の実践時に亀甲船を用いて日本水軍に壊滅的打撃をもたらした。 1401年 足利義満が明との貿易を始める。 1404年 中国・明が、日本に対して倭寇の禁止と明への入貢(にゅうこう)を促したために、日明間で勘合貿易が始まる。 この貿易で大量の銅銭(永楽通宝など)が輸入され、貨幣経済に大きな影響を与える。 1405~33年 中国明代の鄭和(ていわ)、大船団をもって7回にわたって「南海遠征」を行なう。 南シナ海、インド洋を経由してアフリカ東岸などへ航海する。 因みに、第1回遠征では、62隻・27,800名の隊員で構成されていたとされる。 1415年 ポルトガルの国王ジョアン1世の第三子のエンリケ航海王子、南東対岸の北アフリカ沿岸にある要地セウタを攻略する。 その後戦略を転換し、アフリカ大陸西岸を南下する航路の開拓に傾注した。彼自身は航海をしなかったが、ひたすら航海者らの育成、 航海技術の向上、航路開拓に励んだ。サグレス岬に航海学校を設立したとされる。 1415年 エンリケ航海王子、ボヤドール岬に船隊を派遣する。 1418年 エンリケ航海王子、ポルトガルの南西端サグレス岬に航海学校、天文台などを設立し、地理・航海・造船・ 天地誌学などに関する研究を行ない、またそれらを学ばせ、航海者を育成し、アジアへの海上ルート開拓を期して、 アフリカ西岸方面へ探検航海者を派遣し始める。後に、ポルトガルによるアフリカ南端迂回とインドへの航路開拓と海外発展 への道を開いた。 1418年 エンリケ航海王子(Prince Henry the Navigator; 1394-1460)、ジョアン・ゴンサルベス・ザルコに西アフリカ沿いにできるだけ南下することを命じた。 彼は現在のマデイラ諸島に漂着する。その後、ブドウ、サトウキビなどが移植される。 1420年 平面海図と羅針盤(コンパス)が初めて航海に実用される。 1427年 エンリケ王子、アゾーレス諸島を確認する。 1431年 ポルトガル人、アゾーレス諸島を探検する。 1432年 ジル・エアンネスは、エンリケ航海王子の命によりナン岬を越えて南下すべく航海を試み一度は失敗していたが、 1432年に再び出帆しした彼は、ナン岬を越え、1434年にはそのはるか南方のボヤドール岬(ボハドル岬)に到達することに 成功した。 1441年 ヌーニョ・トリスタン、ブランコ岬に達する。 1442年 ディニス・ディアス(バルトロメウ・ディアスの父)、セネガルのヴェルデ岬に達する。 1445年 ポルトガル人、ヴェルデ岬に到達する。 1453年 オスマン・トルコ、コンスタンチノープルを占領する(東ローマ帝国が滅亡する)。東地中海における交易がトルコによって独占され、東方からの交易品が値上がりもしたため、 インド航路開かれることへの期待が高まる。1339年からの「英仏百年戦争」が終わる。 1456年 ギニア湾に到達する。 1460年 ポルトガル王子エンリケ航海王子没する(1394年~)。 1471年 フェルナン・ゴメス派遣の探検隊、黄金海岸発見する。 1474~1504年 カスティーリャ王国、女王イサベル。 1479年 カスティーリャ・アラゴン両王国が合同し、スペイン王国が成立する。 1479年 スぺイン・ポルトガルが「アルカソヴァス条約」を締結し、カスティーリャはカナリア諸島以外でのアフリカ西岸地域で 行動することが不可能となる。 1480年 ドイツ人マルチン・ビーハイム、アストロラーベを航海用に改作する。 1481~95年 ポルトガル王ジョアン2世在位する。 1482年 ディオゴ・カンがコンゴ河口を探検する。→ ポルトガル人、ギニア海岸に到達し、この地方を「エル・ミナ」 と称して要塞を築く。 1482年 プトレマイオスの著作に基づいて、1482年にプトレマイオスの地図がドイツで印刷される。確認された世界地理 と空想上のそれとが混じり合っている。 1485年、 ポルトガル王ジョアン2世、アフリカ西岸南下を推進し、船隊を派遣した。1485年にはコンゴ王国にいたる。1486年には ニジェール河口にあったベニン王国に到達した。内陸部にあるという伝説のキリスト教徒王国の話を聞く。 ジョアン2世はこのプレスター・ジョンと連絡をとろうと、1487年2組の使節を派遣した。 1487~88年 ポルトガル人探検家バルトロメウ・ディアス(Bartholomeu Dias)、1487-88年の航海で初めてアフリカ南端を回航し、アフリカ 大陸の東岸を北方へ航海したことに気付く。
1488年 バルトロメウ(バーソロミュー)・ディアス(Bartolomeu Dias; 1450?-1500)、ヨーロッパ人として初めて、アフリカ南端の喜望峰を
