プトレマイオスはギリシア生まれの天文・地理学者、数学者である。正式には、クラウディウス・プトレマイオス(または、クローディアス・
トレミー Claudius Ptolemaeus or Ptolemy; およそ西暦100~170年)である。
プトレマイオスが2世紀に著わした「地理書(Geographia)」8巻は、地誌的内容を著述する書ではなく、世界図作成のための書であった。即ち、
球体である地球の球面を平面に描くための投影法の一つである「円錐図法」などの地図の作り方について記述する。
そして、「地理書」は一枚の世界図と26枚の地域図からなる。その世界図は、投影図法による経緯線を用いた世界で最初のものであり、そこには
8,000にのぼる場所について経緯度での位置が示されていた。
何故、プトレマイオスが紀元後2世紀(紀元後150年頃)に製作した世界図(画像1)を現代において見ることができるのか。「地理書」のギリシア語での手書きの写しなるものが、コンス
タンチノープル(現イスタンブール)からイタリアへもたらされていたが、その原本なるものが15世紀になって再発見された。
先ず、ルネサンス期のヨーロッパにおいて、数多くの写本を通じて復活することになり、一部の写本には世界図と地域図が付されていた。
さらには、15世紀後半のルネサンス期の地図製作者たちによって、当時新たに開発された印刷術をもって「地理書」が出版された。かくして、
同書の印刷にともない、世界図がルネサンス期に蘇るにいたった。
プトレマイオスの世界図は、比較的正確に描かれたヨーロッパ部分に比べ、東方の形状は極めて不正確である。また、
アフリカの赤道以南では、その最南端の陸地は東方に向けて地図下辺をはうようにして伸び行き、アジア東端において南方に伸びる陸地と繋がれている。
つまり、インド洋が大きな内海のように取り囲まれるという、想像の世界が描かれている。現在のスリランカに当たるセイロン島は異常に大きく描かれ、
インドは半島の地形をなさない。アジアの東端は知られていなかった。当時のギリシアでは、「北半球に大陸があるなら、南半球でも大陸がある」と
単が得られたため、架空の「南方大陸」が描かれていた。
また、世界図ではヨーロッパと中国との経度差を実際よりも大きく見積もっている。因みに、カナリア諸島から中国までの距離を経度幅180度
にて描いており、50度ほど広く伸長したものとなっている。従って、当時の航海者が、ヨーロッパから西回りで中国へ至るまでの距離を実際
よりもずっと短く解釈することになったのも不思議ではなかった(画像参照)。
赤点線で囲まれた範囲がプトレマイオスの世界図で示された地理的領域である。プトレマイオスの世界図は、紀元後2世紀以来、15世紀から始まった大航海
時代の一時期まで人々の世界地理観を支配した。
プトレマイオスの世界図には、ヨーロッパからアフリカ大陸西岸を南下し、大陸を回航してインド洋に行き着けることを示すアジア航路は何ら
示されていなかった。だが、ポルトガルのジョアン1世の子・エンリケ航海王子は、アジアへ到達できる航路の開拓の可能性を求めて、
次つぎと航海探検家を送り出した。彼は既に1460年11月に没していたが、ついにポルトガル人探検家バルトロメウ・ディアス(Bartholomeu Dias)
にして、1487-88年の航海で初めてアフリカ南端を回航したことに気付くに至った。かくして、アフリカ大陸東岸に広がるインド洋へ航海できる
ことを発見し、プトレマイオスの地理的世界観に画期的な変革をもたらした。
少し時を早送りするが、オルテリウスは、1570年に「世界の舞台」と題する地図帳を完成した。大航海時代の探検によって得られた地理的
情報と、印刷技術の発達と相俟って傑出した初の本格的な近代的地図帳であった。
1570年版地図帳の巻頭を飾る世界図には、北方上辺と南方下辺に仮想の大陸が大きく描かれている。同図の両大陸の正体が明らかにされた新世界図が
出現するまでには、更なる多くの探検の成果を待たねばならなかった。