越えインド洋へ回航した。激しい嵐の中で知らないうちにアフリカ大陸南端を迂回していたことを認識した。航海の続行は彼の部下の反対で断念し、
船を反転させ帰国の途についた。南端を「嵐の岬」と名付けたが、後にポルトガル国ジョアン2世は「喜望峰」と改名した。 1492年 スペイン、イベリア半島南部のグラナダを陥落させ、スペイン統一を完遂する。スペインのレコンキスタ運動が終わる。 1492年4月17日 クリストファー・コロンブス(ジェノバ生まれ)とカトリック両王との間で、「航海に関する協約」 (Capitulaciones de Santa Fe)が、サンタ・フェ(Santa Fe)(スペイン・グラナダ県にある町)で結ばれる。 1492年 クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus; 1451-1506)、トスカネリの大地球体説を信じ、スペインのイサベル女王の財政 支援を受けて、「サンタ・マリア号」(旗艦)、「ピンタ号」、 「ニーニャ号」の3隻をもって、インディアを目指して、同年8月3日に約90名の乗組員にて、第1回航海(1492~1493年)に出立する。 当時の海洋先進国であったポルトガルの航海探検船でさえも、アフリカ大陸西岸を舐めるように南下の航海をしていた時代にあって、外洋航海に挑むことは 大変画期的なことであった。大西洋を西航し、ついに同年10月12日西インド諸島のバハマ諸島の中のサン・サルバドール島を陸地視認し上陸し、 もって「新大陸」に到達する。当時の世界図では「現在のアメリカの位置に中国や日本が描かれていた」ために、彼はそこがジパングであると思い込んだ。 コロンブスは合計4回の航海を行ない、彼が到達した中南米・カリブ海の地が東洋の地インディアスであると、他界するまで信じていた。 第2回航海以降、発見地の植民地化、先住民に対する奴隷としての酷使、略奪と虐殺を行い、さらにスペイン人が持ち込んだ伝染病の流行のために、 先住民5万人以上が犠牲者となったとされる。 1493年 教皇アレクサンデル6世、大西洋上にスペイン・ポルトガル間の教皇境界線を設定する。 1493年 コロンブス、第2回航海。~96年。
1494年 スペイン・ポルトガルは、1494年法王の勅許により「トルデシリャス条約」を結ぶ。境界子午線の西側はスペイン領、東側はポルトガル領とされる。
即ち、同条約によって、ベルデ(Verde)岬諸島の西370レグアス(leguas)の地点に分界線を引き(西経50度の子午線をもって)、
その東側をポルトガル、西側をスペインの独占的航海域として分け合い、そこでなされる全ての新発見に対する独占権を
もつこととなった。スペイン・ポルトガルは同条約によって、1493年の領土境界線に対する修正につき合意したことになる。 1495年10月 ポルトガル王ジョアン2世没する。マヌエルが後継する。 1497年 ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama; 1460?-1524)、リスボンを出港する。1498年5月1日インドの陸地を望見する。そしてカリカット近くの港に入港する。カリカットでの 香辛料貿易はイスラム商人の支配下にあり、ポルトガル人は交易相手にされず、出港税を踏み倒しての退去を余儀なくされた。 1497年 アメリゴ・ヴェスプッチ、南米を探検航海する(~1499年南米到達)。イタリア人ジョヴァンニ・カボット、カナダに到達する。 1498年 ポルトガル人バスコ・ダ・ガマ、喜望峰を周回し(1497年)、1498年にインドのマラバール海岸のカリカットに到達、インドへの 航路を開拓する。船隊は4隻120名の乗組員から構成された。航路開拓により、リスボンでの胡椒の価格はベネチアでのそれの半値以下となり、 ヨーロッパ・アジア間の交易のルートはインド航路に移行することになる。 1498年 ジョヴァン・カボット、北米海岸(ニューファウンドランド)に到達する。 1498年 コロンブス、第3回航海。~1500年。 1499年 アメリゴ・ヴェスプッチがオヘーダと共に、南米東岸を航海する。後に、彼の報告書から新大陸の名前「アメリカ」が生まれる。 1499年 スペイン人ピンソン、ブラジルに到達する。
[参考]
[参照]コグ: 北欧系の代表的な帆船; 主としてハンザ同盟時代に用いられた標準的な船; ハンザ同盟のコグ船を⌈ハンザコグ⌋ということがある。 ● コカ: [スペイン語] coca [中世における、北欧やドイツのコグに相当する地中海の船]。
● カラッカ、カラック、キャラック [昔の、スペイン・ポルトガルの大型商船]: [スペイン語] carraca; [英語] carac, carack, carrack.
● カラベラ、カラベーラ、カラベラ船、カラベル、カラヴェル、カラベル船、キャラヴェル船: [スペイン語] carabela;
[英語] caravel, caravelle, carvel。 [参考]15~16世紀頃、スペイン、ポルトガル、トルコなどで用いられた3本マストの快速軽快な小型帆船; コロンブス (Colón)の第1回航海に参加した"la Pinta"(ピンタ号)と"la Niña"(ニーニャ号)の随伴船はこのキャラヴェル船型であった。 旗艦"la Santa María"(サンタ・マリア号)はナオ船(nao)に類型され、前者の2船よりも少し大型であった。マゼランたちもこのキャラヴェル船を用いた。 尚、サンタ・マリア号は、カラック、キャラック船とも類型される。
尚、カラベーラ・ラティーナ(西語 carabela latina)、ラティーン・カラヴェル(英語 lateen caravel)は、2~3本の全てのマストに縦帆の
三角帆(ラティーン・セール lateen sail)をもち、逆風に対して切り上がることができる。
キャラヴェル・レドンダまたはカラベーラ・レドンダ (スペイン語: carabela redonda) は、前者を改良したもので、前檣(フォアマスト)または
大檣(メインマスト)に横帆(四角帆)を、最後檣(ミズンマスト)にラティーン・セールを掛けている。
● ナオ、ナオ船; [文語][一般的に]船: [スペイン語] nao. ● ガレオン、ガレオン船: [英語]galleon [15~18世紀初め、スペインによって主に軍船として、又商船としても用いられた3~4層甲板の 大型横帆船].
このページのトップに戻る/Back to the top of this page 1500年代(西暦16世紀) 1500年 ポルトガル人カブラル、大西洋をインドに向けて航海する途上、時化に遭遇しブラジルに漂着する。 1501~1502年 アメリゴ・ヴェスプッチ、ブラジルの海岸を踏査する。 1502年 コロンブス、第4回航海。~1504年。 1502年 黒人奴隷貿易始まる。 1503年 アメリゴ・ベスプッチ、「新世界」を刊行する。 1507年 ヴァルトゼーミュラー、「世界図」を刊行する。新大陸が「アメリカ」と命名され、彼の世界地図に初めて「アメリカ」という地名で 掲載される(但し、アメリカとして描かれているのは南アメリカ大陸だけである)。
1505年: セイロンを占領する。 1509年: ディウ沖の海戦でマムルーク朝の海軍と戦い、これを破る。 1510年: ポルトガル人アルブケルケ(インド副王)、インドのゴアを占領する。 1511年: マレー半島のマラッカを占領する。 1511年: モルッカ諸島に到達する。 1515年: ペルシアのホルムズを占領する。 1517年: 中国の広州で通商を行なう。 1511年 ディエゴ・ベラスケスがキューバ島ハバナに町を建設した。 1513年 バルボア、パナマ地峡を横断し、ヨーロッパ人として初めて南北アメリカ大陸から「南の海」(現在の太平洋) を望見し、太平洋にいたる。 1513年 ポルトガル、ギニアで奴隷貿易を開始する。その結果、ベニン王国、奴隷貿易で繁栄することになる。 1516~56年 カルロスI世(ドイツ皇帝としてはカール5世) 1516~1700年 スペイン、ハプスブルク家。 1517年 コルドバ、ユカタン半島へ。若くしてキューバ島の征服に参加したことのあるコルテスは、ベラクルスを建設し、メキシコのアステカ 帝国を征服した。
1519~1522年 スペイン国王の委任にて、1519年ポルトガル人マゼラン(マガリャンイス)が率いる航海探検船隊が西廻りでアジアを目指し、
世界周航を期してスペインのセビリアを出港する。途中、乗組員の反乱、「サンティアゴ号」の沈没、パタゴニアでの越冬、マゼラン海峡での強風と
複雑な水路の踏破、「サン・アントニオ号」の無許可の離脱・帰国、太平洋横断における極端な食糧不足と壊血病罹患との闘い、泥棒に苛まれたグアム島での
苦難などを経て、船隊は人類史上初めての世界一周を成し遂げ、1522年に本国に帰還した。
マゼラン自身は、フィリピンのマクタン島(セブ島の隣島)でキリスト教の布教を始めたために、ラプラプの原住民と戦闘となり、彼らとの戦いで
負傷するにいたり、1521年4月27日に現地で没した。残りの船隊はエルカーノの指揮の下で航海を続けた。途中「トリニダード号」は浸水し、最後の一隻
である「ビクトリア号」で航海を続行した、ビクトリア号船長を務めたエルカーノらは、1522年9月にセビリアに帰還し、人類史上初めて世界
周航を果たした。生還者はわずか18名であった。 1519年 新大陸の征服に乗り出したスペイン人・コルテスは、新大陸の内陸部への探検拠点として、メキシコ最初のスペイン人の町ベラクルスを建設した。アステカ帝国に到達すると、 皇帝を人質に捕り、帝国中の財宝を集めさせ、翌年1520年帝国を滅ぼした。 また、ピサロはペルーへ遠征し、インカ帝国の存在を確認すると、コルテスのアステカ帝国の時と同様に王を騙して人質とし、金銀を略取した後帝国を 滅ぼした。1500年代中頃に現在のボリビアのアンデス山中にてポトシ銀山が発見されると、スペインはインディオを酷使して開発し、スペインを中心とする 世界に銀が流通することになった。 1520年頃 瀬戸内海では、伊予水軍、因島水軍などのような私設の海軍が発達し、海賊衆と称される。 1521年 スペイン人コルテス、メキシコのアステカ帝国を滅ぼす。アステカ帝国滅亡する。 1522年 ドミニコ会士バルトロメ・デ・ラス・カサス、「インディアス破壊小史」を発表し、スペイン人による先住民への虐待を非難する。 その結果、インディオの奴隷化は禁止に向かうが、プランテーションなどでの労働力を必要とした中南米地域などでアフリカ黒人奴隷の「輸入」 を促進することになる。 1522年 マゼラン(ポルトガル人)の航海探検船隊、世界一周をなしとげスペインに帰還する。 1524~33年 スペイン人ピサロの遠征隊、1533年にインカ帝国を滅ぼす。 1529年 「サラゴサ条約」にて、モルッカ諸島はポルトガル領とされる。 1532年 ピサロ、インカ帝国を征服し、リマを建設する。その後、コンキスタドールたちの土地は、スペイン王室による新総督の任命で 同王室の支配下に置かれる。1533年にインカ帝国滅亡する。 1533年 ピサロ、ペルーを征服する。インカ帝国滅亡。
1534年 イエズス会成立。 1535~36年 フランス人ジャック・カルティエ、セントローレンス川を探検する。 1537年 ポルトガル人がマカオに植民を開始する(1557年、マカオ居住が許可される)。 1540年代 アンデス山中のポトシ、メキシコのサカテカスなどにおいて銀鉱山が発見され、16世紀後半には大量の銀が採掘され、 多くはキューバのハバナに集積され、ガレオン船団でスペインのセビーリャへと運ばれた。 1541~42年 スペイン人オレリャーナ、アマゾン河を探検する。 1542年 ラス・カサス、「インディアスの破壊についての簡潔な報告」。 1542年 ルイ・ロペス・デ・ビリャロボス、太平洋探検。 1543年 ポルトガル船が、明国の寧波(ねいは)経由にて種子島に漂着する。鉄砲が伝来する。ポルトガル船が薩摩に来て交易を求める。 1545年 スペイン、ペルー副王領のアンデス山中のポトシ銀山で採掘を開始する。 1549年8月 フランシスコ・ザビエルが日本に来航、鹿児島に上陸する。キリスト教を伝える(キリスト教の伝道)。ザビエルはイエズス会を創立し、キリスト教の 世界布教に乗り出していた。当時ポルトガル領であったインド西岸のゴアへ派遣され、ここを拠点にアジア各地への布教活動を行った。 1550年 デンマークの天文学者テイヒョ・ブラーエが六分儀を発明する。 1555年 「倭寇(わこう)」の活動が盛んに行われる。 1556年 フランダースの地理学者メルカトールが漸長緯度(ぜんちょういど)海図を創案する。 1564~1565年 ミゲル・ロペス・デ・レガスピ、フィリピンに遠征。1565年レガスピ、ラドロネス(マリアナ)諸島の領有を宣言する。 1568~1648年 ネーデルランド諸州がスペインに対して反乱を起こし戦争となる(1609-1621年の12年間の休戦をはさむ)。 オランダ独立戦争とも呼ばれる。1648年のヴェストファーレン条約によって北部諸州は独立が承認される。 1569年 地理学者メルカトル、航海用に緯度と経度を示す世界地図を考案する。 1570年 アブラハム・オルテリウスは「世界の舞台」と題する近代的な地図帳を完成した。大航海時代の探検によって得られた地理的 情報と、印刷技術の発達と相俟って傑出した初の本格的な近代的地図帳であった。 1570年版地図帳の巻頭を飾る世界図には、北方上辺と南方下辺に仮想の大陸が大きく描かれている。同図の両大陸の正体が明らかにされた新世界図が 出現するまでには、更なる多くの探検の成果を待たねばならなかった。 1571年 ミゲル・ロペス・デ・レガスピ、マニラ市を建設する。 1571年 レパントの海戦: スペイン・ヴェネツィア連合艦隊(神聖同盟のキリスト教軍)とオスマン・トルコ帝国艦隊とが、 ギリシア西部のレパントの沖でそれぞれ200隻以上の艦隊をもって海戦を行ない、キリスト教軍側の連合艦隊が勝利を収める。 史上最後のガレー船による大海戦となった。 1571年 スペイン、フィリピン・ルソン島のマニラを占領する。 1571年 長崎が外国貿易港として開港される。 [参考]1573年、織田信長が将軍足利義昭を京都から追放する。1582年、羽柴(豊臣)秀吉が太閤検地を開始する(~1598年)。1588年、豊臣秀吉が刀狩令を 発布する。1590年、徳川家康が江戸城に入る。1591年、豊臣秀吉が朝鮮に出兵する(文禄の役)。1597年、秀吉が再び朝鮮に出兵する(慶長の役)。 1576~1632年 フロピッシャー、ハドソン、バフィンらの英国の航海者がアジアにつながる北西航路を探索する。 1577~80年 イギリス人フランシス・ドレークが5隻の船隊をもって、1577年に世界周航に出港する。マゼラン海峡を通過し、太平洋に出るも大しけに 遭遇しホーン岬海域を経て現在のドレーク海峡を航海した。その後、南米東海岸沿いにスペイン船への海賊行為をしながら 現在のサンフランシスコあたりまで北上する。その後太平洋を横断し、セレベス島を経て、インド洋を横断、希望北極海を迂回して、1580年イギリスに 帰着する。 1580年 スペインがポルトガルを併合する(同君連合)(~1640年まで)。 1581年 オランダ、独立宣言する。
1582年 天正少年使節、渡欧する(~1590年)。 1588年 イギリス・スペインの大海戦(「アルマダ海戦」)で、英国がスペインの無敵艦隊を撃破する: スペイン・フェリペ2世の130隻からなる無敵艦隊(ガレー船を主力とする)と、 英国エリザベス女王の機動力を重視した小型船中心の英国・オランダ連合艦隊との海戦において、スペイン艦隊が敗北を帰す。 スペインの黄金時代の終焉を迎えることにつながり、オランダはポルトガルの世界での勢力範囲を凌駕して行くことになる。 1590年 豊臣秀吉、天下統一。1615年豊臣氏滅亡する。 1592年 豊臣秀吉、朱印船貿易を始める。
1592年 文禄・慶長の役(壬申・丁酉倭乱)(~1598年)。
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海事関連略年史 ( I ) Ocean-related Affairs Chronology (I)
人類のフロンティア海洋における探求の系譜
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